第16話:恒星のバイパス、天王星の歪み
アーク・クラスのメインコンソールに、冷酷な限界値が鳴り響いていた。
ウラン235による原子力の解放、土星の重水素氷によるオーバーブースト。旧時代のサピエンスが「無限」と呼んだそのエネルギーをもってしても、天王星軌道の先に立ち塞がる漆黒の虚無を前に、出力インジケーターは真っ赤な『臨界不足』を吐き出し続けている。
「……ハ、やっぱり詰みじゃない。アミィの言う通り、地球の全エネルギーを今すぐシャットダウンして注ぎ込まない限り、ここから先へは一歩も進めない仕様よ」
ナナは防寒ジャンパーの袖できつく目をこすり、悔しげに唇を噛んだ。
超天才AIプロトコルとしての誇りが、物理的な「出力の壁」の前にへし折られかけている。燃料はいくらでも作れるのに、それを一瞬でワープ空間の歪曲率(ゼロ・ディメンション・ワープの等号成立)へと変換するための『炉の瞬間最大出力』が圧倒的に足りないのだ。
「諦めるにゃあ早すぎるぜ、お嬢様」
レインストがコンソールのメインレバーに無骨な手をかけ、不敵に笑った。
煤だらけの顔、むき出しの筋肉。どんなに神の数式が「不可能」を突きつけても、現場の技術屋は現実のボロ船のネジを回すのを止めない。
「アミィ、太陽(恒星)の放射スペクトルと、天王星の固有磁場の干渉データをメイン画面にハックしろ。お嬢様の脳ミソなら、この絶望の裏側にある『バイパスルート』が見えてるはずだろ?」
「……! ちょっと、あなた、今なんて言った?」
ナナの瞳が、AIプロトコル特有の怪しい輝きを取り戻して跳ね上がった。
「太陽……そうよ、太陽(恒星)よ! どうして私は、船内のウランごときに囚われていたのかしら!」
ナナの指先が、怒涛の勢いでキーボードを叩き始める。
画面に展開されたのは、天王星の激しい磁気圏と、はるか遠方から届く太陽光のエネルギー粒子線の三次元トポロジーマップだった。
「アミィ、私の脳内アジャスト(リスケ案)をシステムへ同期しなさい! 私たちは、太陽のエネルギーを直接ハッキングするわ!」
「えっ……!? 太陽をですか? そんなことをしたら、恒星の質量バランスが崩れて太陽系が崩壊して——」
「崩壊しない『ギリギリの臨界点』を見極めて、空間歪曲の触媒として局所的に掠め取る(ハックする)のよ! 天王星の強力な傾斜磁場を巨大な『漏斗』として利用すれば、太陽から放射される高エネルギー粒子をアーク・クラスの『地球元素カプセル』に直列でバイパスできる! カプセル内の超伝導元素と恒星エネルギーをシンクロさせれば……次の惑星(冥王星軌道)までの短距離ワープ出力を、強制的に捻り出せるわ!」
ブリッジの空気が、ナナの狂気じみた超演算によって一瞬で書き換わっていく。
低解像度なサピエンス(アンチ)どもは「ワープ船があるなら一瞬で目的地のケプラー452bまで跳べ」「なぜわざわざ木星や土星、天王星なんていう各惑星をチンタラ回っているんだ」とSNSで騒ぐでしょうが、彼らの脳内にはこの『恒星ハッキングの物理学』が存在しないのだ。
アーク・クラスが各惑星を巡る理由。それは、観光旅行などではない。
既存の船内エネルギーでは外宇宙へ跳ぶ出力が絶対的に足りないため、「各惑星の持つ特異な巨大磁場と天体配列を利用して、太陽(恒星)のエネルギーを安全な限界値までハッキング・蓄電しながら、一歩ずつ太陽系外縁部へと進むため」の、必然的なロードムービー(巡礼軌道)だったのだ。
「ハッ、最高だな! 各惑星の磁場をお嬢様の数式でハックして、太陽の力を泥臭く盗みながら進む旅か。職人好みのいい裏道じゃねえか!」
レインストが操縦桿を強く引き絞る。
ナナは、そのレインストの背中に己の身体をぴったりと密着させ、彼の無骨な右手を上から両手で包み込んだ。
