第3話 幽霊を探し訪ねて 〝為做せ旅館〟 4/4
女子部屋に入ると座布団の上にハルがちょこん座っていた。
「気分はどうだ? まだ気持ち悪いのか?」
「ううん、少し疲れただけだから……大丈夫。お風呂には行かないの?」
「腹減ったしなあ」
キミは部屋を見まわした。
作りはどちらも変わらない。
「古い旅館だよね。浴衣も何にもないの」
「浴衣ないのかよ……俺の部屋もお茶やお菓子に冷蔵庫も、テレビすらなかった。殺風景なもんだったぜ。窓からの眺めも悪いし」
キミは座布団を足で寄せて座卓を挟んでハルの前に座る。
「それにさ、部屋を用意するって何を用意したんだ? なにもないじゃんな? せめて夕食はまともに用意してほしいよな」
「美味しい夕食で、思い出になる御馳走だったらいいなぁ」
「そうじゃなかったら宿代を安くしてもらわないと」
キミは畳にゴロンと横になった。
枕代わりに頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。
茶色い木目のある天井に黒いシミがあった。
キミはその一点をジッと見つめた。
天井の板が、黒いシミを中心に渦巻くようにグネッと歪んだ。
「は……?」
キミは目を擦ってもう一度見る。
「……疲れてるのかな」
「どうかしたの?」
その刹那――
「「ぎゃぁぁぁぁぁあああああああ」」
悲鳴が上がった。
カエ姉、千秋、栞乃、3人の声だ。
栞乃のイタズラなんかではない――そんな冗談半分の悲鳴ではなかった。
「どうしたんだ!?」
キミは座布団を蹴飛ばし、部屋の入口に走る。
廊下から足音がした。
ドッドッドッドッ! ドッ! ドッ! ドッ!! ドッ!! ドッ!!
襖を開けて廊下に出た瞬間。
シャンプーの泡を頭に乗せ、全身びしょびしょで真っ裸の栞乃が、
「出ーーたーーのーーだあーーーーー!!」
両手を広げて疾走して来た!
「うわっ! 栞乃っ!」
栞乃はキミに向かってジャンプ!
前向きだっこ状態でしがみついてきた。
「高校生だろっ! 裸で走ってくんな!」
「そんなの関係ないのだ!! でででででたのだ!!」
しがみついてくる栞乃は、キミの腰を足で挟み込んだ。
たすきがけのように首ともに回された腕には鳥肌が立っていて、体をぶるぶる震わせている。
風呂で何かあったらしい。
「み、みんな裸で、浴槽に入る前に。みんなで体を洗っていたのだ……!」
湯船につかる前――
カエ姉が栞乃の背中を洗い、栞乃が千秋の背中を洗って今度は逆、と代わる代わるキャッキャ言いながら楽しく背中を流していた。
背中を洗い終わってシャンプーをしていると、檜のいい香りのるす浴場に、突如として魚市場の青臭い……、魚の腐ったような異臭が漂い始め、これに混じって錆びた鉄の臭いが立ち篭めた。
「何なのだ?」と栞乃は思った。
これは温泉のニオイではない。
シャンプーが目に入ってしまい、シャワーで泡を流して栞乃は左右を確認した。
左にいる千秋は、足もとに置いた洗面器に目線を落として、凍りついている。
右にいるカエ姉は頭を洗う手が止まり、正面にある鏡を目を見開いて凝視していた。
ふっと鏡に目をやった栞乃は見た。鏡に映る自分と、その後ろの浴槽を。
人間の、手や足や胴が、ぐつぐつ煮込まれた浴槽を……。
ぶるっと体を震わせた直後、赤いお湯に濡れた腕が一本、湯船にヌッと浮かび上がって、
「おいでおいでしたのだあ!! あの臭いは血なのだ!」
キミにしがみつく栞乃が叫ぶ。
と女湯から、Tシャツの前後ろ逆に着た千秋が飛び出してきた。
濡れた床ですっ転んだ。
それでも千秋は四つん這いで走る。
「もうダメ! もーダメ! こんな旅館いられない!!」
「みんないる!? チェックアウトだよ!」
カエ姉も飛び出して来た。
栞乃の着替えを持って来ている。
「この旅館にいたら命が危ないっ! 朝方には人生チェックアウトだよ!!」
栞乃着替えろ! とカエ姉は栞乃の背中に服を叩き付け、部屋に入って両手に持てるだけの荷物を抱えると旅館の玄関に向かって走って行った。
「ど、どうしたの栞乃ちゃん、裸で何があったの!?」
「即逃げるのだ! 荷物投げても命大事に車へ行くのだ!!」
キミから裸体を離した栞乃は、カエ姉から受け取った着替えからパンツを手にした。
「ちょ、おい、ここで履くのかよっ」
キミは慌てた。
そんなキミに千秋が叫んだ。
「早く荷物もって逃げるの!」
キミは回れ右。
「何なんだよいったい、わけ分かんねーよ。風呂に手足が? 馬鹿言うなって」
自分の荷物を取りに部屋へ走った。
襖を開けると、部屋の前を千秋と栞乃が揉みくちゃになって駆けてゆく。
「おい! 待てよ俺を置いてくなって!」
荷物を持って部屋から出る。
「お客様、どうかなさいましたか?」
背後から声がして、キミは手首を握られた。
氷のように冷たい手。
振り返ると、そこにいたのは真っ白い顔の仲居さんだった。
「いや、えっと……みんな帰るとか言い出して」
「お食事を準備していますので今しばらく」
仲居さんの手にグッと力が入る。
「お待ち下さいますようお願い申し上げます」
仲居さんの内出血した黒い爪が、きみの手首に食い込む。
「痛っ」
なんだこの人、とキミは白い顔に目を向けた。
厚化粧した顔のこめかみから――
化粧の小片がポロッと落ちた。
いや違う。
顔。
顔が落ちた。
まるで孵化する卵のように罅が入って、顔の一部が床に落ちた。
赤茶けたビーフジャーキーのような干涸びた顔の筋肉が僅かに現れた。
「ぅわぁあ!」
キミは叫んだ
こいつは生きてる人間の軀じゃねえ!
