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うなぎLOVE聖女の辺境日常生活 ~鰻重、うな串、白焼き重。思うがままに食べていたら、世界を救ってしまいました~  作者: 乃日眞仁


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ひつまぶし

「いらっしゃい」


 藍色の暖簾をくぐると、いつもの低い声が迎えてくれる。今日は珍しく、カウンター席には誰も座っていなかった。カウンターの向こうでは炭火が静かに赤く灯り、焼き台からは、いつもと変わらぬ香ばしい匂いが立ちのぼっている。


「ひつまぶしを、お願いします」

「あいよ。……四十分ほど、かかるが」

「かまいません。待ちます」


 ぱちぱちと爆ぜる炭の音を聞きながら、ルチアはカウンターの椅子に深く腰かけた。


 ここ数日ルチアは、街のあちこちで細々とした困り事の解決に奔走していた。そのおかげか、今日は比較的ゆっくりと食事がとれそうな時間的な余裕がある。この店に、炭火の薫香と艶やかなタレ、そして鰻の旨味を補給しに来た時、これは、以前常連の老人に聞いたひつまぶしという鰻料理を食べる絶好の機会だと思った。一杯ごとに表情を変えるというひつまぶし、今日はゆっくりと味わおう。


(ふう、ここ何日かは我ながら頑張りました。この時間もちょっとした自分へのご褒美ですね)


 串を打ち、白焼きにしてから蒸し、もう一度炭で炙る。うな重と同じ丁寧な工程を経たあと、焼き上がった身を崩さないよう均等に切り分けたり、出汁を用意する必要がある分、いつもより長く待つことになる。だからこそ、こうして焼き上がりを待つ時間さえも、この上なく贅沢なものに感じられた。


 四十分というのは、思いのほか長い。


 爆ぜる炭の音を聞きながら、ルチアはふと、この街へ来たばかりの日の情景を思い浮かべた。

 荷馬車から降り立った自分を、深々と頭を下げて出迎えてくれたのが、辺境伯領庁の役人ベルナルドだ。慣れない土地で右も左もわからなかったあの日、丁寧な物腰でこの街のことを一つ一つ教えてくれたのを、今でもよく覚えている。


 辺境の乾いた風、露店の呼び込みの声、聞き慣れない訛りの挨拶。すべてが新鮮で、同時に少しだけ心細かったことを、今でもよく覚えている。それでも、あの日感じた小さな不安は、今ではすっかり温かい記憶へと変わっていた。


 まだ荷解きも済んでいないうちに、防柵の外の甲殻魔獣と対峙することになったのも、あの日のことだ。がむしゃらに力を使うだけで、周囲を見る余裕など全くなかった。


 そんな混乱のあと、初めて訪れたこの店で隣に座っていたのが、山椒の使い方を教えてくれたあの老人だった。


 何も知らない自分に、鰻の食べ方を一から教えてくれた、忘れられない出会いだ。


 その後、見張り塔の危機で知り合ったのが、赤茶の髪をしたあの警備隊員――カイルだった。


 記録官のリタと出会ったのは、井戸に異変が生じた時だった。


 「すべてを記録します」と告げられた時は面食らったが、それだけ仕事に忠実な彼女の誠実さも今はよく知っている。

 あの時、力を街全体に及ぼすことができるほどに自分が成長したことも知った。


 思えば街の人々の態度も、あれから急に変わったような気もする。最初は遠巻きに拝むだけだった視線が、今では「おはようございます」と気軽に声をかけてくれる、親しいものに変わっていた。誰かに助けを求められ、それに応え、感謝をいただく。その繰り返しが、いつの間にかこの街での日常になっている。


「今日は本当に、静かですね」


 誰に聞かせるでもない呟きが、炭の爆ぜる音に優しく溶けていく。この贅沢な静寂こそが、街の平和そのものを物語っているようで、ルチアの胸に静かな充足感がじんわりと満ちていった。


「お待ち」


 その声と同時に鼻腔をくすぐった圧倒的な芳香に、ルチアはハッと我に返った。視線を向ければ、湯気の立つ丸いおひ覚(ひつ)が目の前に置かれている。

 ウキウキしながら蓋を開けると、細かく刻まれた蒲焼が、白飯の上に隙間なく敷き詰められた情景が飛び込んできた。飴色のタレが飯の一粒一粒にまで染み渡り、甘い香りが立ちのぼっている。傍らには、しゃもじと一つの茶碗、刻み海苔、刻み葱、山葵、そして熱々の出汁の入った土瓶が並べられていた。


