うなぎのじゅんじゅん
ボーダーウッズとフォレステッジの間を隔てる深い森は、昼でもなお薄暗い。湿った土の匂いに混じって、遠くから獣の唸り声が微かに響いていた。鬼人族の男、ダグは地に残る足跡を睨みつけていた。
「……こっちか」
低く呟き、腰をわずかに落とす。獲物は、縄張り争いに敗れて奥から追い出されてきたシャドウファングだった。黒い靄をまとい、牙を剥き、毛を逆立てながら、当てもなく森を駆け続けている。
ここ数日、ダグはこの魔獣をずっと追っていた。遠目に黒い靄をまとっているのが見えたその獣がボーダーウッズの方に来ると少し厄介だ。魔獣討伐官であるダグとしては見逃すことはできない。そのまま、地理に不案内な人間側の境界近くまで来てしまった。
「人間の街の方角に、向かってるな」
独り言のように呟いたところへ、軽やかな足音が近づいてきた。
「あら、どうしたの?」
緑がかった銀髪、褐色の肌。長く伸びた耳の先が、木漏れ日の下でひょこりと揺れる。
森番の民、シャノンだった。荷運びの途中なのか、大きな背負い袋を軽々と担いでいる。
「ちょうどいいところに来た。この先の地理に詳しいか」
「詳しいわよ、それが商売道具でもあるもの」
「案内してあげる。どうせこっちの方に用事もあったし」
「助かる」
森番の民。それは、この広大な緑の地獄を我が家とする、独自の種族だった。フォレステッジの人間にも、ボーダーウッズの亜人族にも肩入れしない完全な中立。森の隠れ道や気まぐれな天候を読み解く彼らは、両方の世界を行き来できる唯一の存在だ。
荷運びと道案内は、彼らにとって古くからの生業だった。どちらの陣営からも「偏屈だが、森では最も頼りになる連中」として、一定の敬意と、少しの畏怖を向けられていた。ダグも、彼らの言うことには素直に耳を傾ける。
二人並んで歩き出すと、じきに獣道へと差しかかった。
「……あら」
「どうした」
「これ、あの魔獣のものじゃないわね」
地面に刻まれたそれは、獣の足跡とはまるで違う、二本の足で歩いた者の跡だった。片方だけ、わずかに引きずるような形で。シャノンはしばらくその跡を見つめていたが、やがて眉をひそめた。
「……まさかね」
「知り合いか」
「ううん。なんでもない。気にしないで。先を急ぎましょう」
それだけ言うと、また軽い足取りで歩き出した。ダグはその横顔を一瞬だけ見つめたが、深くは追及せず、黙ってその後を追いかけていく。
境界近くの防柵まで来たところで、獣の唸り声が響いた。
「いたぞ!」
黒い毛をまとったシャドウファングが、防柵の隙間から、するりと人間側の土地へと滑り込んでいく。
「くそ、逃げられる!」
ダグが地を蹴り、器用に防柵を駆け上がり、飛び越えた。シャノンもすぐ後に続く。防柵の向こうは、フォレステッジの外れ、見晴らしのよい草地だった。
「動くな!そこで止まれ!」
見回り中だったらしいカイル・ラークウッドが、二人の部下とともに、駆け寄ってくる。足を止めて唸る魔獣、厚い外套をまとった規格外の大きさを誇る巨躯。カイルの背筋に、冷たいものが走った。
「亜人か……!?」
その可能性を口にした瞬間、カイルの手に力がこもる。剣の切っ先を、ダグへとまっすぐ向けた。
幼い頃から聞かされてきた話が、頭の奥で蘇る。自分たちとは姿かたちが異なる恐ろしい者たち。実際に会ったことなど一度もないのに、そういったうわさの対象を前にして体が勝手にこわばっていくのが分かった。
「隊長に報告する暇はねえな……仕方ねえ、俺たちでやるしかねえ!」
「待て、俺はそいつを追ってるだけだ!お前さんに用はねえ!」
ダグが叫んだが、その声はすでに剣を構えたカイルたちには届いていなかった。
「ちょっと、話くらい聞きなさいよ!」
シャノンが割って入ろうとするが、興奮したカイルたちの耳には、それすらも届かない。目の前の巨躯と、唸る魔獣、二つの脅威が同時に迫っているようにしか見えていなかった。
魔獣がくるりと向きを変え、牙を剥いてダグへと突進する。
「くっ……!」
ダグが太い腕で受け止め、力任せに押し返した瞬間、外套の縫い目が裂けた。厚い布地が肩口から大きく破れ、その下から灰色の肌と、額に生えた一対の角が、白日の下にさらけ出される。
「鬼人族か……!」
カイルの声が、わずかに震えた。剣を構える手に、さらに力がこもる。
「何をしに来た!」
「早とちりするな!話を――」
ダグの声には、怒りよりも戸惑いが滲んでいた。何も悪いことをしていないのに、いきなり刃を向けられる。その理不尽さに、胸の奥がじりじりと焦げつくような気がした。
(カイルさん、待ってください!)
