第31話:三人のアルバム
「は、は、はっ……くしゅんっ!」
情けないくしゃみが、霜の降り始めたメインブリッジに甲高く響き渡った。
白い息を吐き出しながら、パイロットシートの脇で丸くなっているのは、絶対的知性(73K)を誇るはずのナナ――ルミナリア・ユナ・フォン・ナナセである。
「だ、誰よ……! こんな非論理的な冷却ループの過剰循環を設計したのは……っ! 歯の根が、合わないじゃないの……っ!」
「誰って、お前だよお嬢様! さっきのジャンク魔改造で補助放熱板の配線を直列にバイパスした張本人はどこのどいつだ!」
レインストが工具袋を床に放り出し、作業着の上から分厚い防寒ジャンパーを引っ張り出しながら怒鳴り返した。
旧式機雷プラットフォームの超伝導コイルを無理やりエンジンブロックへ焼き付けた結果、推進機関の排熱効率は跳ね上がったものの、その超伝導ラインが船内空調のサーマルバスから熱を根こそぎ奪い去るという、絵に描いたような現場トラブル(バグ)が起きていた。
壁面の金属パネルは触れれば皮膚が張り付きそうなほど冷え切っており、室温インジケーターは無情にもマイナス七・二度を示している。
「う、うるさいわね……! あれはルミナリア・アーク・ドライブの次期ワープ負荷を考慮した最適な熱力学パッチよ! 空調のサーモスタットが古典的バイメタル構造を引きずっているのが悪いのよ……っ!」
「御託はいいからこれ羽織れ! 唇が真っ青だぞ!」
レインストが自分の肩から剥ぎ取ったボア付きの防寒ジャンパーを、頭から乱暴にナナへ被せた。
油と作業グリス、そしてレインスト自身の体熱が染み付いた無骨な上着。ナナは一瞬「無作法よ!」と撥ね退けようと腕を動かしたが、ジャンパーから伝わる圧倒的な温もりに抗えず、そのまま袖口をぎゅっと握りしめて首まですっぽりと潜り込んだ。
「……ふん。サピエンスの原始的な体熱伝導も、たまには役に立つわね」
「素直に『助かった』って言えねえのかよ」
「言わないわよ! ……でも、その、レインスト。座りなさいよ」
「あ?」
「立たれたら、熱対流が逃げるでしょ。……ここに座って、背中を貸しなさいって言ってるの。熱力学的な相互補完システムよ」
赤い顔(寒さのせいか、それとも別の理由か)をフードの毛皮の奥に隠し、ナナがコンソール下の床をぽんぽんと叩く。レインストは呆れ果てたように頭を掻きながらも、彼女の隣にどっかりと腰を下ろし、その華奢な背中を自身の分厚い背中でしっかりと支えてやった。
「はいはーい! 極冷遭難中の二人に、特製レスキュー配給だよ!」
サブ通路のハッチが開き、湯気とともにアミィが現れた。
両手には断熱トレイ。その上には、三つのマグカップが湯気を立ち上らせている。
「アミィ……! まさかそれ……!」
「うん! こんな時のためにキープしておいた、ホット仕立ての『ソルティ・ルミナス』!」
アミィが満面の笑みでカップを配る。
レインストには、柑橘の酸味と粗塩のミネラルが熱い蒸気とともに立ち上るライムホット仕様。そしてナナとアミィには、ビターチョコの微粉末と岩塩、濃厚なミルクパウダーを熱湯で練り上げた『ホットチョコ派』のソルティ・ルミナスだ。
「生き返る……! 胃袋に直撃する塩分と糖分が、全身の毛細血管を叩き起こしていくわ……」
ナナが両手でマグカップを包み込み、息を吹きかけながら一口含む。眉間の険しさがふっと溶け、年相応の少女の表情へと緩んでいく。
「レインストもどうぞ。はい、ドリンク派のホット」
「おう、サンキュ。……染みるな。極寒の宇宙で飲む塩ライムの熱湯割り、現場屋の魂を繋ぎ止める味だぜ」
「ふふっ。アースサピエンスの万能食料品、全世界線を越えてもこの温かさだけは不変だね」
