私には秘密がある
すらり、と音がして、私は包丁を握っていた手を止め居間を見た。座ってテレビを見ていた彼氏の姿が見当たらない。まさか、と私は真っ青になって居間へ向かうと、そこには押入れを開けて硬直している彼の姿があった。
「あ……」
どうしよう。ついにばれてしまった。私も呆然と彼の後ろで立ち尽くしていた。終ってしまったのかもしれない。じわりと溢れてくる涙を必死に堪えて彼を見つめると、彼は止めていたのか息をはぁーと長く吐いて、力が抜けたようにずるずるとその場に座り込んだ。
「ヘビ……か」
ぽつりと彼がそう呟いた。そしてまた、「ヘビかぁ……」と吐息のように呟くと、俯いたまま動かなくなった。私が彼の側にそっと近寄ると、彼はその場で私をぐっと引き寄せ抱きしめた。
「……馬鹿」
「え?」
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……」
「ええ!?」
ぎゅう、と苦しいくらいに抱きしめられて、馬鹿馬鹿と罵られる。でも、泣きそうな声で馬鹿と罵られたって、ちっとも頭にはこなかった。彼の表情はちっとも私には見えないけれど、きつく抱きしめてくるこの腕に、私はまだ愛されているのだと感じた。
すると、彼が突然「うわっ」と声を上げて抱きしめていた腕を離す。彼の顔が真正面にあって、なんだか今日初めて彼と顔を合わせたような気になった。そして、何か言わなきゃと口を開いた私の足に、ひやりとした温度が触れた。
「ひゃっ!?」
冷たさに思わず声を上げて足元を見ると、碧の鱗をきらめかせたダイスケがするすると居間の床を這っているところだった。大変と私はダイスケを鷲掴み、手のひらに乗せる。押入れを見ると、ダイスケのケースの蓋が開いていた。どうやら、きちんと閉まっていなかったらしい。私としたことが。慌てていたとはいえ、このまま脱走に気付かなければ一大事だった。ほっと私が胸を撫で下ろしていると、彼が私の手をじっと見ながら、
「……そのヘビだけだよね。押入れに隠してるの」
と言った。う、やっぱり押入れに隠しているものがあるって気付いていたんだ。そうだよね、この間もかなり挙動不審だったもんね。そりゃ、気付くか。
「……もう一匹、いるんだけど……」
私が恐々と口にすれば、「そうじゃないよ」と彼は溜息と共に空を仰いだ。もう一度目が会った彼は苦笑して私の腰に手を回すと、そのままぐっと自分の方に引き寄せる。「俺さ」と喋る彼の声が、すぐ耳元で落とされた。
「俺さ、この部屋には誰か、男が居るんじゃないかってずっと疑ってた」
「えっ!?」
もしかして私、浮気を疑われてたの。そんな、と口をぱくぱくして言葉の出ない私に、彼はさらに続けた。
「信じたくなかったけど、必ず連絡してから家に来て、とか。そもそも家に来ること自体歓迎されてなさそうだったし。同棲の話も有耶無耶にされちゃったしさ。友達とか、上司には、絶対部屋に男置いてるだろとか言われるし……」
「無い! 無い無い無い。絶対有り得ないから!! 私は、その、ヘビ飼ってるの、変に思われたらどうしようとか……。それだけで、だから……」
「うん。良かった……。良かったよ」
私の声を遮って彼がそっと頬擦りをする。絶対にばれない様にといろいろ頑張ってきたけれど、結局それが彼を不安にさせていたんだ。ごめんね、と私は彼の頬に手を伸ばして気付いた。まだ、ダイスケが手に乗ったままだった。
「あ……」
「お」
至近距離に近づいたダイスケに彼は一瞬目を丸くしたけれど、すぐに笑顔になった。ダイスケは初めて見る家族以外の人間に興味があるのか、彼からずっと目を逸らさない。
「名前は?」
「……ダイスケ」
「雄だし。……そっか、押入れに隠れてた男は、君だったの。ダイスケ」
言葉は恨めしそうだけれど、顔は優しげに笑っている。私はその顔を見て、なんでもっと早く打ち明けなかったんだと少し後悔した。彼が「もう一匹いるんだっけ?」と聞いてきたので、私は押入れからヒバリくんのケースを取り出し彼に紹介した。この二匹が、私の同居人です。
「ダイスケとヒバリ、か。これからよろしく。俺にもちょっとは懐いてくれよ」
「え?」
「え? じゃないでしょ。一緒に住むんだから。仲良くならないとね、俺たち」
そういって彼は押入れの中に手を突っ込み、『ヘビの飼い方 初心者編』の本を取り出した。あれは私が一番初めに買ったやつだ。今度こそ堪え切れなくなって、決壊した涙がぼろぼろと私の頬を伝う。
「良かったね。ダイスケ、ヒバリくん。……私たち、一緒にいて良いって。良いんだって」
私はそっとヒバリくんのケースを撫で、ダイスケにそう語りかけた。そんな私の頭を、彼はいつまでも優しく撫でていてくれた。
彼と一緒の電車に乗って、やって来たのは久しぶりの我が家である。ごく普通の一軒家なのは見た目だけ。中に入れば、誰もが認める蛇御殿である。
「今更なんだけどさ、ほんとにいいの? うちん家、大げさでもなくって本当に蛇屋敷だよ?」
家の前で、私は隣に立つ彼にそう話しかけた。「大丈夫」と答えた彼は、スーツではないけれど、ちょっと良い服を着て緊張気味だ。
あれから分かったことだけれど、本当は彼も爬虫類はあまり好きではなかったらしい。だけど、あの時は私の部屋に男が居るかもと疑っていて、今日こそは暴いてやると意気込んでやって来たから、実際に居たのがヘビ二匹と知って一気に脱力。私が彼の苦手な生き物を飼っているとか、どうでも良くなったんだそうだ。
今はもうケース越しなら平気みたいで、今度ダイスケのハンドリングにも挑戦してみたいと言ってくれた。私の部屋にあるヘビ関連の本も何冊か読んでいるし、そうやって、少しずつ理解しようと歩み寄ってくれるのが嬉しかった。自分の知らない世界も、こうやって近づこうと一生懸命努力してくれる。大学時代も、私は彼のそんなところに憧れて好きになっていったんだっけ。
じっと彼の顔を見ていたら、「何?」と聞かれて、「なんでもない」と私は答えていた。
彼は我が家に入る覚悟が決まったのか、
「じゃあ、君の家族を紹介して下さい。全員、ね」
と言ったので、私は「もちろん」と実家のチャイムを鳴らした。
もう一度好きになった、なんて言うのは恥ずかしいので、それを私が彼に打ち明けるのはまだまだ先になるのかもしれない。
『押入れだけは開けないで』これにて完結です。最後まで読んでくださりありがとうございました。