第5話 幽霊を探し訪ねて 〝撥ねたモノ〟 1/3
海水浴場からの帰宅途中である。
車はカエ姉の運転で夜の樹海を走っている。曲がりくねって外灯ひとつない鳥海山麓の道、――県道58号線。
助手席にどっぷりと体を沈めたキミは、車の進行方向を寝ぼけ眼で見ていた。。
夜霧がヘッドライトに照らさて暗闇に浮かび上がる。
そこを車が突っ切ると、夜霧はフロントガラスを濡らして後ろへと流れる。
霧の塊がまたひとつ、またひとつ。
その度に、ワイパーが音を立ててフロントガラスの水滴を払拭する。
「樹海はもう嫌だ」
カエ姉、千秋、ハルは栞乃を批判した。
だが、栞乃は鼻息を荒くして言った。
「探索もスケジュール帳にあるのだ」
キミは命の恩人を援護した。
「為做せ旅館の時、聖水や塩を持ってきた栞乃に助けられたんだ。少しくらい栞乃のわがままを聞こうぜ? 俺は命を助けられたわけだし」……と。
あくまで上辺だけの台詞だったが、カエ姉たちは「うぐっ」と言葉を呑み――
今に至る。
キミは隣でハンドルを握るカエ姉を見た。
涙を眼に溜めて鼻の頭に汗を掻いている。
それはまるで鼻水を垂れて泣いているように見えた。
しきりに汗を拭っては、ズボンの膝辺りで手の平に掻いた汗と一緒にせわしなく拭いている。
次いでキミは後部座席へ目をやる。
ソワソワと落ち着かない様子の千秋は恐怖心で顔を強張らせていた。
その横で、栞乃はこくりこくりと首を上下させて涎を垂らしており、その涎を、酔い止めを飲んだハルがハンカチで拭いてあげている。
こんな状況でよく寝ていられる。
キミは呆れながら体を戻した。
そのとき――
車の前方、目と鼻の先で。
ヘッドライトに照らされて白く染まった夜霧の中に黒い影が躍り出た瞬間。
ドンッ!
甲高いブレーキ音が樹海に轟いた。と同時に黒い影はフロントの下へ消えた。
一瞬だった。
今なにかを撥ねたのだ。
それは人だったように思えた。
そしてたった今、それはフロントの下へ沈んで消えた。
「「…………」」
車内に悲鳴はなかった。
キミは口を半開きに開けたままゆっくりと首をまわしてカエ姉を見た。
「……」
カエ姉は、見開いた目をフロントガラス前方に向けていた。
キュッ、キュッとワイパーの動く向こうを……。
「………………タヌキ、だよね」
カエ姉は震えた声で言った。
きみは僅かに首を振って、
「いや、もっと大きかった。もしタヌキなら、タヌキだったら、フロントの上にまで影はできない」
「鹿……かな。ううん、クマかもしれない。きっとそうだよね、絶対にそう」
「…………俺には、人のように見えた」
「まさかっ!」
カエ姉の声が裏返った。
「そんなはずないよ、馬鹿言わないでよね」
車内に重苦しい空気がたちこめた。
「カエ姉、バックしてみたら……どうかな」
ハルが提案した。
カエ姉は小さく頷いてシフトレバーをRにした。
途端に車内に鳴り響く後退時のブザー。異常なほど耳障りな音に感じられる。
徐々に車が後退し、影だったものが少しずつ見えてきた。
赤いチェックの入った長袖の山シャツ、薄茶色のズボン、黒い登山靴。
背負った山岳用リュックサックにはロープと計量カップのようなマグカップが吊るされている。
登山者らしき人物が車道にうつ伏せで倒れて、ヘッドライトの明かりを浴びている。
その人物の顔が、こちらに向いている。
男性だった。
「撥ねちゃった……」
男性を目視してカエ姉が言った。
納車されたばかりの新車で、カエ姉が人を撥ねた。
男性は倒れたままぴくりとも動かない。
事件だった。
新車は事故車となった。
「どうしよう……あぁ、ここ圏外だ……」
カエ姉は携帯電話を取り出して、震えた声。
キミは倒れている男性を見て言った。
「一旦ここを離れて救急車呼ばないと……カエ姉」
ヘッドライトの光を反射してるマグカップはぶつかった衝撃なのか変形していた。
「通報……になるよね。救急車、来るよね。パトカーも来るよね。捕まるよね」
カエ姉はごくりと唾を呑み、