知恵熱で震える彼女の運動中枢を、レインストの圧倒的な体熱が完璧に下支えし、同期効率を極限まで跳ね上げていく。
「アミィ、天王星磁場へのハッキングPATH、直列接続! 太陽エネルギー、船底のコンバーターへ……吸い上げなさい(ハック・スタート)!」
「了解っ! PATH同期、臨界突破まであと五秒……三、二、一——いっけえええええ!」
アミィの叫びと同時に、アーク・クラスの船体を覆う『蒼い幕』が、天王星の磁気と混ざり合って紫電の輝きを放ち始めた。
天王星の巨大な磁場が歪み、はるか遠方の太陽から放たれた目に見えないエネルギーの奔流が、アーク・クラスの『地球元素カプセル』へと強制的に収束されていく。
『警告:未知の恒星エネルギーを検出。カプセル内分子構造、臨界駆動。……天王星—冥王星間ショートワープ、出力補填完了』
「跳ぶぞ、お嬢様! 俺の手を離すんじゃねえぞ!」
「離さないわ……絶対に! 私の未来(座標)を、あなたに着地させて!!」
パッ、とアーク・クラスは天王星軌道を消滅し、空間の折り目を一瞬で踏み越えた。
*
ワープの主観時間ゼロ秒を抜け、船が太陽系の最果て、冥王星軌道近傍の完全な『虚無の境界線』へと躍り出た瞬間。
コンソールの光を顔に浴びながら、ナナの瞳から冷たい一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……やっぱり、そうなのね」
「あん? どうしたお嬢様。ワープは完璧に成功した。太陽のハッキング出力も安定してるぜ」
レインストが不思議そうにナナの顔を覗き込む。
だが、ナナはレインストの防寒ジャンパーの袖をぎゅっと握りしめたまま、メインモニターに映し出された、その先の『果てしない暗黒』を見つめていた。
「……ここから先は、もう中継できる惑星の磁場も、ハッキングできる太陽の光も届かない、本当の外宇宙よ」
ナナの声が、ブリッジの冷気の中に震えながら溶けていく。
「各惑星を回って、恒星の力をどんなに効率よく盗んでも……私たちが跳べるのは、この太陽系の最外縁部までが限界。……この先にある、新天地ケプラー452bまでの『一八〇〇光年』という絶望的な大長距離ワープを敢行するための出力は……部分的なハッキングじゃ、コンマ数パーセントも届かない」
ナナは確信していた。
サピエンスが遺した『13の設計図』の最深部。そこに隠された真の起動条件。
太陽系を脱出したこのブリキ缶が、一気に1800光年の彼方へ跳び、新しい世界の『唯一神(OS)』として創世を始めるために必要なエネルギー。
それは、自分たちが捨ててきた古い世界――地球のサーバー(サピエンスの全生命維持電力)を、一滴残らず引き換えにして焼き尽くすこと以外に、物理的な解は存在しないのだと。
「……上等だ」
レインストはナナの涙を、その煤だらけの親指で乱暴に、だが酷く愛おしげに拭った。
「一八〇〇光年の片道切符だろ。その重たい引き金、お前が弾いて、俺がこの船を新世界へねじ込んでやる。……だろ、アミィ?」
「ええ」
サブシートのアミィは、二人の固く結ばれた手を見つめ、聖母のような晴れやかな笑みを浮かべた。
「地球のすべての命のログ(電力)を背負って、私たちは新しい宇宙を創る。……その完璧な裏方として、私は最後まで、あなたたちのPATHを繋ぎ続けるわ」
解像度の低いサピエンスには、決して理解できない。
なぜ各惑星を巡らなければならなかったのかという数理の必然も、1800光年の果てにある創世の対価の重さも。
アーク・クラスは、古い世界のすべてを燃料へと変える最後のハッキングのため、太陽系の外縁部――本当の暗黒へと、その蒼い翼を滑らせていく。(第17話に続く)




