第5話 幽霊を探し訪ねて 〝撥ねたモノ〟 2/3
辺りは夜霧に包み込まれている。
時折、樹木の湿った葉が風に吹かれて擦れる音がする。
虫の音が無性に寂しく悲観な気持ちに傾かせた。
唯一、隣にいる千秋の息づかいが人間味を持った心の拠り所に感じられる。
標高が高いせいで気温が低く、夜霧によって衣服がしっとりと冷たく濡れて体温が奪われる。寒さと不安が混じって恐怖もある。
キミと千秋、どちらからともなく手をつないだ。
キミはLEDライト片手に足元を照らす。恐怖から、撥ねた男性とはいられない。だから距離を開けて背を向けて立った。
「手、温かいね」
突然千秋が言った。
「――ッ!」
キミは思わず繋いだ手を強く握る。千秋の手は温かく柔らかい。
「ビビり君なんだから」
千秋はクスクス笑って、手を握り返してくる。
「そんなこと言うなら手、離すぞ」
キミは繋いだ手を振り払ってみせた。
するっと手が離れて、手の平に冷たい空気と漂う湿気が触れる。
繋いでいた手に、思ったよりも温もりがあったことに気がついた。
「あぁん、やだもう」
千秋はほっぺたをぷぅと膨らませて、きみの正面に立つと手をつかみ直した。
「寒いから。それに怖いし」
「なんだよ、千秋も怖いんじゃねーか。だったら驚かせるなっつーの」
そう言ったキミは、続く言葉もなく、また静かになたった。
虫の音も聞こえなくなった。
辺りは森閑たる樹海で耳が痛いくらいの無音。
こうなると神経や感覚が研ぎ澄まされる。
手を繋いだまま、千秋と向き合って立つ。
「ねえ、……」
と、千秋が恥ずかしそうに顔を伏せた
「海でさ……水着、どうだった?」
「な、なんだよ急に」
キミは、繋いだ手に火照った熱さが伝わってくるのを感じた。
「ううん」と千秋は首を振った。
「もしかして似合ってなかったのかなって。見せびらかすつもりはなかったけど……その、やっぱり、せっかく買って、着けたんだし……そういうのほしいじゃん。感想っていうの? えーと、ね、つまり水着どうだった?」
「水着? ああうん、良かったよ。水着」
「………………それだけ?」
「他に何が?」
と言ったキミはすぐに千秋の望む回答を得た。
似合ってたよ水着姿。怨霊に吐き出された黄緑色の汁で顔の皮膚が被れたりアレルギーにならないかと懸念の方が心配で水着姿のインパクトは弱まったけど、すごく似合ってたよ。ナイスバディ。
千秋は照れながらも満足した様子だ。
「そ、そう? 似合ってた? それなら、うん。買って良かった」
赤らめた顔でキミを見上げて目が合うと、その視線をふっと落として、
「あのさ、こんなときに言うのおかしいけど……」
「おかしいなら言うなよ」
「じゃなくって!」
千秋は、パッと目線を上げてキミを見、すぐにまた視線を落とす。
体をもじもじさせてなんだが言いにくそうな感じ。きょろきょろする。繋ぐ手が汗ばむ。
「……んとね、今みたいに、友だちのままでいるのもそれはそれで……いやだし。駄目だったら、断られたらどうしようって思って、考えたんだけど……でも、ちゃんと伝えたほうがいいし、悩んだけど…………言うね」
と千秋は、覚悟を決めたような決心や決意を表した表情をつくり、すぅっと息を吸った、まさにそのとき――
キミの後ろでザザッザザッと音がしてチャランカランと鈴の音が響き、静寂を破った。
鈴の音は、登山者がリュックサックやベルトに付ける熊よけの鈴に聞こえる。
正面に立つ千秋の顔は、再生中の映像を一時停止したかのように固まった。
「おかしいよな……でも、言ってくれよ……」
キミは片手に持つLEDライトを、向き合っている千秋に渡して言う。
――チャランカラン、カラン、チャランカラン。
キミの背後で鈴の音がする。
LEDライトを受け取った千秋は、キミの背後に明かりを向ける。
夜霧の中へ真っ直ぐ伸びた光が、キミの脇をかすめて暗闇を刺す。
その明かりがきみの肩や腕に僅かに反射して、千秋の顔を薄ら照り返した。
千秋の固まった表情は蒼白なものになり、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かる。
キミの後ろで鳴る鈴の音は、段々とこちらに近づいて来ているように聞こえる。
「千秋……、言ってくれ。駄目とも言わないし、断りもしないから」
「おおおおお男の人が……立ち上がった。あ る い て る」
千秋が真っ青な顔をして後ずさりした。
「それは……大変だ」
キミは振り返った。
ライトの光が筒状に突き抜けていった霧の先に男性の姿があった。
立って、こっちに向かって歩いている。
――カランチャランカラン、カラン。
「なんで? どうして!?」
キミは狼狽えて、腰を屈めるように身構えた。
千秋が呼吸を荒くして後ずさりするために、手を引っ張られて後ろに下がる。
キミは驚きのあまり頭が真っ白な状態で男性を凝視した。