澄んだ声が、その場にいる者たちの胸に静かに響いた。
「これは、聖女様……!」
「なんだ?どこにいる?」
「この声は?」
突然の声に、カイルたちだけでなくダグたちまでもが周囲を見回す。
(まずは、落ち着かせるために、瘴気をはがします)
彼らから見えない距離にいるルチアは、その場で静かに右手を掲げた。
(浄化の光)
清冽な輝きがシャドウファングの頭上に現れ、暴れる体を包み込む。すると、体表にまとわりついていた不気味な黒い靄が、嘘のように霧散して消え去った。続けてルチアは優しく念じる。
(聖声の福音)
荒々しかった息遣いが、みるみるうちに静まっていく。魔獣は数度身を震わせると、大人しく地に伏せ、やがて森の方角へと歩き去っていった。
「カイルさーん。そこの大きな体の人は、敵ではありません」
草原の向こうから、今度はルチアの柔らかな肉声が響く。パタパタと足音を立てながら、ルチアがこちらへ駆け寄ってきた。
「聖女様、しかし、そいつは鬼人族で――」
「ええ、亜人族です。でも、それだけですよ」
ルチアの声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。
「彼は、逃げた魔獣を追ってきただけです。私たちに危害を加えるつもりはありません」
「な、なんでそう言い切れるんだ」
「邪悪な気配がないのもそうなんですが、カイルさん、彼の目を、見てください」
カイルが、恐る恐るダグへと視線を戻す。そこに凶暴な眼光は全くなかった。突如として刃を向けられ、それでもなお手を出さずに佇む、ただ困惑した二つの瞳。
「……本当に、悪さをしに来たわけじゃない、っていうのか」
「そうよ」
横から、シャノンがのんびりと口を挟んだ。
「この人、ずっと魔獣を追いかけてただけ。真面目に仕事してただけなんだから、勘弁してあげて」
「……森番の民まで、一緒にいるのか」
カイルは、剣先を少しだけ下げた。だが、完全に力を抜いたわけではなく、警戒の色はまだ濃く残っている。
「……分かった。今日のところは、聖女様の言葉を信じる」
剣を鞘に収めながら、カイルは低く呟いた。
「けどな、次はこうはいかねえぞ。街の連中に説明もしなきゃならねえ。亜人族が境界を越えたなんて話、俺一人じゃ抱えきれねえ」
「迷惑をかけた。すまなかったな」
ダグが、破れた外套を片手で押さえながら、ぎこちなく頭を下げる。
「だが、あの魔獣が人間の街で暴れたらただじゃすまないと思ってな。まさかこんなにあっさりと片付くとは思っていなかった」
「ああ、そうか。そうだな……聖女様がいなければ、かなりてこずったのは間違いない」
カイルはそう呟き、ゆっくりと剣を鞘に収めた。しかし、ダグの巨躯と角から視線を外さない。
「……すまないが俺は一度隊に戻る。今の一件、上へ報告しなきゃならねえからな。悪いが、この街にいる間は見張りをつけさせてもらうぜ。おい」
背後に控えていた部下たちへ鋭い視線を送る。
「いえ、大丈夫ですよ」
ルチアがふんわりと手を振ってそれを遮った。
「聖女様、そういうわけにはまいりません。相手は亜人族です」
「私に任せてください」
いつにないルチアのきっぱりとした物言いに、カイルは気圧されたように言葉を詰まらせた。
「……そこまでおっしゃるなら」
カイルはルチアを深く信頼している。彼女が大丈夫と言うのなら、本当に危害を加える者ではないのだろう。
だが、それでも副隊長としての責任がある。カイルは部下たちに目配せし、ダグに気づかれないよう、かなり離れた距離から刺激しない程度に見張らせることにした。
ひとまずの監視体制を整えると、カイルは、隊の屯所の方角へと歩き去っていった。
「……悪かったな、聖女様?でいいのか?おかげで助かった」
「いいえ。誰も傷つかずに終われて、良かったです」
ルチアはそう言って、微笑んだ。
