第34話:十三光年の眠り姫
肺が焼けるように冷たい。
「……っ、ごほっ、げほっ……!」
喉の奥にへばりついていた不凍ゲルを吐き出しながら、私は荒い息を繰り返した。
視界が激しく点滅している。
青白い緊急灯の点滅、キンと鼓膜を刺す低圧アラートの残響。
思考が追いつかない。
確か、私たちは――超伝導コイルが焼き切れて、凍りつくキャビンの中で肩を寄せ合って……。
「……レインスト? アミィ……っ?」
震える指先で、身体を覆っていた保温シェルのロックを殴りつけるように解除する。
ガコン、と重い音を立ててカプセルが開いた。
吹き込んできた空気は、肌を刺すほど冷気配を帯びていたけれど、決して絶対零度の死の静寂じゃなかった。
「う、ぅ……ナナ……さま……?」
「おい……無事か、ナナ……!」
隣のカプセルから、苦しげな、でも紛れもなく聞き慣れた声が返ってきた。
アミィと、レインストだ。
生きている。
三人とも、ちゃんと心臓が動いている。
「レインスト……! ジャンパー、早く寄越しなさいよ……凍え死んじゃうじゃない!」
私は歯の根をガチガチと鳴らしながら、思わず怒鳴りつけていた。
恐怖をごまかすための強がりだって、自分でも痛いほどわかっている。
レインストが無骨な手で頭を掻きながら、よろめく足取りで歩み寄ってきた。
そして、ため息交じりに自分の分厚い【VALKANOR Ver.7】の防寒ジャンパーを、私の華奢な肩へと乱暴に被せてくる。
「へいへい、相変わらず目覚まし代わりに人使いが荒いこって。……生きててよかったぜ、お嬢様」
「当たり前でしょ! 私がそう簡単にくたばるわけないじゃない!」
ジャンパーから伝わってくる、懐かしい男の体温。
微かに混ざる機械油と金属の匂い。
胸の奥がきゅうっと締め付けられるような安心感に包まれて、私は袖をぎゅっと握りしめた。
泣きそうになるのを、必死で奥歯を噛んで堪える。
「……で? ここ、どこよ」
私はふらつく足でメインコンソールへ歩み寄り、冷え切ったキースイッチを叩いた。
七十三Kの演算核が、一瞬で眠りから覚醒する。
ホログラムのグリッドが空間に展開された瞬間、私は息を呑んだ。
「は……? ちょっと、何よこれ……!」
画面に表示された数値を見て、自分の目を疑った。
『地球相対距離:13.04光年』
『艦内主客観経過時間:1300年 03ヶ月 13日』
「せ、千三百年……!? じゅ、十三光年……!?」
背後から画面を覗き込んだアミィが、目を丸くして悲鳴のような声を上げた。
「ナナさま、これバグ!? だって私たち、四十光年先のTRAPPIST-1eへ跳んだはずじゃ……!」
「嘘でしょ……ログを逆アセンブルするわ……!」
私の指先が、流れるようにコンソールを走る。
思考速度を極限まで加速させ、船のブラックボックスを暴き立てる。
「……あいつ、あのバカAIめ……っ!」
「何が起きたんだ、ナナ!?」
「私たちがコールドスリープに入った直後よ。超伝導クエンチで船内が完全凍結するのを防ぐために、自律AIが残余エネルギーを全量放出して【盲目オートワープ】を敢行したのよ!」
計算も座標指定もない、純粋な緊急離脱ジャンプ。
その結果――アーク・クラス号は四十光年の彼方ではなく、地球からわずか十三光年という、ぽっかりと空いた空白の虚無宙域へと弾き飛ばされていた。
「悪運が強いっていうか……皮肉ね。地球からたった十三光年。……だからこそ、千三百年もの間、誰にも見つからずに済んだってわけね」
「十三光年の虚無で、千三百年の居眠りか……。随分と長く寝過ごしちまったな」
レインストが苦笑いしながら、コンソールの脇に転がっていた金属缶を拾い上げた。
アースサピエンスの供給食料――『ソルティ・ルミナス』の非常用パックだ。
プシュッ、と小気味よい減圧音が響く。
柑橘と塩気、わずかなカカオの混ざった独特の香りが、凍てついたブリッジにふわりと広がった。
「ほらよナナ、アミィ。千三百年熟成……とはいかねえが、喉を潤せ」
「……ん。ありがと」
手渡された缶に口をつけると、冷たい液体が喉を通り、胃の腑にじわりと温かい熱が灯っていく。
生きている。
私たちは、確かに未来に辿り着いたのだ。
その時だった。
『――ピン、ポーン……』
耳慣れない警告音が、静まり返ったブリッジに突如として鳴り響いた。
「敵襲……!? いや、通信リクエスト!?」
アミィが慌ててサブシートへ飛び込み、コンソールを叩く。
画面に映し出されたのは、アーク・クラス号に急速接近してくる、見たこともない鋭角的な小型高速艇の影だった。
『――応答願います! 緊急識別コード・アマテラス73を受信! そこにいるのは、本当に……本物の、始祖セレスティア様なのですか!?』
