うなぎ定食
フォレステッジの大通りを、鬼人の男、ダグは一人で歩いていた。
告知によって鬼人族の男が一人、フォレステッジに滞在しているということは知れ渡っていた。彼が問題ないことについては聖女様のお墨付きがあるということも。
それでも、すれ違う人々はちらちらと恐れと好奇心の入り混じった視線をダグに送ってくる。三メートルの巨躯を見上げる目には、まだ怯えの色も濃く残っていた。露店の主人が、思わず品物を抱え直す。子供が母親の陰に隠れながらも興味津々にダグの角を見上げる。先日の一件のように剣を向けられることはもうないが、完全に警戒を解かれるにはまだ時間が足りなさそうだ。
「……でけえ」
通りすがりの誰かが、思わずといった様子で呟くのが聞こえた。見上げられることには慣れているつもりだったが、それでも一人であてもなく街を歩くのは、まだどこか居心地が悪い。ダグは苦笑いを浮かべながらも、足を止めずに歩き続ける。
(そういや、また来るか、なんて言っちまったな)
特に約束というほどのものでもなかったが、あの出汁の匂いと、賑やかだった鍋の記憶が、ずっと頭の隅に居座っていた。今日もまた、あの味を求めて、ダグの足は自然と路地の方角へと向いている。
大通りの脇道で、見覚えのある人影が立ち話をしていた。
「今月の瘴気魔獣の発生件数、先月より明らかに増えています。先月が九件だったのに対して、今月はすでに十四件」
眼鏡をかけた女性が、帳面をカイルへと差し出している。
「生息域が森の奥にある魔獣ほど濃い瘴気がまとわりついているようだとルチア様はおっしゃっていました」
「森の奥、か」
「それと、もう一つ。教会本部から、問い合わせが届いています。件数の増加について、詳しい状況を知りたい、と」
「教会が、わざわざか」
「はい。……近々、視察官が派遣されるかもしれません」
「森の奥と教会と。か」
カイルが低く呟き、腕を組んで考え込む。その視線が、不意に道の先へと逸れた。
「……ん?」
大通りの向こうを、大柄な人影が横切っていく。
「どうかしましたか」
「いや……あれ、この前のやつだ」
カイルの目が、細く鋭くなる。
「知り合いですか?」
「顔は知ってる。だが、名前もろくに聞いてねえ」
記録官のリタは、初めて見る大男に軽く首を傾げただけで、それ以上は特に気にも留めなかった。
「見張りはつけてるが、俺自身がこの目で確かめといた方が早いか」
カイルはそう呟き、リタに軽く手を上げた。
「状況は分かった。ありがとな。俺は行くぜ」
「はい。お疲れ様です」
リタが表情も変えずにそう言い残すのを背に、カイルはさりげない足取りでダグの後を追い始めた。
ダグが向かった先は、藍色の暖簾がかかる、あの路地の奥の店だった。
「……は?」
思わず声が漏れる。まさかここに来たことがあるのか?あ、でもあの時聖女様がいたな。なら、まあ来るか。納得するカイルの前で、ダグは暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
ダグを低い声が迎える。カウンターの向こうでは、店主が黙々と串を並べていた。
ダグは空いた席に腰を下ろし、カウンターの奥を軽く見回した。
(……今日は、いないみたいだな)
心の中でそう呟いたところへ、聞き覚えのある声が背後から飛んだ。
「……お前、なんでここに入ったんだ?」
振り返ったダグが、驚いたように目を見開く。
「な……お前か。なんでお前が」
「そりゃこっちの台詞だ。見回りの途中で見かけたから、ちっと気になって追ってきただけだ」
二人の間に、なんとも言えない気まずい沈黙が落ちる。剣を向け合った日から、まだそう時間は経っていない。互いにどう振る舞えばいいのか、探り合うような間合いだった。
「二人ともぼうっと立ってねえで、店に入ったんだから座りなよ」
カウンターの端から、湯呑みを傾ける老人の声がかかった。皺だらけの顔に浮かんだ笑みには、初めて見る亜人族相手にも、まるで動じた様子がなかった。
「知り合いかい」
「……いや」
「そういうわけでもねえ」
