第33話:世界のバグは、愛おしい熱とともに
【探査船アーク・クラス 航海日誌暫定最終ログ】
■ 船内主客観時間:跳躍突入直後・異常遷移
■ 現在座標:プロキシマ外縁境界域・時空断層狭間(観測不能領域)
■ 機関ステータス:ルミナリア・アーク・ドライブ[不可逆的クエンチ検知]
■ 船内実効温度:マイナス二八・四度[急速低下中]
――ガツン、と。
骨肉を直接鷲掴みにされたかのような、鈍く、重い衝撃がアーク・クラスの竜骨を揺らした。
「しまっ……! 推進ベクターが消失した!? おいナナ、時空の歪曲率がゼロに落ちてるぞ!」
パイロットシートで、レインストが手動操舵桿を力任せに引き絞る。
だが、手応えはない。油圧シリンダーを介して伝わるはずの現場の「重み」が、砂のように抜け落ちていた。
メインスクリーンに映し出されていた四十光年彼方の紅き希望――TRAPPIST-1eの重力波予測線が、走査線の乱れとともにフッと掻き消える。視界を満たしたのは、光の届かない、完全な絶対零度の漆黒だった。
『――警告。主機アマテラス・相転移臨界炉、超伝導バスバーの相転移温度臨界を逸脱。クエンチ現象の連鎖を検知。放熱バイパスライン、逆流を開始します』
船内AIの無機質な声に重なるように、船尾の機関室からキリキリと金属が収縮する悲鳴が響き渡る。
先ほど旧式プラットフォームの残骸から剥ぎ取り、強引に焼き付けた魔改造ヒートシンク――その継ぎ目の超伝導ラインが、跳躍時の膨大な時空歪曲負荷に耐えきれず、分子レベルで焼き切れていた。
「嘘よ……私の、計算が……?」
メインコンソールの前に立ち尽くすナナ――ルミナリア・ユナ・フォン・ナナセの瞳から、絶対の光が零れ落ちていた。
宙に投影された無数の数式グリッドが、次々と真っ赤なエラーコードに染まり、弾け飛んでいく。
「補助放熱板の不純物欠陥……! 再結晶化パッチの熱伝導係数が、跳躍時の時空剪断応力を相殺しきれなかった……? そ、そんなはずないわ! 私の73K並列演算が、こんな古典的な金属疲労のバグを見落とすはずが――」
「ナナ様、サブのサーマルバスが全系統シャットダウンしたよ……!」
サブシートのアミィの悲鳴が重なる。
コンソールを取り囲むモニターの光がバチバチと火花を散らし、非常用の薄暗いエマージェンシー・アンバーへと切り替わった。
排熱ラインが逆流したことで、船室内の熱エネルギーが、まるで真空の巨大な口に吸い込まれるように外宇宙の暗黒へと奪い去られていく。吹き出し口から吹き出す空気はすでに氷の刃と化し、三人の吐く息が真っ白な氷霧となってキャビンを漂った。
「機関停止、生命維持限界まで……残り四分。ナナ、もう一度リアクターに火は入らねえのか!」
「だ、だめよ……! 超伝導磁場が崩壊したわ。今無理にエキゾチック物質を励起させたら、船体ごと特異点に押し潰される……! 跳躍は……失敗したのよ」
ナナの足が、がくがくと震えていた。
いつも不遜なまでにピンと張られていた背中が小さく縮こまり、彼女はその場にへたり込んだ。
「私のせいよ……。私が、あんたたちの泥臭い手技を過信して……プロトタイプの負荷限界を見誤ったから……! 世界のバグを上書きするだなんて偉そうなこと言っておいて、私は……あんたたちを、こんな星の光も届かない絶対零度のゴミ捨て場で、凍死させるのよ……っ!」
プライドをかなぐり捨て、床を殴りつけるナナの白い手甲に、ぽたぽたと大粒の涙が落ちて凍りついた。
泣きじゃくる絶対的知性の頭上に、ぽすん、と重い熱が落ちてくる。
「……あ」
