串焼き四種(倶利伽羅焼き・ヒレ・カブト・ばら)
ぐらり、ぐらりと、見張り塔が、激しく揺れた。
フォレステッジの東側、防柵の隣に石造りの見張り塔がそびえ立つ。その強固な石壁へ、巨大な二本の角を持つ魔獣、ロックホーンが、狂ったように体当たりを繰り返す。ゴン、ゴン、と鈍い衝撃音が、そのたびに地面を伝った。上層からは、見張りの兵たちが真っ青な顔で退避を叫んだ。
「崩れるぞ!塔から離れろ!」
フォレステッジ警備隊副隊長、カイル・ラークウッドが声を張り上げた。部下たちを次々と塔の外へと誘導しながら、カイル自身は最前線に踏みとどまる。
「副隊長、矢が効きません!甲皮が硬すぎます!」
「盾を並べろ!何としても時間を稼ぐんだ!」
隊員たちが大盾で急造の防壁を作るが、魔獣の突進は盾ごと隊員を跳ね飛ばすほどの破壊力を秘めていた。石壁のひび割れが、見る間に深く広がっていく。これまで対処してきたどの個体とも格が違う相手だと、嫌でも思い知らされた。
そこへ、息を切らした若い隊員が駆け込んできた。
「副隊長!新しく赴任された聖女様に、至急応援を要請しろとのことです!」
「聖女様……!」
三日前、着任早々に防柵の外のアイアンシェルを一人で片付けたらしい、という噂を小耳に挟んでいる。それほどの力を持つ味方がこの街に来てくれたというのなら、とても心強い。
「頼む……!俺が探しに行く!ここは任せた!」
カイルは部下の一人に現場の指揮を託し、自ら聖女を探しに走り出した。
「聖女様は、どちらに!」
「今日はこちらにはいらしておりません」
応対に出た役人のベルナルドが、困った顔で頭をかく。行き先の見当もつかないという。
カイルはすぐさま領庁を飛び出した。大通りを走り、市場の商人に尋ねても「さっきそこを通った」という曖昧な証言ばかり。詰所の隊員も動員して足取りを追うが、誰もが「見た」と言うだけで、現在の居場所を突き止められずにいる。まるで幻を追いかけているような感覚に包まれながら、カイルは街中を走り回った。
気がつけば、捜索を始めてからかなりの時間が経過していた。見張り塔の様子が気にかかるたびに、胸の奥がざわつく。頭の中では最悪の想像ばかりが膨み、カイルは肩で息をしながら、街の外れの細い路地へと足を踏み入れた。
その瞬間、風に乗って、妙に香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
尋常ではない匂い。甘辛く、どこか濃厚で、炭火の芳しさが混ざり合った、嗅いだこともない魅惑的な香りだ。
引き寄せられるように路地の中まで進むと、そこには古びた暖簾の揺れる店があった。
そして、見つけた。
石畳の上に置かれた木の腰掛けに、白い聖衣をまとった少女が腰を下ろしている。金色の髪を風になびかせ、真剣な表情で、手にした竹串を凝視する。傍らの木のトレーには、すでに食べ終えた串が三本、丁寧に並べられていた。
(もう一本、頼んでもいいのでしょうか。はしたないでしょうか。でもでも、もう一本くらいなら……)
「……せ、聖女様!」
カイルは駆け寄りながら、思わず声を裏返らせた。
「よかった、見つけました!実は今、見張り塔が魔獣に襲われていて、崩落の危険が……!」
「もう一体出たのですか?!」
ルチアが弾かれたように立ち上がり、真剣な顔でカイルに詰め寄る。
「……え?もう一体?」
カイルの足が、ぴたりと止まった。
「一体は、先ほど森へお帰りいただいたのですが」
ルチアは落ち着いて告げる。
「森へ……?角の生えた、大きな個体ではありませんでしたか」
「はい。立派な二本角の魔獣でした」
「その魔獣かもしれません」
二人は互いの言葉を突き合わせ、状況を理解した。カイルが仲間のために必死に走り回った理由である「魔獣」と、ルチアが「ここに来る途中で」片付けた「魔獣」は、同一の個体だったようだ。緊急事態は、とうの昔に片手間で片付けられていたということになる。