二人が同時に首を振ると、老人はきょとんとした顔をした。
「知り合いでもないのに、そんな顔で睨み合ってるのかい」
「……いろいろ、あってな」
ダグが気まずそうに視線を逸らすと、カイルも同じように頬をかいた。
「そういや、名乗ってもいなかったな」
「……そうだな」
「カイル・ラークウッドだ」
「ダグだ」
短く名乗り合うと、二人の間の空気がわずかに緩んだ。
「ここは鰻屋だ、何か食ってくべきだと思うぞ」
老人が話を変えるように、二人へ品書きを勧めた。
「お前さん、来たばかりだろ?人間の食べ物にはまだ詳しくねえだろう。うなぎ定食にしとくといい。おすすめだ。一通り味わえるぜ」
「定食、か」
「蒲焼、うざく、茶碗蒸し、香の物、肝吸い。ひと揃い頼めば、鰻の色んな顔が見えてくる。うな重単品じゃ味わえねえ贅沢だ」
香ばしく焼き上がった蒲焼の細切りに、鮮やかなキュウリと甘酢をあわせた「うざく」。口へ運べば、重厚な脂を爽やかな酸味がさっと切っていく。ひと口ごとに舌がリセットされ、箸が止まらなくなる。
湯気が立ちのぼる「茶碗蒸し」は、出汁をたっぷりと含んだ卵の滑らかな口当たりが真骨頂。まるで絹のように舌の上ですっと解けていく優しい風味に、底から現れる蒲焼が力強いコクを添え、卵の豊かな味わいを一層引き立てていく。
澄んだ出汁に三つ葉が浮かぶ「肝吸い」は、一尾からひとつしか取れない希少な部位を沈めた上品な一杯。繊細な味わいにほんのりとしたほろ苦さが重なり、重厚だった後味をすっきりと引き締めていく。
「うちは客を選ばねえからな。ゆっくりしていきな」
老人が訳知り顔でそう付け加えると、カイルが横から小さく突っ込んだ。
「……じいさん、客なのはあんたも同じだろうが」
「細けえことはいいんだよ」
「……そいつをもらおう。あと、量は二人前頼む」
「ああ、その図体なら一人前じゃ足りねえか。じゃあ、俺は一人前で」
「あいよ」
おやじが短く答え、焼き台の方へと向かっていった。
「串を打って、白焼きにして、蒸して、また炙る。ここからおよそ三十分だ。焦らず待つといい」
三十分という時間を、ダグは持て余した。
(……こいつと、こうして隣り合わせで座ることになるとはな)
胸の内で、独り言のような思考が渦を巻く。
(剣を向けられた時は、正直、腹が立たなかったと言えば嘘になる。だが、あいつは何も知らねえ相手を前にして、それでも街を守ろうとしただけだ。恨む筋合いなんざ、初めからなかったのかもしれねえ)
湯呑みの縁を太い指でなぞりながら、ダグは横目でカイルの様子をうかがう。
(三十年近く、森の中で魔獣とだけ向き合ってきた。人間の街に足を踏み入れることも、こうして誰かと肩を並べて座ることも、正直、慣れちゃいねえ。だが、悪くはねえもんだな)
一方のカイルもまた、無言のまま湯呑みを見つめていた。
(正体を知って、剣を向けたのは間違いだったとは思わねえ。あの場じゃ、あれが正しい判断だったはずだ)
(けどよ……こうして隣に座ってみると、拍子抜けするほど普通の奴だな、こいつ)
ちらりとダグの横顔を盗み見る。困り事の気配もなければ、悪意の欠片も感じ取れない。
(聖女様が「敵ではない」と言い切った理由が、なんとなくわかる気がする)
「……なあ」
沈黙に耐えかねたように、カイルが先に口を開いた。
「お前、自分のとこじゃ、普段は何やってるんだ。森の向こうってことでいいのかな?」
「ああ、ボーダーウッズって街がある。俺は森に入って、魔獣を狩る仕事をやってる。討伐官、ってやつだな」
「そうか。じゃあ、あの日も仕事の途中だったのか」
「ああ。縄張りを追われた奴が、こっち側に逃げ込んじまってな」
「大変そうな仕事だな」
「そっちこそ、防柵の見回りだろう。似たようなもんじゃねえか」
「まあ、そうだな」
カイルが小さく笑う。
「その、ボーダーウッズってとこじゃ、どんな暮らしをしてるんだ」
「別に、変わったこっちゃねえよ。市場で値切り合いをする奴がいりゃ、隣近所と揉め事を起こす奴もいる。税の取り立てに文句を言う奴もいりゃ、子供が広場を走り回って怒られてる」
