う巻き肝焼き丼
聖女記録官であるリタ・メモリと共に、街道沿いの結界を一通り点検し終えたルチアは一人、軽い足取りで路地の奥を目指した。午前の仕事はすでに完了済みである。だから、その頭の中では、現在最高峰の議題が熱く展開されていた。
丼か、あるいは重か。
うな串を食べた後日、あの店に行ったときに味わった「うな丼」の余韻は、今なお舌の記憶へ鮮烈に残る。とろりとしたタレを吸った白飯、その上で境界線なくとろける鰻。何より、あの丼を両手で持ち上げた瞬間の、ずしりとした確かな重み。片手に収まる器の感触とともに、豪快に掻き込む。あの一体感こそが丼の醍醐味に違いない。
一方、重箱にもそれにしかない特別な魅力がある。うな重と対面したあの日、漆黒の蓋を開けた瞬間に立ちのぼった豊潤な湯気と香り。あの胸の高鳴りは、丼では決して味わえない趣だ。
さらに、そのどちらでもない魅惑の選択肢もある。品書きの隅に並んでいるメニュー名「う巻き」と「肝焼き」。説明してもらったその料理の内容はとても興味を引いた。それらが頭から離れない。
「……ふふっ、なんとも幸せな悩みです」
ぽつりと独り言を漏らしながら、ルチアはいつもの見慣れた暖簾へと近づいた。
石畳を吹き抜ける風には、八百屋の店先から漂う瑞々しい青物の匂いが混じる。威勢のいい掛け声が響き渡る、いつも通りの、平和なフォレステッジの昼だ。だが、その軽快な足が、路地の入り口でぴたりと止まる。
藍色の暖簾が、まだ下ろされたままだったのだ。
「あの、こんにちは……?」
戸を軽く叩くと、中から店主の低い声が力なく返ってきた。
「……すまんね、聖女様。今日は仕込みができてなくてね」
「仕込みが?」
「水が、悪いんだ」
店主が戸を細く開け、酷く疲れた顔を隙間から覗かせた。
「井戸の水が、白く濁っちまっててな。手を洗うにも、鰻を洗うにも、出汁を取るにも、綺麗な水がいる。こんな濁った水じゃあ、客にまともな品は出せやしねえ」
「他に水を得る手立てはないのですか?」
「どうもこの近くはどこもダメらしい。遠くまで汲みに行くのは少々堪えるが、まあ、考えてみるよ」
店主の背後、薄暗い厨房の隅に置かれた大きな桶を、ルチアは格子越しにちらりと覗き見た。白く不気味に濁った水面が、頼りなくゆらゆらと揺れている。
「長くこの街で商いをしてきたが、こんな奇妙なことは初めてだ」
店主が呟くように漏らした一言に、ルチアの胸がざわりと不穏に騒ぐ。
「……このまま、元の水に戻らないということは?」
「さあなあ。皆目見当がつかねえよ」
(水が戻らなかったらどうなるのでしょう?まさかもう食べられない?鰻を?そんな!)