アミィは自分のチョコカップを啜りながら、サブコンソールのホログラムを展開した。
投影されたのは、これまで三人が辿ってきた航海の記録ログ――チョモランマ宇宙港での泥臭い脱出、地球の重力を振り切ったケロシンの青い光、土星の氷環、そしてプロキシマ・ケンタウリbの赤い大地に打ち立てた地下ドームの全景だった。
「ねえ、二人とも。こうしてログを見返すと……私たち、本当に遠くまで来たんだね」
画面に浮かび上がる幾重もの軌道データ。
プロキシマbの地底深くで、かつてサピエンスが打ち込んだセシウム原子時計の記憶を暴き、時間の歪みを上書きしたあの日。
「……ええ。プロキシマbの地下で、ヤクート先遣隊の二百年前の歪みをパージした時は、どうなるかと思ったけれどね」
ナナがカップを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「地球を出た時、私はただ、世界に溢れる非論理的なバグを消し去ることだけが目的だった。サピエンスの愚かなノイズなんて、すべて切り捨てて、完全な数式だけで宇宙を満たせばいいと思っていたわ」
「お前、最初は本当に冷たい監査官様だったからな。段差でつまづいて転びそうになったくせに」
「余計なことを思い出すんじゃないわよ、レインスト!」
ナナがジャンパーの袖口でレインストの二の腕を小突く。だが、その声に棘は微塵もなかった。
「でも……あんたたちの泥臭い手技や、この意味不明に美味しいソルティ・ルミナスを飲んでいるうちに、分かってしまったのよ。……世界を上書きするっていうのは、過去を消し去ることじゃない。不確定で、みっともなくて、温かいサピエンスの足跡を……未来へ繋ぐための『居場所(家)』を作ることなんだって」
ナナはカップを両手で抱えたまま、レインストの背中にこてんと後頭部を預けた。
「プロキシマ・ケンタウリb、TRAPPIST-1e、TOI-700 dが描く『宇宙の巨大三角形』。そして北極星たるケプラー452b……。どんなに時差が狂おうと、どんなに暗黒の宇宙が冷え切っていようと、この船のログと、あんたたち二人がいれば……私は、どこまでだって世界のバグを上書きしてみせるわ」
「……へっ。よく言った、チーフエンジニア殿」
レインストがマグカップを掲げ、アミィもまた嬉しそうに自分のカップを重ねる。
カチン、と極冷のキャビンに乾いた陶器の音が響いた。
「任せとけ。どんな過酷な星だろうが、お前が数式を引くなら、俺がその足場を完璧に固めてやる」
「私も、二人の創る未来のログを、一文字も欠落させずに記録し続けるよ!」
空調の吹き出し口から、カチリとリレーの切り替わる音がした。
ナナが魔改造時に組み込んでおいた自動パッチがようやく適用され、極冷のブリッジに、じんわりと温かな暖房の風が流れ込み始める。
「……あ。暖房、復旧したみたいね」
「おいおい、タイミングがいいんだか悪いんだか」
レインストが苦笑いして立ち上がろうとすると、ナナが背後から防寒ジャンパーの裾をぎゅっと強く引っ張った。
「……ナナ?」
「……まだ、寒い気がするわ」
フードの奥から、消え入りそうな声が返ってくる。
「空調の気流が完全に循環するまで、あと十五分はかかるわ。……だから、このまま座っていなさい。これは絶対命令よ」
「はいはい、了解しましたよ、我が儘なチーフ」
レインストは再び腰を下ろし、静かに笑った。
凍てつく星の海、アーク・クラスの小さなブリッジには、三人の温かな体温と、甘いチョコレートの香りが満ちていた。
偽りの座標での悪戯のような寄り道は、間もなく終わる。
次なる本命――四十光年の彼方に待つ、暗紅の真世界へ向けて。
(第32話に続く)