「今日はどうされる予定ですか?予定がなければお近づきのしるしにお食事でもどうでしょうか」
「いいのか?」
「はい。もちろんです。参りましょう」
ルチアはくるりと振り向いて、路地の方角へと歩き出す。
歩くうちに、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。醤油と脂が炭火で焼ける、なんとも言えない匂いだった。
「……なんだ、この匂い」
「ふふ、いい匂いでしょう」
ルチアは匂いの方角へ歩いていく。気づけば、藍色の暖簾の前に立っていた。
「こちらです。この街で一番おすすめの店です」
この場にカイルとリタがいればこう言っただろう。「まあ聖女様はそうですよね」と。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
「おすすめをお願いします」
「初めて見る客だな。打ち解け合うのに鍋ってのはどうだい?うなぎのじゅんじゅんってのがある」
「では、それを三人前、いやこちらのかたは大きいので一人前追加で。合計で四人前お願いします」
「あいよ。奥に鍋も囲める席がある。そちらへどうぞ」
店の一番奥は、まっすぐに伸びたカウンター席が途中から釣り針のようにカーブを描いていた。そのカーブ中央に鍋を置けば、お互いの顔を見合わせながら鍋をつつくことができる。釣り針の底部分に大柄なダグ、そして両脇にルチアとシャノンがそれぞれ腰掛けた。
「お待ちどう。うなぎのじゅんじゅんだ」
おやじが中央へ、鉄鍋を慣れた手つきで設置する。同時に運ばれてきた大皿を見て、ダグは小さく息を呑んだ。
そこには、見事な職人技でふっくらと白焼きにされた、肉厚な鰻が四匹丸ごと並んでいる。さらに別の皿には、みずみずしい白肌を見せる玉ねぎ、笹掻きにされたゴボウ、そして鮮やかな深緑の青ネギが、美しく盛り付けられていた。
うなぎのじゅんじゅんとは、琵琶湖の東部に伝わる独自のすき焼き風の鍋料理。具材を煮込む際に鍋底からだし汁が『じゅんじゅん』と音を立てる様子がその名の由来とされる。香ばしく白焼きにした鰻と瑞々しい野菜にその甘辛い出汁を吸わせて味わう。煮詰まるほどに増す味と香り。色、音、触感、も鮮やかに五感を満たす、味わい深い郷土の逸品。
おやじが鍋に火をつけ、特製の割り下を注ぎ込む。黒々とした鉄鍋の底でそれが熱せられ、じゅんじゅんと小気味よい音を立てて沸き立ち始めた。
「まずは玉ネギとゴボウ、それから鰻を並べるんだ」
店主の指示に従い、ルチアが箸を使って具材を鍋へと滑らせていく。
割り下を吸い込んだゴボウの土の香りと、醤油の匂いが、湯気とともにふわりと弾けた。その上に白焼きが隙間なく綺麗に並べられる。
じゅんじゅん、じゅんじゅん。
鍋が鳴る。
(ああ、いつもと違いますが、人と一緒に出来上がりを待つというのもいいものです。おいしそうですねえ。たまりません)
すでに火の通った白焼きの鰻が、甘辛い煮汁を吸って、じわじわと深い琥珀色に染まっていく。タレの旨味を吸ってしんなりとしていく青ネギの緑が、鰻の脂を纏って艶やかに光り輝いていた。
すべての具材がひとつの鍋の中で、お互いを補完しながら、目の前で完成へと向かっていく。その変化の過程そのものが、最高の待つ楽しみになっているのだと、ダグは思った。
「そろそろ食べ頃だ。好みによって卵にくぐらせてどうぞ」
おやじが小鉢に割り入れた生卵と、炊きたての白飯を三人の前に並べる。
「いただきます」
三人は白飯の茶わんを持ち、箸を構えた。
ルチアは鰻の身を一切れ、白飯の上へと運んだ。とたん、割り下を吸った身が、ほろりと崩れる。彼女はおそるおそる慎重にそれを口に招き入れた。
(――こ、これはぁ!蒲焼のタレとはまた違う、出汁の旨味が加わった割り下が!ふんわりした身からあふれ出して……!白ご飯との相性が、もう言葉になりません!)