「しゃもじで十字に、四等分にしてくれ。一杯目はそのまま、二杯目は薬味を乗せて、三杯目は出汁をかけて、四杯目はその中で一番気に入った食べ方でどうぞ。同じおひつから、四つの違う顔が出てくる」


 店主にしては珍しく、そう言葉を添えてくれた。


 ひつまぶしとは、おひつに入った白飯の上に細かく刻んだ蒲焼きを敷き詰め、一杯ごとに姿を変えて味わう贅沢な名古屋発祥の郷土料理である。店主のいう通り、一膳目はそのまま鰻とタレのコクをダイレクトに堪能し、二膳目は山葵や刻み葱などの薬味を添えて風味の広がりを楽しむ。そして三膳目には温かい出汁やお茶を注いでサラリとお茶漬けで流し込み、最後の四膳目はお気に入りの食べ方で締めくくる。多様な味わいの変化が最後まで口を飽きさせない極上の逸品である。


「いただきます」


 ルチアはしゃもじを手に取り、教わった通りおひつの中身に十字を入れ、その一つ分を茶碗によそった。湯気にふうっと息を吹きかけ、いざ箸を伸ばそうとした、その瞬間だった。


(さあ、いよいよです。この一口のために、四十分待ちました)


「聖女様、少々よろしいでしょうか」


 息を切らしながらも折り目正しい声とともに、暖簾の隙間から丸い顔がのぞく。

 辺境伯領庁の役人、ベルナルドだった。汗を拭いながら、分厚い書類を胸元に抱え直す。


「お食事が終わりましたら、ご確認をいただきたいことがございます。あまり時間はとらないようにいたしますので、よろしくお願いいたします。」

「お急ぎの様子ですし、まだ食事を始める前ですからかまいませんよ」

「恐縮です。リタ殿の記録のこちらの部分なんですが、間違いございませんか」


 ベルナルドは手元の書類を捲り、ある個所を指で示した。ルチアは箸を置き、真剣な顔でその部分を読む。


「……はい、間違いございません」

「承知いたしました!ありがとうございます、聖女様!お食事中失礼いたしました」


 ベルナルドは大仰なほど深く頭を下げると、額の汗を拭いながら、逃げるように暖簾の外へと出ていった。生真面目すぎるその背中に、ルチアはくすりと小さく笑いをこぼした。

 あの慌てぶりを見るに、余程急いでいたのだろう。

 少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、ルチアは再び箸を手に取った。


 一杯目は、何もかけずにそのまま口へ運ぶ。

 口に入れ、味わう。脂がじゅわりと舌に広がった。噛むたびにタレの染みた飯がほろりとほどけ、鰻本来の香ばしさが遅れて追いかけてくる。冷めかけていたはずなのに、脂の甘みだけは損なわれるどころか、むしろ落ち着いて舌に馴染んでいくようだった。

 その刹那、ルチアの中で言葉にならない歓声が弾けた。


(――んんっんっ、来ました!この一口目の味!今日は格別です!タレの奥から鰻そのものの旨みがまっすぐ立ち上がってくる、この瞬間がたまりません!少し冷めたことで、角が取れて、飯との一体感がむしろ増しているような気さえします!)


 幸い、店には店主以外誰もいない。声にならないその熱は、静かな店内の空気に溶けて消えていった。ひとしきり咀嚼し、飲み込んでから、ルチアは小さく息を吐く。


「……美味しいです」


 誰にも聞かれていないのに、澄ました一言を呟いた。


 次に暖簾をくぐってきたのは、この店の常連である老人だ。

 日に焼けた深い皺の刻まれた顔が、親しげに綻ぶ。


「お、ひつまぶしか。いいねぇ」


 老人は、少し離れたところに腰掛けた。


「一杯目は、もう食べ終わったのかい?」

「はい。とても美味しかったです」

「そうかい、そうかい。焦らず、ゆっくり四杯とも楽しむといいさ」


 老人はそう言って湯呑みに口をつけると、ふと心配そうに眉をひそめた。


「……実はな、聖女様。うちの孫が、最近よく眠れてないみたいでな」

「眠れない、ですか」

「魔獣が増えてるって噂を、どこかで聞いたらしい。怖くて夜中に何度も目が覚めるって、娘がこぼしてたよ。こっちは笑って誤魔化してるが、内心は気が気じゃない。まだ七つの子だ、無理もねえんだが」