「……なんだ、それ」
カイルが思わず噴き出した。
「こっちと、そう変わんねえじゃねえか」
「だろうな。俺も、初めて人間の街に来た時は、もっと違うもんだと思ってたが」
「亜人族の街ってのは、もっと物々しいところだと思ってたぜ。角が生えて、牙があるやつが、四六時中殺気立っていさかいを起こしてる、みたいなな」
「そういう奴も、そりゃあいるさ。だが、大抵の連中は、飯食って、働いて、笑いあって、寝る毎日だ。多分そっちと同じだよ」
二人はしばらく黙り込んだあと、どちらからともなく小さく笑い合った。
「お待ちどう」
ちょうどそこへ、二つの膳が運ばれてくる。
蒲焼、うざく、茶碗蒸し、香の物、肝吸いが、それぞれ丁寧に並べられていた。湯気の立つ飯椀と、艶やかにタレの光る蒲焼が、カウンターの上にずらりと揃う様は、それだけで壮観だった。炭火の香ばしさが、狭い店内いっぱいに満ちている。
「いただきます」
二人分の声が重なる。
先に箸をつけたのはダグだった。皮目に箸を入れると、ふわりと脂の香りが立ちのぼる。じっくりと炭で炙られた皮は艶やかな飴色に照り、タレの甘辛さが染み込んだ身を、ゆっくりと口へ運んだ。
噛んだ瞬間、ダグの体がびくりと震える。
「……うおっ」
香ばしい皮の食感、身の甘み、タレの奥から追いかけてくる炭火の香り。すべてが、これまで食べてきたどの料理とも違う、真正面からの美味さだった。噛むほどに、じゅわりと溢れる脂の旨みが舌の上いっぱいに広がっていく。じゅんじゅんで味わった割り下の甘辛さとはまた違う、タレそのものの深い風味が、皮のぱりっとした歯触りと絡み合っていた。
「うめえ!これは、もう一つ口がいる!いや二つじゃ足りねえ!この美味さを叫びてえ!」
ダグが言い放つと同時に外套の縫い目が、弾け飛ぶような硬い音を立てて裂けた。破れた布地の下から、もう一対の腕が勢いよく伸び出していく。そして、喉元の皮膚もほぼ同時に裂け、そこに第二の口が開いた。
それだけではなかった。
額の皮膚に、一筋の亀裂が走る。ぱきり、ぱきり、と乾いた音を立てながら、その亀裂はゆっくりと左右に広がっていく。まるで硬い殻が内側から押し破られるように皮膚が裂け、その奥から鋭い牙がびっしりと並んだ、三つ目の「口」が姿を現した。
カウンターに、四本の腕と、三つの口を持つ異形の鬼人が、堂々と鎮座していた。
「な……な、なんだ、その体は……!」
カイルが驚いて動きを止めた。
ダグは隣の様子を気にすることもなく四本の腕で飯椀と箸を掴み、二つの口で同時に蒲焼をかき込んだ。
二つの口でむしゃむしゃと飯を食っている。そして、額に開いた三つ目の口が、朗々とした声で語り始めた。
『炭の香りが皮目からまっすぐ抜けてくるぜ!タレの甘辛さと脂の旨みが、口の中で喧嘩もせず溶け合っていきやがる!これが!これが鰻か!好みだぜえ!』
「お、おお。蒲焼ってやつだ」
『蒲焼き?うめえ!あのじゅんじゅんって鍋もうまかったが、これはさらにすげえ!』
「じいさん、これ知ってたのか?」
思わず訊ねたカイルに老人は湯呑みを傾けたまま、驚いた様子もなく答えた。
「長年かよってりゃ、いろんな客を見る。気にせず食いな」
おやじも表情ひとつ変えず、作業を続けている。カイルはしばらく口を半開きにしていたが、やがて、さっきの会話をふと思い出したように呟いた。
「……そういや、お前の里には、色んな奴がいるって言ってたな。口ひとつ手は二本なんてのは俺たち人間の常識に過ぎないってことか。まあ、その背丈からして常識外なんだが」
『すまん!慣れろ!』
「ま、ぼちぼちな」
カイルは笑みが浮かべながら返す。全く恐ろしさは感じていないようだった。
続いてうざくを口へ運ぶ。器の中で香ばしい蒲焼と鮮やかな緑が寄り添う小鉢だ。甘酢の香りと爽やかな酸味が弾けた瞬間、ダグの額の口が歓喜の声をあげた。
『酸味で、脂がさっぱりするぜ!すっきりとして次のものを食える!いいぞ!いい!』
「俺は食べながらしゃべるなって言われたもんだ。口がたくさんあったら食べながらしゃべれるのか。うらやましいな」