カイルはがっくりと、地面に片膝をついた。安堵と脱力が同時に押し寄せ、何とも言えない気持ちになる。長時間の捜索も、あの恐怖も、すべてがいったい何だったのかと、乾いた笑いすら込み上げてきた。
「お疲れ様です。新しい被害がなくて良かった」
ふと、カイルはトレーの上の串へと視線を移した。
「あの……何を、召し上がって?」
「串焼きです。こちらで購入いたしました。倶利伽羅焼き、ヒレ、カブト、ばら。四種類、それぞれ一本ずつ、もういただいてしまいました」
「四種類……」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「お恥ずかしい話ですが、力を使うとどうしても……その……」
語尾が小さくなるルチアを見て、カイルはピンときた。
(物足りないということか)
「あれほどの魔獣を追い返す力です。お食事も必要でしょう。私は少し離れてあちらを向いております」
カイルはそう告げると、ルチアに背を向けた。
鰻の串焼きは、蒲焼とはまた違う楽しみ方ができる料理だ。皮目を軽く炙った身を螺旋に巻いて焼き上げるもの、軟骨質の部分だけを集めて塩焼きにするもの、頭を丸ごと炙って旨みを凝縮させたもの、切り落としの脂の乗った部位を焼くもの。いわゆる「うなぎ串」を扱う店では、こうした部位ごとの食べ比べを少しずつ楽しめるのが醍醐味と言える。一尾からほんの少ししか取れない希少な部位も多く、串という形だからこそ、様々な表情を贅沢に味わえるのだ。
「では、もう一度、きちんと味わいたいと思います」
ルチアは小さくそう宣言すると、扉を開け、店主に新しい串を頼んだ。職人の手によって焼き台に新しい串が並べられる。
ちりちりと音を立てて、炭火の熱が鰻の身を包み込んでいく。絶妙な火加減で熾った極上の炭は、余計な炎を上げず、ただ圧倒的な熱量を発していた。店主がうちわでパタパタと風を送るたび、炭が赤く爆ぜ、立ち上る煙が鰻の脂を纏って食欲をそそる香りを何倍にも膨ませる。じわじわと表面に浮き出てくる透明な脂の雫。それが炭に落ちるたび、シュワッと小気味よい音と共に、路地裏全体を支配するほどの芳醇な匂いが周囲へ拡散した。特製のタレにくぐらせた瞬間、ジュワアァという激しい音が鳴り響き、醤油とみりんの焦げる甘辛い匂いが、少し離れたところにいるカイルまで届き、彼の胃袋を容赦なく直撃する。
「いただきます。まずは、倶利伽羅焼きから」
最初に運ばれてきたのは、細長く捌いた鰻の身を、竹串に文字通り倶利伽羅竜王の如く螺旋状に巻き付けた倶利伽羅焼きだ。
たっぷりと纏った秘伝のタレが、炭火の熱で極限まで煮詰まり、まるで宝石のような深い琥珀色の照りを放っている。ところどころに絶妙な焦げ目がつき、その輪郭が食欲を激しくそそる。ルチアはそっと竹串を持ち上げると、その美しい唇を開き、思い切り齧り付いた。
パリッ。
静かな路地に、芸術的なまでに完璧な破裂音が響く。
それは、炭火によって極限まで水分を飛ばされ、限界まで炙り上げられた皮目が弾けた音だった。
次の瞬間、口の中で弾けるのは、圧倒的な身の弾力だ。強火の遠赤外線でふっくらと中心まで熱を通された身は、もっちりとした小気味よい歯ごたえを残している。噛み締めるたびに、皮の香ばしさと身のジューシーさが交互に押し寄せ、味覚の細胞を一つずつ叩き起こしていく。
さらに、身の隙間からじわりと滲み出てくるのは、濃厚極まりない鰻の上質な脂だ。それが、幾重にも塗り重ねられて熟成した甘辛いタレと完全に融合し、暴力的なまでの旨味となって口内全体を席巻する。脂の旨みとタレのコクが舌の上で一つに溶け合い、濃厚な余韻が喉の奥へと滑り込んでいった。
ルチアの目が、うっとりと細められる。もし、この表情を見ている者がいれば、そのあまりの美しさに、誰もが魅了されるに違いない。
(――素晴らしいです!皮はどこまでもパリッと締まっていて、身は驚くほどもっちりしています。噛むたびに、上質な脂の味が波のように追いかけてきて、タレの深みと完璧に絡み合う……!)