確信を得たとき。
逃遅れたハルが走って来るや否や幽霊か屍か分からぬこの女の脳天めがけて栞乃のリュックサックを思いっきり、
「ええい!」
フルスウィングした。
バギッ!!
女の首が90度横に曲がって壁に激突。
同時に掴まれた手が離された。
「やっちゃった……」
ハルは腰が抜けてへたり込む。
「コイツになら許す!!」
キミはハルと荷物を抱きかかえた。
お姫様抱っこで玄関に向かって走る。
角を曲がってひた走ると、背後でパチン、パチンと弾けるような音が聞こえた。
キミは首だけ捻って後方を見た。
廊下を照らす電球がショート。次々に消えている。
暗闇がキミを追いかけてきた。
呑まれたら助からない。
キミは渾身の力をふりしぼって逃げ走る。
「逼ってくるよ! どんどん来てる、……嘘、あの女の人も……」
後方の様子を告げるハルの熱くて荒い息づかいが耳朶に吹きかかる。
「お客様ぁ! どちらへ向かわれるおつもりでぇ!」
中居の乱暴な叫び。
女の高い声から、男の低い声へ変わる。
それが真後ろで発せられているようだ。
もう振り向けない。
背中に突き刺さる視線が痛い。
「きちんとお食べになられて、しっかり肥えてぇ貰わねばぁぁァア!」
「きゃぁっ」
見てはいけない物を見たのか、ハルは目を瞑ってキミの胸に顔を埋めた。
「折角ゴ用意シタ部屋デ、ゴザ、ゴザ……います! お戻りにぃ!」
背後で床を踏み抜くような凄まじい足音が壁に反響してことさら大音量で耳に入る。
軋む廊下。
激しい震動が足元を突上げてくる。
地震なんてものではない。
敷かれた赤絨毯が振動で波打っている。
キミは全速力で廊下を駆ける。
帳場が見え、玄関が見えて来た。
玄関に垂れ下がる電球が震動でもって揺らめいている。
番頭がいる。
橙色の明かりに照らされた番頭が行く手を遮るかのように、大の字で倒れているのが見えた。
ビクビク痙攣を起こしているその脇に首のもげた福助人形が無惨に転がっている。
さらに正面の玄関、格子戸が外れて道路側に吹っ飛んでいた。
おそらくカエ姉達と番頭とが争い、格子戸を蹴破って逃げて行ったに違いない。
「捕マエロォオオオ! オキロオオオオオ!!!!!!!!」
廊下に怒号が反響する。
痙攣を起こしていた番頭が、覚醒した。
何の予備動作もなく体重移動なしで上半身を起こした番頭は、擡げた頭をグィッと骨を接続するかのように両手で据えた。
それがキミにとって丁度良い高さ。
キミは駆ける勢いそのままに番頭の顎を力の限り蹴っ飛ばした。
「グエェッ――」
口から唾を吐出させ、首がぐるっと捩じれて、後頭部が前にきた。
キミは無我夢中で玄関を飛び出すと、格子戸で足が滑った。が、体勢を崩しながらもハルを抱きかかえたまま、やっとの思いで旅館から抜け出した。
外はピリピリとした空気で張りつめていた。
ナイフの鋭い刃が混じったような風が吹く。
ブウウウウウウウウウウ!!!