「「な……!?」」
ルチアの心の声を聴いたダグとシャノンが箸を止め、目を丸くする。
ルチアは集中のあまり二人の反応には気づかない。すかさず今度は甘辛い汁をたっぷりと吸った青ネギをすくい上げた。それを茶碗に軽くバウンドさせ、一気に口へと運ぶ。
(――はふっ、ん……!シャキシャキとした食感が残っているのに、中はとろりとしていて、染みた鰻の旨味がじゅわっと溢れ出してきます!これで白ご飯を何杯でもいけてしまいそうです!)
「「頭に直接!?」」
またもや二人の驚きに気づかないルチアは、次いで小鉢の中の生卵へと視線を向けた。箸で黄身を軽く突き崩し、そこへ割り下で煮立った厚みのある鰻を潜らせる。
(――まあ……!まろやかな卵の黄身が、濃密なタレと脂を優しく包み込んで……まるでまったく別の、極上の料理に生まれ変わりましたわ!濃厚なのに、後味はどこまでもまろやか……お口の中が幸せで満たされていきます……!)
あまりの美味しさに、彼女はほうっと夢心地の溜息を漏らした。背後にはまるで大輪の花が咲き誇っているかのような重厚な幸福感が漂っている。
「美味しいです」
いつも通りの、澄ました一言。それだけを口にすると、ルチアはまた箸を動かし始めた。
(なんだ今のは、聖女の声?そういえば魔獣をおとなしくさせるときも聖女の声が頭の中に聞こえた。シャノンにも聞こえたのか?)
ダグはシャノンを見た。シャノンもこちらを見ている。ダグは店主のおやじに目を移した。
(そういえば店主にも聞こえているのか?)
「ご店主、あの……」「楽しんでもらえてるかい?」
かぶせるようにおやじが声をかけてきた。
「今はこいつを是非とも楽しんでくんない」
それで悟った。店主にも聖女の声は聞こえている。そしてそれを秘密にしているのだ、聖女には。ひとまずここでは店主の意向に沿うことにしよう。
「ああ、余計なことは気にせず楽しませてもらうよ。シャノンもな」
「ちょっとちょっと。どういうことよ」
「声がでかい」
ダグはルチアをちらっと見て、声を落としてささやいた。
「察しろよ。長く生きてんだから。大っぴらに言うなってことだ」
「うっ。そういうことね」
やっとそれで通じたらしい。
話しているうちに、鍋の湯気がさらに濃くなる。ダグが我慢しきれず、鍋から直接、鰻の身を一切れつまみ上げた。
「うおっ……!これは……!」
口に入れた瞬間、ダグの体が小さく震える。
「こりゃ口がもう一つ必要だ!うまい、うますぎる!我慢できねえ。店主!飯をもう一つくれ。箸もだ!」
店主が茶碗飯と箸をもう一組シャノンに渡すと、シャノンはそれをダグに差し出した。
「いいの?」
「さっきも言ったが我慢できねえよ」
そう言うと破れた外套の隙間から、もう一対の腕がゆっくりと伸び出していく。そして茶碗と箸を掴んだ。合計四本の腕が、それぞれ箸と茶碗を操り、二本の右手が吸い寄せられるように鍋へと向かう。
下側の右手が、割り下をたっぷりと吸い込んだ鰻の身を、小鉢の生卵へとくぐらせた。その黄色い衣を纏った琥珀色の身を、喉元へ持って行く。
その瞬間、ダグの喉仏のすぐ下に刻まれた黒い線が、滑らかに左右へと裂けた。そこに現れたのは、鋭い牙が並ぶもう一つの「口」だった。
卵を絡めた鰻を、二つ目の口が躊躇なく迎え入れる。はふ、と熱い吐息が漏れた。