「そのお孫さんは、今どちらに」

「家だよ。うちから歩いて十分もかからねえ」


 老人の声には、孫を思う気持ちが隠しきれずに滲んでいた。日焼けした顔に刻まれた深い皺が、今は困ったように歪んでいる。

 ルチアは優しく微笑み、老人の手をそっと両手で包み込んだ。節くれ立った指先が、少しだけ震えているのがわかる。


「少しだけ、失礼しますね」


 目を閉じ、掌に淡い光を灯す。それは優しく揺れる、温かい陽だまりのような優しい光だった。


「もう大丈夫。怖いことは、何も起きません」


 声に出さず、安らかな言葉を、老人と、そして遠く離れた孫の心の両方へ、静かに届ける。聖声の福音。


「……あ」


 老人の肩から、余計な力がすっと抜けた。


「なんだか、急に大丈夫な気がしてきたよ。……不思議だな、これは」

「今夜は、きっとよく眠れると思います。お孫さんも」

「そうかい。……ありがとうよ、聖女様」


 老人は少し照れくさそうに、目元を指先で拭った。


「おっと、邪魔して悪かったな。食事を続けてくれ」


 優しく微笑むと、ルチアは二杯目を取り分け始めた。


(二杯目です。ここからは薬味を添える段階……気を引き締めなければ)


 しゃもじでそっとおひつから掬い上げ、茶碗へと移す。その上に、瑞々しい葱と細かく刻まれた海苔を散らし、最後に箸の先で山葵をほんの少しだけ添えた。器の中でタレの飴色と薬味の色取りが鮮やかに混ざり合い、独特な香気をもたらす。箸で鰻をご飯ごとそっと包み込むように持ち上げ、ゆっくりと口へと運んだ。


(――こ、こ、これはっ!葱のシャキシャキとした食感と爽やかな辛みが、うなぎの豊かな脂をすっきりと引き締めてくれます!さらに海苔の豊かな磯の香りが、ふわりと追いかけてくる!最後に本山葵の刺激がツンと鼻を抜け、重厚なタレの味を小気味よくまとめていくのが実に鮮やかです!)


 その熱烈な心の叫びは、隣に座る老人の脳裏へ、鮮明なイメージとして伝わっていた。


「……ふふ。相変わらず、賑やかだね、聖女様の中は」


 老人はくつくつと喉を鳴らし、聞こえないふりで湯呑みを傾ける。この店で幾度となく目にしてきた、いつもの微笑ましい光景だ。


「……美味しいです」


 表向きは、あくまで淑やかな聖女の顔を保っている。


(さあ、三杯目です……次はどうなるのでしょうか)


「聖女様!大変だ、聖女様!」


 ルチアが三杯目をよそうとほぼ同時に、勢いよく暖簾を割って、カイル・ラークウッドが飛び込んできた。革の防具の紐を半分ほどかけたままで、余程急いで来たのがわかった。


「防柵の近くで、また魔獣が出た!今、隊の連中が抑えてるが、このままだと持たねえ!」

「――場所は」


 切羽詰まったカイルの声にルチアの意識が、瞬時に切り替わる。彼女は聖女だ。

 箸を置き、目を閉じ、片手を軽く胸の前に掲げると、地図の上に指を這わせるように、遠く離れた気配を探り始めた。防柵の向こう、荒れた土の匂い、苛立った獣の息遣い。街を包む空気の中から、目的の場所だけを静かに拾い上げていく。


「――もう、大丈夫なはずです」


 ものの数秒で、ルチアは静かに目を開いた。


「は……ええっ?もう片付いた?何をしたんですか?」

「ここから落ち着くよう話かけました。随分と気が立っていましたが、静まってくれました。」

「……聖女様、いつの間に、そんなことまでできるようになったんですか」


 カイルが呆然と呟く。


「急がないといけないと思ったら、方角と距離が、なんとなくわかって……」

「そうですか……」


 カイルは茶碗につがれた鰻とご飯を見た。


(まさかとは思うが食い意地で成長したのか?いやまさかな。聖女様はまじめな方だし)


 それ以上は突っ込まず、剣の柄に手をかけたまま踵を返した。


「聖女様、確かめてきます。まだこちらにいらっしゃるうちに戻ってこれると思います」

「わかりました。行ってらっしゃい」


 その一部始終を、老人は面白そうに眺めながら、黙って茶を啜っていた。

 嵐のように去っていく背中を見送り、ルチアは再び箸を手に取る。


 三杯目、茶碗についだ鰻飯に熱い出汁をたっぷりと注ぎこむ。土瓶から注がれた透明な黄金色の出汁が、うなぎとご飯をひたひたに満たす。立ち上る湯気は、鰹と昆布、そしてうなぎの骨から引いた深い香りを乗せて、鼻腔を心地よく刺激した。箸でさらさらとかき込むと、出汁を吸ってとろりと柔らかくなったうなぎが、滑らかに喉を滑り落ちていく。


(――んん――んん!絶品です!出汁をかけることで、うなぎの脂がスープ全体に溶け出し、極上の旨味スープへと進化しています!薬味の爽やかさが出汁に溶け込み、最後の一粒までサラサラといけてしまいます!)