この異変はうなぎ屋近くの井戸だけの問題ではなかった。店の外に出て、街を調査してみれば、各所から同じような嘆きが耳に届いた。
「うちの井戸も、今朝から真っ白に濁っていて……」
「水汲みに行った先々で、どこも同じ有様だよ」
一箇所や二箇所の規模ではない。調べた限りでは街のすべての井戸に濁りがあるらしいと分かった。
ルチアは実際に井戸を見てみようと近場のそれに向かった。
石を積んだ井戸には、不気味な白い霧のような異形の影がゆらゆらと立ちのぼる。ぬめりを帯びた嫌な水音、ごぷりと湧き上がる不穏な泡立ち。ルチアは迷わず、右手を天空へ掲げた。
手のひらに清冽にして圧倒的な光――「浄化の光」を宿す。
「浄化の光」は、ルチアのもう一つの聖女としての力だ。魔獣と違い、実体のない霊的存在や瘴気を浄化する力がある。
そこから放たれた一撃は、立ちこめる瘴気を含んだ霧の中心を正確に貫いた。びしゃり、という重い炸裂音とともに、霧は井戸の底へと力なく沈み込んでいった。
水は、みるみるうちに本来の透明さを取り戻していく。
「……よし。この調子で井戸を浄化していきましょう」
一件落着。
そう安堵したのも、ほんの束の間のことだった。
突如、大地が低く唸った。
街のあちこちから、同時に轟く激しい水音。
ルチアが振り返るより早く、街中の井戸という井戸から、一斉に白い奔流が噴き上がる。
中央広場の巨大な井戸、宿場通りの古びた井戸、防柵際のそばに位置する井戸。街のいたるところで巨大な白い柱が次々と立ち昇った。
悲鳴が、四方八方から重なり合う。
噴き上がった濃霧の中に、先ほどよりも一回り大きな異形の影が、禍々しく蠢く。
目に見える範囲だけではない。数えきれないほどの邪悪な瘴気の気配が、街のいたるところで牙を剥いているのが感じられた。
「なんだあれは!」
「分からんが、良くないものだってことだけは分かるぞ!」
「同感!逃げろ!」
街のあちこちで同じような声が上がり、井戸の近くにいた人たちが一斉に逃げ始めた。
子供の手を必死に引いて逃げる母親。足をもつれさせて転びそうになる老人。露店の商品を容赦なく蹴散らしながら、我先にと逃げ惑う人々。美しい街全体にパニックが広がっていく。
「聖女様!」
聖女記録官であるリタ・メモリが激しく息を切らして駆けてきた。黒髪をきっちりとまとめ、大きく肩を揺らしながらも、その手にはしっかりと分厚い革表紙の帳面を抱え込んでいる。
「聖女様、私の推測を聞いていただけますか」
「うかがいます」
「街全域の井戸からほぼ同時に霧状の異形のモノが噴出しました。これは、地下の水脈で全ての井戸が繋がっているからです。街の資料で見たことがあります。そのため、一つずつ個別に浄化しても、繋がった水脈から新たな瘴気が押し寄せて、また同じことになります」
そして、先ほどルチアが浄化した井戸を指さす。そちらを向くと霧の影が復活しつつあった。
「個別撃破では、不毛ないたちごっこになるだけです。街全域への同時広域対応こそが、現在の最適解です」
客観的な観測を頼りに導き出された、揺るぎない結論。落ち着き冷静に仮説を述べる姿勢に、ルチアの心も落ち着いてきた。
「わかりました」
ルチアは深く深く息を吸い込み、両手をゆっくりと左右へ広げた。そっと瞼を閉じ、自身の意識を街全体へと押し広げていく。
「聖声の福音」――この神聖なる力は大人数の心に直接言葉を届け、パニックに陥った恐慌を鎮めるものだ。街のすべての人々へ、まっすぐに温かな声と想いを届ける。これまでにこんな規模で力を使ったことはない。だが、やるしかない。この愛すべき街を、今、守るのは自分だから。
(――大丈夫です。落ち着いて、安全な場所へ――)
街中を支配していた恐慌が、引き潮のように急速に静まっていく。
そこからルチアは右手を力強く掲げた。その掌から放たれたまばゆい光が、瞬く間に天へとのぼり膨れ上がる。まるで真昼の太陽がもう一つ生まれたかのような圧倒的な輝きが、街の空を真っ白に染め上げた。
そして、その神聖な光が、街中の井戸という井戸へ、一斉に降り注いでいく。眩い光の奔流が、邪悪な瘴気に染まった霧を祓い、広大な水脈をまるごと浄化した。
聖女記録官であるリタはその様子を見て呆然としていた。
(すごい!赴任してきた時のルチア様は確か銅級のはず!)
聖女には、力量に応じて銅級・銀級・金級・白金級・純白級という階級があった。一段階上がるだけでも通常十年はかかると言われ、才に恵まれなければそれ以上進むことはない。過去にはさらにその上、伝説の「世界聖女」と呼ばれる存在もいたそうだが、そこに至るにはどれほどの才と修練が必要なのか。
ルチアは、まだその最初の段階――銅級の聖女だった。
(こんなの銀級、いえ金級並みの力よ!こんなわずかな時間に成長したとでもいうの?どうやって?)
