第2話:チョモランマの火喰い鳥
「おいお嬢様。そこ、俺の特等席なんだが」
標高八八四八メートル、チョモランマ宇宙港の最外縁デッキ。
凍てつく暴風が吹き荒れるその場所に、不釣り合いな高級トレンチコートをまとった少女が立っていた。
プラチナブロンドの髪を寒風に躍らせ、彼女は手にした端末のホログラムを睨みつけている。
「……話しかけないでちょうだい。今、ルナ・セクターから支給された最新テンソル計算機の最高周波数特性を計測しているの。秒間テラフロップスを超えるこの数式が導き出す絶対座標こそが、サピエンスの未来を――」
少女――ナナは、こちらを振り返りざまに、フンスと鼻を鳴らして胸を張った。
数字しか信じない冷徹なエリート監査官。それが彼女の肩書きだ。
だが。
「……あ」
ドサリ、と間抜けな音が響く。
偉そうな大演説の途中で、ナナはデッキのわずか数センチの段差に思いきりつまづき、見事な放物線を描いて石畳に転がった。
手から滑り落ちた最高級の計算機が、無情にもコロコロと転がっていく。
「う、嘘……私のテンソル計算機が……!」
「ほらよ」
レインストは、崖の手前で計算機を足でトラップし、拾い上げてナナに差し出した。
ナナは泥だらけの顔を真っ赤に染め、ひったくるようにそれを受け取る。
「な、何よその目は! これは不可抗力よ! チョモランマの重力加速度が局所的に歪んでいただけで――」
「はいはい。それよりお嬢様、早く室内に戻った方がいい。鳥が鳴くぞ」
「鳥? 何を言っているの、この高度に生物が生存できるわけ――」
その瞬間、宇宙港の底から、すべてを圧殺するような重低音の「鳴き声」が響いた。
キィィィィィィィィン――!!
鼓膜を裂く高周波。同時に、足元のデッキが真っ赤に融解し始める。
チョモランマ宇宙港を維持する熱核融合炉のバイパスが破綻したのだ。漏れ出した「終末熱」が、津波となってデッキへ競り上がってくる。
「警告! 臨界熱量、計測不能! 熱対流停止まで、残り九〇秒!」
赤色灯が回り、サイレンが鳴り響く。
ナナは青ざめ、必死に計算機のキーを叩いた。
「嘘、熱対流の熱力学的テンソルが破綻してる!? 計算が、計算が追いつかない……! どうすればいいの、あと九〇秒でこの港ごと私たちが蒸発するわ!」
パニックになり、涙目で計算機を連打するエリート少女。
その横を、レインストは無言ですり抜けた。
「下がってろ、お嬢様」
レインストは、真っ赤に焼けた手動バルブの前に立つ。生身の手がジリジリと焼ける臭いがしたが、眉一つ動かさない。
「現場の『熱』ってやつはな、お前の大好きな綺麗な数字じゃ動かねえんだよ」
レインストの手が動いた。
流れるような職人技。泥臭く、しかしミリ単位の狂いもないバイパスの強制バイパス制御。
レインストの脳内には、マニュアルにはない「チョモランマの癖」がすべて刻まれている。ガチガチと狂ったように叩きつけられるレインストのレバー操作に連動し、暴走していた熱の奔流が、生き物のように一本の細い逃げ道へと誘導されていく。
ゴォォォォ……ッ!
一際大きな熱の吐息を漏らし、真っ赤だったデッキが、急速に黒い金属の肌を取り戻していく。
静寂が、戻った。
「対流停止……? 嘘、数式を介さずに、この熱量を一人で手懐けたの……?」
ナナは呆然と、煤まみれになったレインストの背中を見つめていた。
手にした最高級の計算機は、エラーの文字を点滅させたまま、完全に沈黙している。
「地球の寿命が縮んだな」
レインストは焼けた手のひらをポケットに突っ込み、空を見上げた。
そこには、人類最後の希望である超大型ワープ船『アーク・クラス』が、静かにその巨体を横たえている。
「お前が何しにルナ・セクターから来たかは知らねえが――大人しく俺の船に乗る準備でもしとけ、お嬢様」
レインストの不敵な笑みに、ナナは言い返す言葉を失い、ただ、その無骨な背中を強く、強く、瞳に焼き付けていた。(第3話に続く)