 老人はくつくつと肩を揺らして笑うだけで、今度は何も言わなかった。


「……美味しいです」


 いつもの澄ました一言に、老人はついに我慢できず、声を立てて笑い出した。


「うまいよな」


「聖女様、戻りました」


 四杯目に手を伸ばそうとしたところへ、カイルが汗を拭いながら戻ってくる。


「本当に大人しくなってました。隊の連中も拍子抜けしてましたよ。……いや、助かりました。ありがとうございます」

「お役に立てて良かったです」

「では、俺は隊に戻ります。お邪魔しました」


 カイルは腰の剣を軽く叩いて頷くと、どこか晴れやかな背中で隊の待つ詰所へと戻っていった。


(いよいよ四杯目です……どう食べましょうか)


「――失礼します」


 四杯目に差しかかろうとした頃、澄んだ声とともに、リタが店に駆け込んできた。眼鏡がわずかに傾き、きっちりまとめられた黒髪の一房が額に垂れている。


「聖女様、失礼します。北の水路で、小規模な氾濫の兆候が。地下から瘴気混じりの揺れが確認されました。以前の水脈の異変と、根は同じかもしれません」


「――もう、大丈夫だと思います」


 ルチアは目を閉じ、数秒の後にそう告げた。


「え?……速い。体感で十秒もかかっていません。いえ、聖女様がおっしゃるなら間違いないことだと思いますが」


 リタは帳面に体感時間を書き留めた。


(早すぎませんか?ルチア様!?これを遠隔で?今、金級上位くらいの力はあるのでは?)


「確認に、行ってまいります」

「お願いします」


 一礼して去っていくリタを見送り、ルチアはやっと最後の四杯目に取り掛かった。


 最後の四杯目は、出汁を控えめに、薬味をたっぷりと乗せて食べることにした。残ったすべての鰻飯を茶碗へと盛り、残さず集めた葱と海苔、山葵をこれでもかと天盛りにする。そこへ、土瓶に残った出汁をごく少量、ご飯の底が軽く浸る程度にだけ、そっと回しかけた。ひたひたに浸すのではなく、出汁の熱で薬味の香りを引き立たせるための絶妙な加減だ。箸で豪快に掻き込むと、ザクザクとした葱の食感とともに、凝縮された旨みが口いっぱいに広がっていく。


(――計算通り!これが一番欲張りな食べ方ではないでしょうか!出汁の香りも薬味の食感も、両方いっぺんに楽しめるなんて、贅沢が過ぎます!)


「……美味しいです」


 老人はその横で、うんうんと訳知り顔で頷いている。何を聞かされているのか、誰よりもよくわかっている顔だった。ただ、それを本人に告げるつもりは、微塵もない。


「聖女様、戻りました。確認しましたが、水路は完全に静まっていました」


 食べ終える頃、リタが再び顔を出した。


「それは良かったです」

「……お食事中に、お邪魔してしまい申し訳ありません」

「いいえ。お気になさらず。皆さんのお役に立てる方が、私も嬉しいですから」


 リタは帳面を開き、短く何かを書き付けた。


「これで、今月の記録は十二件目です。……先月の同じ時期より、明らかに数が多い。まだ確証はありませんが、少し気になっています」

「私も、気に留めておきます」

「お願いします。また、何か分かり次第ご連絡いたします」


 リタは一礼し、今度こそ領庁へと戻っていった。



「なんだか、あわただしい一日だったな」


 老人がしみじみと呟いた。


「そうですね。……でも、こういう賑やかさは、嫌いではないです」


 ルチアは空になったおひつを見つめ、名残惜しそうに、そっと息をついた。

 窓の外では、夕暮れの光が、路地の石畳を橙色に染め始めている。カウンターの向こうで、店主が静かに湯呑みを片付けていた。


「ごちそうさまでした」

「どうぞ、また」


 いつもと変わらぬ短い言葉に見送られ、ルチアは老人と連れ立って暖簾をくぐった。

 四十分という、焼き上がりをじっと待つ贅沢な時間。そこから、これほど賑やかで愛おしいひとときへと繋がった。そしてひつまぶしを最後の一粒まで味わい尽くせたことに、ルチアは深い満足を覚えた。


「今日は本当に静かでした。食べ始めるまでは」


 待っている間に呟いたあの独り言を思い出し、ルチアは小さく笑った。


「でも、それも悪くないですね」


 誰に言うでもないその一言が、橙色に染まる路地の風に、静かに溶けていった。

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