光が消えた後、恐る恐る井戸を覗き込む住民たち。澄み切った清らかな水を湛えた井戸を見て、誰かが小さく歓声を上げた。それを皮切りに歓喜の波紋のように街中へ広がり、あちこちで拍手が巻き起こる。
ルチアの成長した力には驚かされたが、住民たちの心温まる光景に、リタはルチアと顔を見合わせてほっと頬を緩めた。
「では聖女様、今回のことを記録するために街をみて回りますね。さあ、何冊のファイルが必要になることか。余すことなく記録しますよっ!」
「ええ、ご苦労様です」
リタの後ろ姿を見送ったルチアは急に力が抜け、大きな疲労を感じた。
やはり街全体に力を行き渡らせるというのは、とてつもなく激しい消耗を伴うようだ。
それでも、街の人々から次々とかけられる心からの感謝の言葉に、なんとか精一杯の笑顔で応える。そうしながら、ルチアはあの路地の奥を目指した。
(疲れましたあ。鰻は、鰻屋さんはどうなったでしょうか?食べられますか?やさしいものが食べたいです。う巻きにしましょう!でもそれだけじゃ足りないかも……この際です、気になっていた肝焼きも一緒に頼んでしまいましょうか)
肝焼きは「やさしいもの」には当たらないが、朝から考えていたせいか自然と肝焼きも注文することにしたルチア。本人はそのズレには気づいていない。
藍色の暖簾は、すでに誇らしげに上がっていた。
「いらっしゃい」
店主の低い馴染みの声に迎えられ、ルチアはカウンターの木製の席へとなんとか疲れを見せないように腰を下ろす。
「今日は、う巻きと肝焼きにするつもりです」
疲労を隠し、意志を込めてそう告げた。
「聖女様、さっきのド派手な騒ぎ、聞いたぜ」
隣の席から、常連の老人の快活な声がかかる。
「なんでも街中の井戸を、一気に浄化したそうじゃねえか。それじゃあエネルギーが足りねえんじゃねえか?」
「……お恥ずかしながら、足りないかもしれません。ただ、今日はその二つが食べたくて」
その時、焼き台の向こう側で、店主がふっと口の端を器用に持ち上げた。
「二つとも食べられる、贅沢な丼にしてやろうか」
「えっ?」
ルチアの瞳にパッと光が宿った。
「そんな夢のような一品もあるのですか!?ぜひ、お願いします!」
先ほどまでの演技を吹き飛ばし、太陽のような笑顔で注文を口にした。
う巻きとは、蒲焼きを、出汁をたっぷり含んだふんわりとした玉子焼きで包み込んだ逸品。箸を入れれば溢れ出る出汁の味わいと、甘辛いタレを纏った鰻の旨味が見事に調和する。
そして肝焼きは、一匹の鰻からひとつしか取れない肝を幾つも串に刺し、タレを絡めて炭火でじっくりと炙ったものだ。濃厚なコクと独特のほろ苦さ、弾力のある歯応えが癖になる料理だ。
「あいよ」
店主の分厚い手が、迷いなく滑らかに動き出す。
黄金色の溶き卵を玉子焼き器に入れ、半熟になるまで熱する。その卵の海へ、丁寧に焼いた鰻の身をゆっくりと横たわせる。極上の黄金の層が鰻を優しく包み込んでいく様子は、まるで神聖な繭を紡ぐかのようだ。
もう一方の焼き台では、艶やかな漆黒の輝きを放つ肝の串が、真っ赤な炭火の上で静かに炙られていた。ぱちりと炭が心地よく爆ぜるたび、卵の甘い芳香とはまったく異なる、野性味溢れる力強い香りが立ちのぼる。疲れ切った体、だが、その匂いだけで新しいエネルギーが体にみるみる注入されていくようだった。
(はああ、うなぎです。うなぎ、ようやく食べることができます。……いけません、顔に出しては)
「お待ち、蓋付きにしといたぜ。ちょっとしたお楽しみだ」
差し出されたのは、美しい純白の陶器の丼だった。
うやうやしく漆塗りの蓋を開けると、白い湯気とともに二つの極上な表情が現れた。