駐車場でフィットのクラクションが鳴り響く。
開いたテールゲートから体を出した栞乃が水鉄砲を持って、
「早く逃げるのだあ!!」
そう叫ぶ間にも車は駐車場から出、
「カエ姉! まだ乗ってない! ストップストップ!!」
千秋が怒鳴るように叫ぶ。
カエ姉も叫ぶ。
「飛び乗れぇぇぇぇえええ!!」
キミは体力気力ともに限界だがハルを抱えて走った。
『宿』のライトアップが消えて、駐車場の蛍光灯が火花を散らして割れた。
「あれ見て!」
ハルが駐車場を指さした。
目を向けると駐車場だった空間が萎縮している。
駐車場のアスファルトは朽ちて木や草や土が現れた。
まるで森の見ている夢が醒めて現実に還るようにその姿が露になってゆく。
バタン!
後ろで音がした。
「宿の看板が崩れたの! やだ、2人が追ってくるよ!!」
「くっそおおお!」
キミは一心不乱。止まらない車に向かって走る。
走る。
走る。
走る。
心臓が痛い。
つま先から太ももまで全部が痛い。
走る。
もう五メートル。
「カエ姉! 止まってってば!」
千秋は伯方の塩を手に持って、カエ姉に言った。
「無理無理無理ぃ!」
「これでも喰らうのだー!!」
シュコシュコシュコっと水鉄砲の空気圧を高めた栞乃。キミの後ろに向かって聖水を放水した。
水鉄砲の先から、ぴゅーっと弧を描く聖水。
「ハル! 手を伸ばしなさい!」
右手でシートベルトを握った千秋が左手を差し伸べて、
「なにしてんの! 早く!」
必死で叫ぶ。
ハルも精一杯手を伸ばした。
開いたテールゲートまでもう2メートル。
空を掴む2人の指先が触れたとき――
「「待デ! 待デ! 待デ! 待デ! 待デェ!!」」
「うわああ! あいつら俊足なのだ!」
シュコシュコやりながら栞乃は声を上げた。
「投げるぞハル!」
キミは火事場の馬鹿力を発揮。
ハルの体を車の中へ放り投げた!
「きゃああっ!」
宙を飛んで尻から車内にドスンと着地。
前に倒れながらキミもジャンプ。
車内に飛び込んだ。
キミは息も絶え絶えに追ってくる2人を振り返った。
顔の筋肉剥き出しの女が拳を振って裸足で追走してくる。
その隣に並んで、こちらに背を向けて番頭が激走する。
背中はこちらだが、捩じれた首がキミを見ている。どっちが前なのか分からない。
だが、頭がキミを向いているので正面か。
しかしその番頭の足が逆くの字で走って来るその様は異様だ。
キミはクラフト紙袋に手を突っ込んで伯方の塩を掴むと、2人に投げ撒いた。
千秋も撒いた。
栞乃が水鉄砲で聖水を噴射する。
「「ヌアアアアアアアアア!!!」」
追撃者2人は、顔や肩に付着する塩と聖水を払い除けようと悶えた。
「効いてるぞ! 塩をもっと撒け!」
「効果覿面なのだ! 2リットル3980円の聖水パワーを思い知るのだ!!」
栞乃は水鉄砲のタンクを外して、直接聖水をぶちまけた。
「旅館が! 道が森に還っていく!」
力士のように塩を巻いている千秋が言った。
追撃者2人の後方。
旅館があった場所や車道は木や草が物凄いスピードで生茂り、今度は森が追って来た。
「カエ姉車飛ばして! 森に食べられちゃう!!」
まるでファスナーを閉めるように車道両脇の樹木が合わさって襲いかかる。
「アクセルベタ踏みだよ!」
スピード上がんない! とカエ姉は半べそかいて言った。
30キロ程度でこれ以上は速度が出せない。
道路のアスファルトが土やコケに変わる。
それでも追撃者2人は森に呑まれながら向かってくる。
キミは伯方の塩を両手ですくって粉雪のような塩を撒き散らす。
千秋が紙袋を裂いて残り全部を振り撒いた瞬間――
車は急な角度で右に曲がって幅の広い車道に出た。
「チクショオオオオオオオオオオオ!」
絶叫が聞こえた途端。
車のタイヤが空回りしたかと思えば一気にスピードを増した。
「うぎゃっン」
バランスを崩した千秋が車から転落しそうになったところをキミは咄嗟に千秋の手を掴んでその体を引き寄せる。
急発進に慌てて、カエ姉はブレーキを踏んだ。
黒いブレーキ痕を車道に刻んで車は停車した。
「道がないのだ……」
森から飛び出した所を見て栞乃が言った。
今走って来た森の道はない。
タイヤの跡が不自然に森から伸びている。
そして追撃者2人の姿はない。
「何なんだよ、あれは。どういうことだよ……」
「…………為做せ旅館」
カエ姉がポツリとつぶやいた。
「『為』も『做』もつくる意味。あわせて『為做す』。……聞いたことあるでしょ?」
「為做すって、失敗する意味じゃなかったの……? しなしたりって」
ハルは放心状態でへたり込んだ。
カエ姉はハンドルを握りしめ、前を向いたまま言った。
「命辛々逃げた人間の……あの旅館を指す皮肉言葉かも……」
為做せ旅館――