「あの男の人、死んでるみたいだし……………………逃げちゃおっか」
キミは自分の耳を疑った。
「まさかカエ姉、ひき逃げするきかよ! あり得ないって!」
「そそそ、そうよカエ姉! 高校教師でしょ!」
千秋も声を上げる。
「カエ姉酷いよっ! ちゃんと責任、――その前に手当てしないと!!」
「いま逃げたらあの男がカエ姉の枕元に立つのだ!」
ハルと栞乃もカエ姉を非難する。
「うるさいわよ!!」
カエ姉が声を張り上げる。
「捕まったら禁固刑よ! そんなの絶対ヤダ。まだ枕元に立たれる方がマシよ!」
キミは唖然として言葉を失った。
「教師のいう台詞とは思えない……」
と千秋が言うと、栞乃が、
「あの男の魂と警察からは逃げられないのだ!」
と栞乃が言うと、ハルが、
「カエ姉……自首しよう? このまま逃げて捕まれば絶対禁固刑……でも、手当をして救急車と警察を呼べば、少しは罪も減軽するし情状酌量で禁固刑も短くなるよっ。同じ逮捕でも軽くなった方がいいよ!」
みんなでカエ姉を説得する。
カエ姉は体を小刻みに震わせ、ハンドルに額をコヅコヅと当てて考えて、
「分かった……そうする……」
溜めた涙が今にも溢れてしまいそうな顔をきみに向けた。
「あの人の手当お願い、これから携帯電波の届く所まで行ってくるから」
「……、え?」
キミは車外に目をやった。
車1台やっと通れる山道は、樹木が鬱蒼として外灯のない真っ暗闇。
前夜の為做せ旅館の道を彷彿とさせる。
そのうえ夜霧が冷たく漂うこの中に突っ立ってあの男性と2人きり。
キミは身震いした。
「冗談キツいぜカエ姉……」
カエ姉が、キミにLEDライトを手渡した。
「じゃあハルと一緒に残って。早く行かないと」
「うん、しょうがないけど……」
ハルがシートベルトのロックを解除すると、
「えっ、ちょっと待って」
千秋が苦り切った表情を浮かべた。
「どうしてハルなのよ、カエ姉」
「千秋は怖いのダメでしょ? それに、酔い止めを飲ませても心配だし……」
カエ姉はハルを一瞥した。
カエ姉にとってこの事故車は、まだ愛車であった。
ハルが不思議そうに小首を傾げて「代わる?」と千秋に尋ねた。
「俺の代わりに千秋とハルが残ってくれよ……」
「それは嫌よ、意味ないの」
「ハルでも千秋どっちでも良いから! 早く車から降りて!!」
女の子二人で樹海の中は危険。キミが降りることは決定事項だった。
熱り立つカエ姉に急かされて千秋が車を降りた。
キミも車から降りた。
そして、ヘッドライトに照らされる男性に近づき、その顔を覗き込むように見た。
車の放つ眩しい明かりでも、濃褐色をした男性の瞳は瞳孔が大きく散大して光量の調節を行わず自律的な働きは認められない。
背負ったリュックサックの重さを考慮しても、空気を取り込む肺が、胸が、上体が動いている様子もない。
樹海の冷えた空気の中、きみは白い息を漏らしているが、男性の鼻と口からは、そういったものは見受けられない。
本当に死んでいると確信はもてないが、瞳孔反応なし・呼吸停止の死亡確認三兆候の二つはある。
もう一つ、心停止の確認もあるが――脈を測るために死体なのかもしれない男性の肌に、自らの手で触れたくなかった。まして男性を仰向けにして、自分の耳をその胸に押し当てて、心音を聞くことなど不可能に近い。
一瞬、人工呼吸や心臓マッサージの心肺蘇生法が頭を過った。
「いやいやいや……ダメだ、素人目にも手の施しようが……。俺なんかお呼びじゃない」
弱腰になって、この場所から逃げ出したい気分になった。
すると眩い光が遠ざかってゆく。
この細い山道で、ハルと栞乃を乗せた車はUターンができない。そのためヘッドライトをこちらに向けたまま車が後退していく。
カーナビの明かりに照らされたカエ姉の顔がフロントガラスにぼんやりと浮かぶ。その顔の輪郭が少しずつ遠ざかって行く。この様が、この場を撤退したっきり二度と戻ってこないように思えた。
「絶っ対に戻って来てよーーっ!」
千秋は後退して行く車に言った。