左側には、ふっくらとしたう巻きが行ぎよく整然と並び、その断面から覗く鰻の身と卵が美しい層のグラデーションを描いている。右側には、艶やかな秘伝の照りをまとった肝焼きが、香ばしい湯気を激しく上げていた。
白い器だからこそ、卵の鮮烈な黄金色とタレの深い飴色が、いっそう鮮やかに美しく映えていた。
その傍らには、熱々のしじみの味噌汁がそっと添えられている。疲弊した体には、何よりも代えがたい最高のご馳走だった。
「いただきます」
まずは、う巻きからそっと箸をつける。
一口サイズに切り分けた断面の美しさは、まるで一枚の完成された絵画のようだった。ふわふわとした繊細な卵の食感が最初に舌全体を優しく包み込み、その奥から、鰻の濃厚な脂の甘みがじんわりと時間差で追いかけてくる。
(――うふふふっ。優しい、優しいです。今日一番、酷使して疲れた心へ深く染み渡ります。卵という温かな繭に守られて、鰻がいつもよりどこか優しい顔を見せてくれます……)
続いて、肝焼きへ手を伸ばす。噛んだ瞬間に広がる鋭い大人の苦みの奥から、濃密にして圧倒的な旨みが決壊したように溢れ出した。噛めば噛むほどに、上品な苦みと深い旨みが幾重にも折り重なり、複雑で奥深い味わいへと変化していく。
(――こっちはこの苦味!オトナの味!大地の力を感じるような力強さがあります。噛むほどに、体細胞の奥深くまで染み渡っていくよう)
独特な苦みに少し疲れた舌を、しじみの味噌汁がそっと優しく労わってくれる。赤みがかった濃厚な出汁を一口すすると、貝の滋味深い旨みが染み出した絶妙な塩気が、口の中をまろやかに心地よく洗い流していった。
(――ああ!この深い滋味。慈しみを味に変換したとしたらこんな風になるのでしょうか……)
う巻きと肝焼き、卵の優しさと肝の力強さが温かい白飯の上で見事に重なり合い、極上の奇跡的な調和を生み出した。
(これは!……もう、最高、最高、最高です!)
噛みしめるように、その最高を味わう。
くたくたに消耗した肉体へ、これ以上ないほどの至高の美味が五臓六腑を静かに満たしていく。空腹と疲労の深度の分だけ、心に訪れる幸福もまた深く大きくなる。
その圧倒的な満足感は、大きく胸の中で膨れ上がっていた。
そして、ルチアの恍惚とした心の声は、街のすみずみにまで、はっきりとした明瞭な言葉となって響き渡ってしまったのである。
(――うふふふっ。優しい、優しいです。今日一番、酷使して疲れた心へ深く染み渡ります。卵という温かな繭に守られて、鰻がいつもよりどこか優しい顔を見せてくれます……)
「これは?」
「この声は、どこから聞こえて?」
街のあちこちの通りで、住民たちが驚いて顔を見合わせた。歩いていた者はその足を急に止め、井戸端で洗い物をしていた主婦は、冷たい水に手を止めたまま高い空を見上げている。
「――!」
街の防柵の見回りをしていたカイル・ラークウッドの顔から、さっと血の気が引いた。
聞き間違えようのない、あの可憐な声だった。先日、香ばしい串焼きを頬張るルチアの傍らで、いやというほど鼓膜に叩き込まれたあの声だ。
「……またやったな……!」
一緒に見回っていた部下たちも、互いに顔を見合わせている。
「聖女様の重大な秘密を、我らの手で何としても守らなければならない……!おい、今すぐ街中の鐘を全力で鳴らせ!」
「鐘、ですか?」
「そうだ。聖女様はまだ鐘の音の意味を知らない!早くしろ!」
カイルの命令に従って、部下たちは手分けして見張り塔の階段へと駆け上がっていった。
鐘の音が、街中に激しく響き渡る。
意味を知っているものにはこう聞き取れた。
ひ・み・つ・ひ・み・つ・ひ・み・つ――。
「……あれ?よく聞くとこの声」
広場の一人がぽつりと呟いた。
「さっき、心を落ち着かせてくれた、あの声と全く同じじゃないか?」
