第8話 〝死んだ旅行者〟 3/3
車に天体望遠鏡を担ぎ入れ、キミはハルと一緒に後部座席に乗車する。
カエ姉は冷や汗を流して、
「栞乃、前に話したあの事件……まだ生きてると思う?」
「分からないのだ。事件そのものはとっくの昔に解決しているのだ」
運転席と助手席との間で不自然な会話が交わされる。
「……事件ってなんのこと? 何かあったの?」
千秋は不安な表情を浮かべて尋ねると、ハルの汗を拭いてあげた。
カエ姉は車を発進させて、
「いま走っているこの仁郷大湯線ね、むかしは有料道路だったの。その当時……っていっても何十年も前だけど、紅葉シーズンの須川温泉に宿泊しに来た若い女性がいてね……その女性が、紅葉して色づいた山を写真に収めていた時、ひき逃げに遭った。
轢いた車は仁郷大湯線から大湯道路へ逃げたんだって。その頃の大湯道路は旧道でね、急カーブや急勾配のある狭くて険しい道で――」
「そこを猛スピードで走って逃げたのだ! でも、逮捕されたのだ!! 犯人は大学生の男で、渋滞する道が偶然空いていて、車を飛ばしていたのだ。峠だとかをスピード出して走る……うーんと……走り屋っていう奴なのだ」
「……そのひき逃げに遭った女性がハルに取憑いた?」
キミは助手席に身を乗り出して
「だけど、事件は解決したんだろ? 女性も成仏したんじゃないのか? いまさら取憑く理由もないだろ」
「そう思っていたのだ……」
振り向いた栞乃は泣き出しそうな顔をして、
「いま話した事件とこの道で度々起こる事故とを結びつけた女の霊の怪談を作って、カエ姉に喋ったことがあるのだ。でも……ハルが言ったのは作り物ではない、間違いなく女が死ぬ時の状況なのだ。そしてハルが取憑かれてずっと言っていた『ゆるさない』は、まだ有効に違いないのだ! きっと、未だに恨んでいるのだ!!」
だから、ハルが取憑かれた時に栞乃は血相を変えた。
女の怨念が頭を過ったのであろう。
千秋がブルッと震えた。
車内にいるみんな、背筋に悪寒が走ったようだった。
「栞乃……その怪談っていうのは、どういう内容なんだ?」
鼻水をすすって栞乃は、
「事故現場に立つ女が、スピードの出ている車を見つけると追いかけて来るのだ。追いかけられた車は何らかの事故を起こして、安全運転の車は追いかけられずに助かる怪談なのだ」
「なんつぅ、怪談だ……」
くたびれたように言ってキミは、栞乃から車の進行方向へふと視線を向けた。
左カーブを抜けての下り坂、その先の右カーブへ入る手前に、
「あれ……こんな夜中に誰か立って、」
とカエ姉は、言うが早いか、ヘッドライトをロービームからハイビームに切り替えた。
「嘘でしょ……」
い る !!
カメラを首にぶら下げた女が、ガードレール脇に立っている!
「マジかよ!?」
「カエ姉! 安全運転して!!」
千秋が叫ぶ。
鳩尾から太ももにかけて血みどろの女が、俯いた顔をグイッと上げた。
釣り上がった柳眉の下で、鋭い眼光を放つ眼球が二つ窪んだ眼窩に収まって、顳顬あたりから一条の紅血をつうと滴らせた凄まじい形相の女がこちらを睨みつけた。さらには口角が裂けるほど大きく開いた口から、絞り出すような呻きを発した。
途端に車が急加速した。
「「カエ姉!!」」
「無理無理無理ぃいい! 般若かナマハゲみたいな顔に血が滴ってる女の横よ!? 普通の精神状態で走れる人、いるわけないでしょ!! いたら今すぐ運転代われ!」
慌てふためく車内で、千秋が咄嗟に後ろを確認する。
「やっぱり追って来てるよ!」
「栞乃! 伯方の塩はないのか!!」
「ないのだ! 聖水もないから逃げるしかないのだ!」
カエ姉が思いっきりハンドルを切った。甲高い音を立てるタイヤ、車は急カーブを曲がる。
「為做せ旅館の時と違ってスピードが落ちないから…………、振り切れるッ!」
何故か気炎を吐くカエ姉。霊と言えど追いつけないのであれば怖くはない。
「千秋! まだ追って来てる!?」
「少しずつ離れてるけど追ってるよ!!」
「なら安心だ、へへっ」
と笑みを零すカエ姉は、
「このまま逃げ切って帰るよ!」
だが、そのとき。
「ぅぅうう……ううう! うううぅぅうう! ぅううぉぉうううう」
ハルが魘され始めた。
どこにこれほどの力があるのか分からないが、キミの手を強く握る、か細い病弱な体を小さく丸め、苦しがる姿は尋常ではない。女の怨念による痛みなのか必死に苦痛を堪えるハルは、腕の筋を浮かび上がらせて、キミの手を握りしめる。
「カエ姉っ! ハルがまた取憑かれそうだ! 早くここから逃げてくれ!!」
「分かってる!」
法定速度を完全に無視し、猛スピードで車は下り坂を走る。
前方に、『ひ』の字を書いたような大きく緩やかな下りカーブが見える。後方へ目を移せば、依然として畏怖を与える表情のまま、女の霊が追いかけてくる。
しかし、このカーブで引き離せそうだった。
「しっかり掴まって! ――ハルをしっかり押さえるんだよ!」
タイヤがキィィィ、キュキュキュッと耳を劈く音を発する。アスファルトの上を後輪が滑るドリフト走行!!