見上げれば、レインストが自らの【VALKANOR Ver.7】の防寒ジャンパーを脱ぎ捨て、ナナの細い肩へと乱暴に被せていた。
「謝るな、ナナ。お前が引いた数式を形にしたのは俺の溶接だ。……現場の職人が組んだ鉄板が、お前の頭脳に追いつかなかった。それだけのことだろ」
「レインスト……でも……!」
「それに、楽しかったぜ」
レインストは極冷の床にどっかりと胡坐をかき、震えるナナの体をその逞しい腕で力強く引き寄せた。
「地球を出てからずっと、お前の無茶な計算に振り回されてよ。星の海を泥臭く切り拓いて……俺たちアースサピエンスのちっぽけな命が、宇宙の端っこまで届いたんだ。お前と一緒じゃなきゃ、こんな遠くまで来られなかった」
「レインストの言う通りだよ、ナナ様」
アミィが静かに歩み寄ってきた。
その両手には、非常用バッテリーを直結して辛うじて温め直した、たった一つの金属マグカップが抱えられていた。
「これ……最後の『ソルティ・ルミナス』。三人で分けよ?」
「アミィ……あんた、記録は……」
「ぜんぶ、ここに残してあるよ」
アミィは胸元の記録端末をトントンと叩き、泣きそうな、けれど春の陽だまりのように温かい笑顔を浮かべた。
「チョモランマの空を飛んだ日も、プロキシマの冷たい地下で笑い合った日も、全部。……私、レインストとナナ様と一緒に旅ができて、本当に幸せだった」
寄り添う三人の真ん中で、湯気を立てる「ソルティ・ルミナス」。
レインストがまず一口含み、ナナの唇へとカップを運ぶ。
冷え切り、感覚のなくなりかけた舌に、微かな塩気と、柑橘の酸味、そして濃厚なカカオの甘みが染み渡った。アースサピエンスが全世界線に遺した、泥臭くも愛おしい生命の味。
「温かい……ね」
ナナの瞳から、再び涙が溢れ出た。今度は恐怖からではない。胸の奥を満たす、痛いほどの熱のせいだった。
「……そうね。私は、世界のバグを消したかったんじゃない。あんたたちと、この温もりを守りたかっただけよ」
ナナは防寒着の袖から震える指を伸ばすと、非常用コンソールのキースイッチへと触れた。
73Kの演算核が、最期の光を放つ。
「ナナ? 何をする気だ?」
「上書き(オーバーライト)するのよ。……推進力は戻らなくても、このキャビンの生命維持カプセルに非常電力を全集約して、完全な極低温休眠プロトコルを編み直すわ。外部放熱弁を物理ロックして、三人の体温と生体ログを、絶対零度の檻の中に封印する」
ナナの指先が、流麗に、そして慈しむようにキーを叩く。
「航法ビーコンは永久発信モードで固定したわ。……いつか、私たちの開拓データを受け取った未来のサピエンスが追いつくか、あるいは奇跡のように宇宙の波がこの船を揺り動かす、その日まで」
「眠るのか。……悪くねえな。長い現場仕事の後の、ちょっとした仮眠だ」
「うん。おやすみのログ、打っておくね」
カチリ、とアミィがキーをロックした。
キャビンの主照明が、ふっと消える。
暗闇の中、霜の降りたフロントスクリーンの向こうには、遠く、果てしなく遠く瞬く無数の星々――かつて目指した、そしていつか再び目指すはずの、美しい宇宙の光条が広がっていた。
三人は一つの毛布にくるまり、肌を寄せ合い、互いの心音を聞きながら、静かに目を閉じる。
氷の吐息が溶け合い、やがて静寂がすべてを包み込んでいった。
船は進まない。
けれど、彼らが星の海に刻んだ足跡と、分け合った命の熱は――決して、誰にも上書きされることはない。
【探査船アーク・クラス――主機能停止。全生体反応、コールドスタンバイへ移行】
【未踏の暗黒にて、次なる観測者の訪れを待つ】