「言われてみれば確かに……」
「ということは聖女様が、うなぎを食べて……」
誰かがそこまで不用意に言いかけた。そして、鳴り響く鐘の音の意味に思い至って慌てて両手で口を強く噤む。
「……まあ、あれだけ命懸けで街を守ってくれたんだ」
やがて、日焼けした老いた漁師風の男が、ぼそりと低い口を開いた。
「英雄に一つや二つ、可愛い秘密があったって、別にいいだろう」
その温かい一言をきっかけに、誰からともなく、小さく深く頷き合う優しい空気が広がっていく。
「これは、街全員で聞かなかったことにしよう。みんなにも言っておくよ」
「そうだな、聖女様にだって、たまには羽を伸ばす気楽な時間くらい必要だ」
「絶対、言うなよ。聖女様が落ち着いて食事ができなくなる」
そううなずきあってそれぞれの日常の持ち場へと笑顔で戻っていく。
この日、フォレステッジという街全体が、一人の不器用な聖女の秘密を、静かに、そして温かくその胸に深くしまい込んだ。
そんな中、知的な瞳を爛々と輝かせながら、分厚い帳面へ猛然とペンを走らせている女性がいた。記録官のリタ・メモリである。
「ルチア様の「聖声の福音」の到達範囲、フォレステッジ街全域に到達。発動の瞬間から完全な鎮静までの所要時間、およそ三秒。浄化の光、街全域における同時広域発発動、有効範囲、現時点で確認できただけで合計十七箇所……」
(それとルチア様、食事時の聖声漏れ、有効範囲、街全体……)
ここでペンを止め、つぶやいた。
「これは残してはダメね」
リタは該当のページを破り取り、帳面を懐へとしまった。
贅沢な丼を完全に空にしたルチアは、両手を優しく合わせ、幸福な息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
「どうぞ、またお越しを」
店主の短い職人気質な言葉に見送られ、ルチアは代金を払って席を立つ。
街の井戸は、今は何事もなかったかのように静かに清らかに澄んでいる。石畳の先では、新しいたらいや桶を提げた住民たちが、いつも通りの穏やかな笑顔で元気に行き交っていた。
だが、この平和な街を突如襲った異変の根は、まだ何一つ根本的には解明されていない。街中の井戸が同時に一瞬で汚染されるほどの強大な瘴気が、いったいどこから流れ込んできているのか。リタの抱える帳面には、まだ答えの書かれていない空白の欄が不気味に残っていた。
◆◆◆
王都から遠く離れた教会本部にも、この日の報告はやがて届くことになる。
「銅級の聖女による、街全域規模の同時浄化」――その一文だけが、
分厚い報告書の束の中に、まだ小さく埋もれていた。
◆◆◆
「なんだあ、この水は」
灰色の頑強な肌をした巨躯の男が、井戸の奥底を覗き込みながら低く野太い声で唸った。
その井戸の水はうっすらと白く濁っていた。
ここはフォレステッジの反対側、深い森を挟んだ先、鬼人や竜人と呼ばれる人とは異なる種族たち-亜人族-が静かに暮らす、境界の街ボーダーウッズ。人間の住むフォレステッジとは、行き来はない。そもそも、森の反対側に別の街が存在することすら、お互いの住民は普段ほとんど意識していなかった。
それほどまでに、両者を隔てる森は深く、そこに潜む魔獣はあまりに危険すぎる。広大な緑の地獄。
だが、地下を流れる水脈だけは、そんな都合などお構いなしに繋がっている。
「森の中の様子を、少し見てくるか」
それだけ短く言い残すと、男は静かに立ち上がった。その身長は優に三メートルほどもある。
その男、ダグは大きな歩幅で薄暗い深い森の奥へ向かって歩き出した。
◆◆◆
ルチアはおなかをさすりながら、ゆっくりと帰路につく。
フォレステッジの美しい空は、今日も静かに暮れていった。