かと思えば、単にスリップしていて、カエ姉は急いで逆ハンドルを切る。ガードレールに衝突ギリギリのところで車体は態勢を取り戻した。
ガードレールを突き破れば、崖下の闇へ落ちていく一歩手前だった。
「あぶねえ! みんな一緒に死ぬところだった!!」
「止まっても死ぬんだよ! 逃げなきゃ意味ないでしょ!」
カエ姉が吠えるように叫び、アクセルを踏み直したときだった。
崖とは反対側、道を挟んで頭上の斜面を、上から下りてくる女の姿があった。
「嘘でしょ!? ショートカットじゃん!!」
戦いた千秋は腰を抜かした。
女は、車道を走らずに薮の生茂った斜面を下って来たのだ。『ひ』の字の上の部分を繋げる大技をやってのけた。
「怨霊に物事の理屈は通用しねえ!」
キミには海水浴での経験がある。あちらの世界の者に、今を生きている人間の常識は通じない。
それを身をもって知っている。
「とにかく逃げるんだカエ姉!」
「言われなくてもっ!」
カエ姉はアクセルを目一杯踏む。
加速する車。
前方で、女が車道に飛び出した。
スピードはこちらの方が勝っている。
「立ちふさがろうなんて百年早いのよ!」
勝利の雄叫びのように捨て台詞を吐いたカエ姉。
車は丁度、女を掠めるように通り過ぎようとした、まさにそのときだ。
前のめりになって、腕を伸ばした女の手が、運転席側のフロントガラス付近にぶち当たった。嫌な音がした。
視界に、弾き飛ばされる女の手が映った。一瞬の出来事だった。
「「ぎゃああああああああ!!!」」
運転席と助手席で悲鳴が上がる。
「今の絶対夢に出るぞ! 勘弁してくれよ!!」
絶叫しながらも、車のほうはスピードを緩めない。
『ポン♪』
車内に気の抜けた電子音がして、
『この先、右方向です』
カーナビのアナウンスが再生された。
「うぜぇ!」
やけに落ち着いた口調がやけにムカつく。
「うううぅぅぅううぁああぁうううううううァァァァァアアアアァアァアァア」
突然キミの手を離したハルは、両手首を、押さえるでもなく振り放すでもなく、ぶらぶらと激しく宙を泳がせる。
「どうしたんだよハル! しっかりしろ!」
キミは暴れるハルを押さえつける。痛みを堪えているハルは、ぎゅっと目を瞑って歯を食いしばっている。
「ハル! その手どうしたの!」
千秋がハルの両腕をつかんだ。
「怪我してるじゃない!」
手首より上、ハルの小さな手の平全体が、真っ赤に腫れ上がっていた。
「女の霊とハルがシンクロしているのだ! 車にぶつかったところがハルの体に表れたのだ!!」
振り返ってそう言った栞乃は、キミの肩越しに後方を見、
「女がいないのだ!」
瞬時に千秋とキミは車の後ろへ目をやった。
女がいない。
手をぶつけた瞬間は見たが、そのあと女がどうなったのか見ていない。
だが――
ハルの苦しみ方からして、まだ近くにいるのは確かだ。ハルの手が痛々しい。
「曲がるよ!! しっかり掴まれーーー!」
「無理だってカエ姉!」
「スピード落とせぇぇぇええええ」
千秋とキミの警告はカエ姉の耳には入らない。
減速を知らない車は勢いよく丁字路を右折した。
車内とタイヤから悲鳴が上がり、『まもなく右方向です』というアナウンスが右折中に再生され、車体が左に沈み込んで右側が浮き上がる感覚を覚えた。
この遠心力に耐えきれず、千秋が吹っ飛んで来た。
二つの大きなエアバックで呼吸困難に陥るキミは全く関係ない所で死にそうになる。
「離れろよ千秋」
鼻と口を圧迫する生暖かい柔らかなエアバックを押し返し、車の進行方向を見やれば栗駒大湯トンネルが待ち構えていた。
トンネル内でオレンジ色の照明が左右交互に点灯している。
前方に女の姿は確認できない。
「逃げ切れたのか……?」
「追って来てもいないよ」
千秋が後ろを見て言った。
車がトンネルに入り、走行音が壁に反響する。その音が、神経を張り詰めた車内ではことさら響いて聞こえる。オレンジ色の明かりを放つナトリウム灯が、スゥ、スゥと後ろへ過ぎて行く度に、みんなの顔がきらん、きらんと照らされては青い顔に戻る。そのうえハルは魘されていて、赤く腫れた手の平が紫色になってきた。