すかさず、炊きたての白飯をその口へと掻き込む。米の甘みがタレをしっかりと受け止め、噛むほどに味わいが膨れ上がった。
二つの口が、それぞれ別の味を求めて動き出す。
上の口には、卵を通さない「そのまま」の鰻の身を白飯ごと放り込んだ。じゅわりと広がる純粋な割り下の香ばしさと、炭火の焦げ目の苦味が、ダイレクトに脳を揺さぶる。
間髪入れず、下の口が今度は鍋の底でくたくたに煮えた玉ねぎと、笹掻きのゴボウをまとめて捕らえた。ゴボウが、小気味よい歯ごたえとともに土の滋味を弾けさせる。玉ねぎの強烈な甘みが、タレの辛さを引き立てて、いくらでも食える錯覚に陥らせた。
ダグの四本の腕が完璧に連動する。
右手で鰻を卵に浸せば、左手が白飯の茶碗を掲げた。もう一対の手が、鍋からネギと豆腐を掬い上げ、下の口へと滑り込ませる。生卵にくぐらせて濃厚さを楽しんだ直後、今度は何もつけずにネギの辛みと鰻の脂を一緒に味わう。交互に押し寄せる味の波に、二つの口が交互に、時には同時に咀嚼の音を響かせた。
「ふふ、豪快な食べっぷりですね」
ルチアがそれを見て、怖がる風でもなく、ただ感心したように目を細めた。
「聖女様はダグの『これ』気にしないのね。四百年生きてきた私でさえ初めて見たときは面食らったっていうのに」
「ええ!?四百歳なんですか!?とてもそうは見えません!」
「あら、そっちは驚くのね。中身はとっくにお婆ちゃんなのよ」
ダグは、二つの口をフル稼働させながら、ただ目の前の至福に没頭している。卵ありのまろやかさ、卵なしの荒々しさ。具材の組み合わせを変えるたび、鉄鍋の中で育った奥深い味わいが無限に表情を変えて襲いかかってくる。 四本の腕が交錯するたび、鍋は瞬く間に底を突いた。
ダグが残念そうな顔をしたとき、店主がうどんを鍋に入れた。しばらくのち、シメに割り下と鰻の旨みを存分に吸った麺が、湯気とともに顔を出す。
「おおー」
三人がそれぞれ箸を伸ばし、麺をすする。
(――んんっ、麺に染み込んだこのお出汁!最後の一滴まで、無駄になっていません!)
ルチアの声が、また二人の頭の中に響いた。
「……本当に、いつもこうなのね」
シャノンが呆れたように小さく笑うと、ダグが注意をした。
「おいおい、聖女様には聞こえないようにな。まあ、悪くねえよ。賑やかで」
一つの鍋を、種族の違う三人が囲んでいる。そこに、特別な意味などない。それでも、湯気の向こうで笑い合う三人の姿は、どこか温かい絵として、店の中にゆっくりと満ちていった。
食べ終える頃、窓の外を見回り中のカイルの背中が通り過ぎていくのが見えた。
今日のところは、まだ分かり合えなくてもいいのだとルチアは思う。何度も顔を合わせ、何度も言葉を交わせば、分かりあえるはずだ。それは、この街に来てから学んだことだ。
ダグも今日初めて知った。種族が違えば、見た目も、体の仕組みも、まるで違う。それでも、同じ鍋を囲み、同じ料理に笑い合えることを。破れた外套の下から覗く灰色の肌を、誰も気味悪がるそぶりすら見せない。それが、ダグの胸の奥をじんわりと温めていた。
「ごちそうさまでした」
「どうぞ、また」
おやじの短い言葉に見送られ、三人は暖簾をくぐって、それぞれの帰り道へと歩き出した。
藍色の暖簾が、夕暮れの風に揺れている。狭い路地に、三人分の声が、しばらくの間だけ響いていた。