スピーカーから飛び出してきたのは、切羽詰まった若い女性の声だった。
「は……? し、始祖……? セレスティア様……?」
私が呆気にとられていると、通信の向こう側で男の慌てふためく怒声が割り込んできた。
『おいホノカ! いきなり全開通信するなよ! 軍閥の哨戒網に引っかかったらどうすんだ!』
『うるさいわねレオン! 千三百年ぶりに神話のビーコンが応答したのよ!? 黙って操縦桿握ってなさいよ!』
ツンツンと尖った少女の声と、それに振り回される少年の悲鳴。
……なんだか、どこかで見たことのあるような構図だ。
間もなく、エアロックが重い物理音を立てて強制ドッキングされた。
ハッチが勢いよく開く。
飛び込んできたのは、見慣れない軽量気密スーツに身を包んだ、二人の若い男女だった。
先頭の少女――紫がかった黒髪をきつく結び、勝ち気そうな吊り目を輝かせた少女が、私を見るなり息を呑んだ。
「……あ、本当に……神話のレリーフそのままの、小柄で……」
「ちょっとあんた! 初対面で小柄とは何よ小柄とは! 失礼ね!」
私が反射的に噛みつくと、少女――ホノカは、顔を真っ赤にしてフンと顎をそらした。
「な、なによ! べ、別にあんたのことなんて尊敬してないんだからね! ただ、アカデミーの歪んだ数理神学に反吐が出て、神話の原点を確かめに来ただけよ!」
「はぁ!? なんなのこの生意気なガキは!?」
「おいおい、初対面で喧嘩腰になるなよ……」
後ろの少年――レオンが、胃のあたりを押さえながら深いため息をついた。
その視線が、レインストの着ているVALKANORスーツと工具ベルトに留まり、パッと目を輝かせる。
「す、すげえ……本物の旧世代VALKANOR……! 手動バイパス配管の溶接痕まで生きてる……!」
「お、おう? 分かるのかボウズ」
「はい! 伝説の職人レインストの現場作業ログは、俺たちのバイブルですから!」
レインストが鼻を高くし、私の横でホノカがギリギリと歯を鳴らす。
なんだか酷く騒がしい連中が転がり込んできた。
「それで? 未来のサピエンスさんたち」
私は腕を組み、冷ややかな視線でホノカを見据えた。
「今の銀河はどうなってるわけ? 私の名前を使って、どんなお粗末な世界を作ってくれたのかしら?」
ホノカは悔しそうに唇を噛み締め、持参したデータ端末をコンソールへ叩きつけるように接続した。
「……最悪よ」
ホノカの声から、強がりが消えた。
「ナナアカデミーの上層部は悪徳軍閥と癒着して、あなたの残した『アマテラス理論』を兵器に劣化コピーしたわ。TRAPPIST-1eは海洋メガフロートの軍事要塞にされ、LHS 1140 bは超重力鉱山でサピエンスたちが酷使されてる」
画面に次々と映し出される、歪んだ星々の光景。
私の理論。私の方程式。
それが、サピエンスを縛り、奪い合うための道具に成り果てていた。
「あいつらは今、あなたの名を騙って『ケプラー452b』を独占するために侵略艦隊を集結させてるわ。……でもね」
ホノカが瞳を揺らしながら、私を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「アカデミーの最深部に、隠された神話の星の暗号があったの。……軍閥の誰も解けなかった、絶対不可侵の星」
ホノカの手が、暗号コードを展開する。
『アミィ77』
「……えっ!? わ、私の名前……!?」
アミィが素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。
「プロキシマでの土木作業ログ第77項……ふん、あいつら、アミィが末尾に残したノイズデータまで神話にしちゃったわけね」
私は画面の数式を一瞥し、不敵に唇の端を吊り上げた。
ただのおとぎ話じゃない。
ケプラーへの道中に実在する、冷え切った休眠惑星――。
私の七十三Kなら、その真の座標を暴き出すことなんて容易い。
「私の理論を勝手にコピーして星間戦争ごっこ? ……笑わせないで」
私は防寒ジャンパーの袖をまくり上げ、コンソールへ両手を叩きつけた。
全身の血が、怒りと歓喜で沸騰していく。
「世界のバグは、設計者である私が全部上書き(オーバーライト)してやるわ! 行くわよレインスト、アミィ! まずはその腐った軍閥のオモチャを、根こそぎデバッグしてあげる!」
「へっ、上等だ! 腕が鳴るぜ!」
「うんっ、ログの記録、再開するね!」
千三百年の眠りを経て、アーク・クラス号のエンジンが再び蒼い産声を上げた。
奪われた神話を取り戻す、私たちの本当の航海がここから始まる。
(第35話に続く)