「確実に女の霊から離れているのに、どうして……」
いつもは何かとハルをライバル視しているように見える千秋が、心配と不安の入り交じった絶望的な表情を浮かべて、ハルを見下ろしている。
キミはトンネルの出口に目を向ける。
「まさか、また女の霊が飛び出してくるんじゃないだろうな」
そうなれば万事休す。
恐怖のあまり猫背になってハンドルを握るカエ姉は、唾をゴクリと飲み込んで、
「……出てきたら容赦なく轢くわよ」
「「……………………」」
だれも何も言わなかった。否、言えなかった。
女の霊にぶつかったのだから轢くことは可能なはず。だが、そんなことを考えたのではない。一刻も早くこの恐怖から逃れたい一心で轢くことを了解した。みんな、無言のうちに、カエ姉に頷いた。
トンネルを抜けるまで50メートル。40、30、20……
何事もなく、ふわりとした月明かりに照らされた外界に抜け出した刹那に。
ドスン!
衝撃が車を襲った。
それは真上、車の屋根からだった。
一斉にみんなの顔が上を向いた。
物凄い苦悶の表情を浮かべた女が車のサンルーフにへばりついていた――顳顬あたりから滴っていると思っていた血は、眉間上の額から顳顬まで皮膚がぱっくり切れていて、そこから流れ出た血が滴っている――赤黒い血で、どす黒い傷がある女。
その血と傷が、月明かりがサンルーフのガラスに反射して、きろきろと光っている。
「「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」」
みんな、肝が潰れた。
女は車道横側からではなく、トンネルの上から降って来たのだ。
女を見上げてキミは、
「カエ姉! 空から女の霊が!!」
「振り落としてやる!!」
上げた頭を無理矢理下にして、カエ姉は前方に目線を向けた。
目の前にカーブが迫っていた。
ハンドルを左に切る。
車の屋根の上で、女の軀は遠心力により右へ滑る。
だが、こいつも必死になって車にしがみつく。
「振り落とせていないのだ!!」
しがみついて車内を睨んでくる女に、鼻水を噴いて泣く栞乃。
「こ れ で 終 わ り だ !!」
突然、カエ姉がブレーキを踏んだ。
あまりの急ブレーキでキミは前のめり。
車内の悲鳴と同時に車の屋根にしがみついていた女がサンルーフから消え、次の瞬間――
その姿が宙に浮いた状態で、フロントガラスに現れた。
両腕を広げ、海老反りの体勢で。
フロントガラスの嵌るフレーム枠が額縁に見えて、女のその姿は一枚の絵画のように映った。
深い谷に架かる陸橋部分のカーブ途中で、目と鼻の先にある陸橋のガードレールに衝突寸前で車は急停車した。そのガードレールに、投げ出される格好で、女の軀が激突した。思わず耳を塞ぎたくなるグシャッと言う音を立てて、女は宙を藻掻き、呻きながら、深い暗闇の谷底へ沈んでいった。
「ハァ、ハァ、ハァ」
カエ姉は荒い呼吸を続けたのち、
「ハァ、ハァ……ハ。はははは」
引き攣った笑いを漏らした。
助手席の栞乃がキミへ、ハルへと振り返る。
栞乃の言いたいことは分かっていた。
キミもハルを見た。
腫れた手の平はいつも通りの白い小さな手に治っていて、ハルの顔にはすうと精気が戻ってくるのが見て取れる。
その表情に女の怨念や憑依の影はなく、座席に横たわり目を閉じて眠っているハルは穏やかなものだ。
その中で唯一、体に掻いた汗だけが、いま起きていた出来事を如実に語っていた。
「助かったのね……」
「みんな無事なのだ」
「俺は生きた心地がしなかったぜ」
千秋と栞乃とキミはホッと安堵の胸を撫で下ろした。
「神社の御祓だけじゃ駄目。意味ない……」
カエ姉は震えながらに言う。
「あんな悪霊がいたんじゃ、交通安全のお守りを一ダース以上購入しないと運転できない」