「なぜ、歩けるんだ――さっき見た時は確かに死んでいるように思えた――息を……ふきかえしたのか……!?」
そしてキミは気がついた。男性の歩く、その歩き方の不自然さに。
左足を一本の棒のように膝を曲げずに歩いて、逆に右足は粉砕骨折でもしたかのに太ももや膝、足首がぐにゃぐにゃで、引きずっている。
肩もおかしい。
左肩の間接が外れているのか、ぶらんぶらんと垂れ下がり、逆に右肩は耳の高さまで突き出て山シャツの肩部が盛り上がっている。
男性が歩く度に、背負ったリュックサックがズルッ、ズルッと左右に揺れ動き、
――チャランカラン、カラン、チャランカラン。
「生きているのか……いやだけど、あの体、――車に撥ねられたと言っても山道を飛ばして来たわけでもないのに、こんな異様な怪我を負うものなのか――しかし、歩いている」
きみは男性に向かって、前に進もうとする。助けなければ、手当をしなければならない。
「ちょっと! 何考えてるの!? 普通じゃないって!」
千秋がきみの手を引っ張った。
キミは語気を強めて言う。
「生きているとしたら! カエ姉達が救急車を連れてくるまで手当をしないと!!」
「無理よ! もうどうしようもないってば!」
千秋が必死になってきみの手を握りしめ、靴の踵を立てて後ろへ下がろうとする。
この男性に何かしらの手当を施さなければならない。キミは前のめりになって進む。
「離せって千秋! このまま放置したらヤバいって! 見殺しにする気かよ!! 俺にはそんなことできない!」
「見殺しって! もう死んでるって絶対に! おかしいもん!!」
千秋も踏ん張って、キミを行かせない。
「何もしなければこのまま死ぬよ! ――あの時心肺蘇生法をやっておけば良かった――本当に俺たちが殺したことになっちまうぞ! 今なら間に合う!」
「手遅れだって! 男の人をよく見てみなよ! おかしいんだってば!!」
千秋が明かりを男性に向けた。引っ張られながらキミは顔を上げて男性を見る。
瞬間、夜風が吹いて漂う霧が流れ、辺りが晴れた。
同時に男性を包んでいた何かが夜風に剥ぎ取られた。
その全てが消えるほんの一瞬、
『頼むよ……』
と男性は言った。
夜風とともに男性は、骸骨という亡骸に変貌した。
その姿、ぼろぼろの擦切れた衣服の袖から覗ける掌が骨と化して薄皮がへばりつき、瞳孔を確認した眼球は奥に引っ込んで湧いた蛆に喰われている。残飯のような水気を含んだ物が、ズボンの裾からべちゃっと流れ出て、登山靴と地面を濡らした。
「――ひっ!」
千秋が小さく悲鳴を上げて、キミの手を離した。
途端、前進中のキミは亡骸に突っ込んだ。
ほとんど体当たりだった。
「ぬびゃあああ!」
キミは亡骸の腹部に頭突きした。
亡骸がくの字に折れて、臓物の弾ける水音と一緒に、
『――頼むよ』
と男性の声が耳に入った。
キミは亡骸の横に転げて尻餅をつき、地面を蹴り飛ばすように足をばたつかせて後ろに下がる。
アンモニア臭で鼻が痛い。
眼がチカチカする。
倒れた亡骸から虫が這いでてきた。
そして、キミを照らしていた明かりが消えて駆け出す足音がした。
キミはそちらに目を向ける。
千秋が逃走した――
「おいっ待てよ! 置いて行くなよ!!」
キミは慌てて千秋に叫んだ。
「マジで逃げんなって! ひとりにすんなよ!」
唯一明かりを持った千秋はパニックに陥り、山道を脇目も振らずに猛然と走る。
キミは真っ暗闇に腐敗した亡骸と残されて湧く恐怖の次に、怒りが湧いた。
「すぐパニックになるのやめろって!! 待てって!」
キミは千秋の背中を追った。
「ギャアアアアアアアアア! お っ て き た ああぁぁああ!!!」
千秋の悲鳴が樹海に轟いた。
「俺だよ! 生きてるよ! 死んでねぇよ! 頼むから待ってくれええええ!」
車で来た山道を千秋は信じられない速度で走る。
ライトの明かりが上下左右に振り乱れ、あっちこっち照らす。
キミが千秋に追いつきそうになると、千秋はその足音を察知してさらに速度を上げ、泣き叫びながら猛ダッシュ。
かなりの距離を走って、やっとのことで千秋の腕を掴むと、
「イィィィィィギャァァァアアアアアアア――」
断末魔の叫びを極めた悲鳴を上げて、ぷつんと意識を失った。
「おいっ! 大丈夫か千秋!」
キミは走り倒れる千秋の脇腹を抱えこみ、地面との接触を防ぐ。
「しっかりしろ千秋! 千秋!!」
青白い頬をぺしぺしと叩いてみるが反応はない。完全に失神していた。
「……弱ったな…………どうしよう……」
と、鬱蒼とした樹木の向こうからサイレンの吹鳴が聞こえてきた。
次第に赤色の回転灯の光が木の間からチラチラと見えた。
救急車とパトカーだ。
「カエ姉達が戻って来た! はあ~あああ、よかった~~」
キミは安堵の溜息を漏らした。
そして千秋を支えながら車道の真ん中に出て、手を振った。




