番外編:宇宙に海はなくても(七月二十日の同期信号)
【リアルタイム同期・番外編】
読者の皆様、祝日をお楽しみでしょうか?
本日、現実世界の七月二十日「海の日」に合わせ、アーク・クラスのタイムラインも完全同期パッチを適用しました。
太陽系の外縁部へ向かう凍てつく虚空の中、わたしたちが敢行した「ロジカルな休息」の記録をお届けします。低解像度な宇宙の暗黒に、ジパングの蒼い波の音が響きます。
「——本日、七月二十日を以て、本船アーク・クラスの全演算システムおよび航行プロトコルを、完全なる省エネ(オフ)モードに移行するわ。これは絶対命令よ」
太陽系の外縁部へと向かう凍てつくブリッジに、ナナの冷徹な声が響き渡った。
コンソールの前で、彼女はレインストから押し付けられた例のぶかぶかな防寒ジャンパーの袖をぎゅっと握りしめ、ふん、と傲岸不遜に顎を引いてみせる。
「おいおい、唐突に何を言い出すんだお嬢様。冥王星でのハッキングを終えて、船底のコンバーターはまだ熱を持ってるんだぜ。現場の技術屋に休みなんて——」
「黙りなさい、脳筋技術屋。私の脳内アーカイブをハッキングした結果、ジパング・セクターの古い暦において、本日七月二十日は『海の日』という聖なる祝日に指定されていることが判明したわ。生物学的メンテナンスを無視してクロック数を上げ続けることは、極めて非ロジカルよ。つまり……休むのよ」
ツンと澄ましてそっぽを向くナナ。だが、その耳たぶは微かに赤い。
連日の超演算で彼女の脳バッファがパンク寸前であり、「堂々とレインストに甘えて業務をサボるための口実」として、古い地球の祝日をハッキングして持ってきたことなど、アミィにはとうにお見通しだった。
「ふふ、そういうことでしたら、完璧な裏方である私にお任せください。ナナ様、レインスト。ちょっとコンソールのホログラム権限を私に直列同期させてね」
サブシートの穂波歩実が、晴れやかな笑顔でキーボードを叩く。
彼女は二人の圧倒的な共犯関係(愛)の領域には入れないことを自覚し、だからこそ『最初の信者』として、二人の空間を最高に彩る裏方に徹していた。
アミィの指先がPATHを繋いだ瞬間——ブリッジの景色が、一瞬で『反転』した。
*
ザザァーン、と耳に心地よい物理振動がブリッジのスピーカーから響く。
メインモニターだけでなく、床面、壁面の全ホログラフィック・プロジェクターが強制駆動し、アーク・クラスの冷たい金属の床を、どこまでも白い砂浜と、抜けるように蒼い波打ち際へと書き換えていく。
土星で限界突破させて吸い上げた重水素氷の冷却タンクの熱対流を利用し、ブリッジの空気はまるで本物の南国の海辺のような、湿気を含んだ温かい潮風の擬似データへとアジャストされていた。
「うわっ……!?」
ナナが声を上げてよろめいた。
宇宙の絶対座標を数ミリの狂いもなく弾き出せる神の頭脳を持ちながら、彼女の華奢な肉体の運動中枢は致命的にポンコツだった。ホログラムで投影された波打ち際の「砂の摩擦係数」を脳が過剰演算し、自分の足の運びと同期できなくなったのだ。
「っと、危ねえな、お嬢様。宇宙の歪みはハックできるのに、どうしてこの程度の擬似重力大気で足がもつれるんだよ」
そのまま派手に前のめりに転びそうになったナナの身体を、背後からガシッと無骨な腕が抱きとめる。
レインストが苦笑しながら、ナナの細い身体を己の逞しい胸板へと引き寄せた。男の圧倒的な体熱が、防寒ジャンパーを透かしてナナの肌へと流れ込んでいく。
その瞬間、ナナの顔はホログラムの青い光を弾き飛ばすほど真っ赤に染まった。
「む、無作法に触らないでちょうだい……っ! これは、その、視覚情報と重力ベクトルの相関関係に一時的なバグが生じただけよ! ボトル一本開けられない私を馬鹿にしないで!」
「はいはい、分かったよ」
レインストは笑いながら、ナナを砂浜(金属の床)の上に優しく座らせると、ポケットから元素カプセルで急造した冷たい金属ボトルを取り出した。キャップをカチッと小気味よい音を立てて職人技で開け、ナナの手へと握らせる。
「ほらよ。カプセルの重元素データを融解して作った、即席のトロピカル・マンゴー風味の栄養剤だ。海って言ったらこれだろ」
「……ふん、気が利くじゃない」
ナナは嬉しそうにボトルを両手で包み込み、レインストの防寒ジャンパーの裾をぎゅっと握りしめたまま、小さな口をつけた。
宇宙に本物の海はない。窓の外はマイナス二百度の死の世界だ。けれど、この男の体温と、アミィが作った優しい蒼い幻影があれば、そこは世界で一番温かい特等席だった。
「レインスト、ナナ様! スイカの代わりに、旧時代の予備球形コンテナを用意しました! スパナでの『コンテナ割り(物理)』のログ解析、いつでもスタートできますよ!」
遠くの砂浜から、アミィが丸い金属球を抱えて手を振っている。彼女の心は、この二人の絶対的な純愛を神話として記録するシステムログの守護者だった。
「上等だ、アミィ! お嬢様、目隠しのハッキング数式はそっちで弾いてくれよ!」
「任せなさい。コンマ数秒でレインストの質量運動を最適化してあげるわ」
解像度の低いサピエンスには、決して理解できない。
地球の全エネルギーを焼き尽くして一八〇〇光年を跳ぶという、あまりにも重い絶望の直前に、彼女たちが交わしたこの甘やかな同期信号の意味も。
宇宙に海はなくても、三人のPATHは、確かに一つの蒼い未来へと繋がっていた。(第17話に続く)