カイルも一口食べ、素直に唸った。
「確かに、うまいな、これ」
『だろう!?』
額の口が得意げに応じる。
次の茶碗蒸しにとりかかる頃には、カイルもすっかり調子が戻っていた。出汁の効いた優しい湯気が、二人の間に穏やかに立ちのぼる。銀杏と椎茸が控えめに顔を出し、鰻の切り身がとろりと出汁に馴染んでいた。
『熱々の出汁が口の中でふんわり弾けやがる!ぷるぷるの卵生地と一緒に具の鰻が舌の上で解けていきやがるぞ!この優しい味わいが食欲を際立たせやがる!』
「茶碗蒸しも語るねえ」
カイルが苦笑しながら茶碗蒸しに匙を入れる。滑らかな舌触りの奥から鰻の旨みがじんわりと広がり、二人の間の空気を静かに和ませていった。
「うまい」
香の物と肝吸いを頂く段になると、ダグの四本の腕がさらに勢いを増した。漬物の小気味よい歯ざわりと、肝吸いの澄んだ出汁の香りが、鼻先を同時にくすぐる。椀の中では、繊細に刻まれた肝と三つ葉が、澄んだ出汁の上でゆらゆらと揺れていた。
『香の物の塩気が、脂を洗い流していく感覚がたまらねえ!肝吸いの澄んだ旨みが口いっぱいに広がりやがる!ほんのり残る肝の風味が全体を優しく締めくくってくれやがるんだ!こんなに口の中が忙しいのに、少しも渋滞しねえ!』
「お前、本当によく喋るな……」
『この口が出てる時だけだ!つまりめちゃくちゃうまい時だけだ!』
やがて一人前を綺麗に平らげたダグが、間を置かず二人前目の膳へと取り掛かった。
四本の腕が流れるような動作で動き出す。上側の一組の手が飯椀と箸を持ち、本来の口へ蒲焼と白飯を放り込んでいく。下側の一組の手も休むことなく小鉢や汁ものを、喉元の口へ絶え間なく運んでいった。
二つの口が猛烈な勢いで鰻を食らう傍らで、額の口が声を張り上げた。
『まだまだ箸の勢いが止まらねえ!甘辛いタレを纏った飯が際限なく胃袋に吸い込まれていきやがる!噛むたび溢れる肉汁と出汁の余韻が、二周目だっていうのに全く衰えねえぞ!』
「こっちも見てて全然飽きねえわ」
「ごちそうさま」
二人の器が空になる頃には、外の光もすっかり橙色に傾いていた。
「……人前でここまでやったのは、初めてだ」
ダグが照れくさそうに、破れた外套の裾を撫でる。額の口はすでに閉じ、二本の腕もそっと外套の下へと戻っていた。
「いやよかったぜ、解説付きで楽しめた」
「そうか」
「ああ。今度は、俺の方から誘うか」
「それは、楽しみにしている」
老人が、二人のやり取りを、うんうんと訳知り顔で見守っている。おやじは何も言わず、静かに空いた器を片付け始めた。
「そういや、剣を向けちまったこと、まだちゃんと謝ってなかったな」
カイルがふと、真顔になって切り出す。
「悪かった。早とちりしたのは、こっちだ」
「いや、いい。あの状況じゃ、しょうがねえ判断だったろうよ」
ダグが軽く手を振ると、カイルは少しだけ肩の力を抜いた。
「そういえば」
ダグがふと思い出したように口を開く。
「さっき言った、森の奥の話……気のせいじゃ、ねえのかもな」
「リタも似たようなことを言っていた。依頼の件数が、明らかに増えてるってな」
「気になるな」
「ああ。気になる」
二人は顔を見合わせ、それ以上は言葉にせず、それぞれの湯呑みに口をつけた。
表を通るコツコツという誰かの足音、遠くでキャッキャッと響く子供のはしゃぐ声、そういった何気ない日常の気配が、開け放たれた戸口の向こうから店の中まで届いてくる。今朝、遠巻きに眺められていたダグの姿とはまるで違う、穏やかな時間の流れがそこにあった。
窓の外では、夕暮れの光が、路地の石畳を静かに橙色へと染め始めていた。賑やかな食卓の余韻の奥に、まだ形になっていない小さな不安が、静かに沈んでいく。それでも今は、満ちた腹と、打ち解けた心地よさの方が、ずっと大きかった。
「また今度、飯でも食おう、カイル」
「ああ、また今度な、ダグ」
名前を呼び合う響きが、どこかくすぐったく、それでいて心地よかった。二人分の笑い声が、藍色の暖簾の向こうへと静かに溶けていった。