それは、鈴の鳴るような美しい声となって、カイルの頭の中に直接響き渡った。まるで耳元で優しく囁かれたかのような、輪郭のはっきりとした言葉だ。
「え……?」
カイルは慌てて周囲を見回す。だが、ちらと見えたルチアは、口の中の倶利伽羅焼きを幸せそうに咀嚼している最中で、唇は完全に閉じられている。声など出せるはずもなかった。あれほどはっきりと声の届く距離でもない。
カイルは首をかしげたが、走り回った疲労のせいだろう、と自分を納得させた。
「次は、ヒレをいただきます」
二本目として差し出されたのは、鰻の背びれと、その周りにある極少量の身を丁寧に巻き付けたヒレの串焼きだ。
こちらはタレではなく、こだわりの粗塩が軽く振られている。炭火で炙られたヒレの表面は、うっすらと黄金色の焼き色を帯び、野趣あふれる力強い佇まいを見せていた。ルチアがそれを口に運び、前歯でコリリと噛み締める。
表面のカリカリとしたクリスピーな食感の奥から、独特のコリコリとした絶妙な歯ごたえが迎えた。鰻のヒレ特有の、引き締まった筋肉質の食感が心地よい。噛めば噛むほど、凝縮された鰻本来の純粋な赤身の濃い旨味が、じわりじわりと溢れ出してくる。
そこへ絶妙なタイミングで絡んでくるのが、角のない円やかな塩気だ。塩が鰻の持つ野生的な旨味を極限まで引き立て、上品でありながらもパンチのある味わいへと昇華させている。タレのような派手さはないが、素材そのものの実力で勝負するその実直な美味さに、ルチアの顔がふわりとほころんだ。
(――ああっ!このコリコリとした歯ごたえ、本当にたまりません。噛むたびに広がる、洗練された塩気と力強く深い味が、無限に食べ続けられそうなほど素晴らしい……!)
またしても脳内に直接届いた鮮明な言葉に、カイルは完全に息を呑んだ。ルチアは、自分の背中側の離れた位置にいるはずだ。
そういえば彼女が魔獣を撃退した際に近くにいた人間には彼女の声が直接頭の中に聞こえてきたという話を思い出した。まさかこれは?
その時、路地の入り口から、複数の足音が慌ただしく近づいてきた。
「副隊長!こちらでしたか!」
駆けつけたのは、カイルを探すために本部から遣わされた別動の隊員たちだ。
「見張り塔の魔獣が、突然大人しくなって森へ帰っていったそうです。副隊長を呼び戻すよう言いつかって参りました」
「ああ、それは……」
カイルはちらりと後ろのルチアへ視線をやった。
「聖女様が、帰してくださったそうだ」
「え、聖女様が!?」
「そう言われてみれば、頭の中に直接『もう大丈夫ですよ。落ち着いて』という声が聞こえた気がしたら、魔獣が落ち着いたんです」
一人がそう呟くと、他の隊員も次々と頷いた。
「それなら聖女様が対応してくれた魔獣が塔を襲った魔獣ということで間違いないな。全員、ひとまず安心していい」
カイルの言葉に、隊員たちがどっと安堵の息を吐いた。緊張の糸が切れたのか、その場にへたり込む者までいる。
「三本目は、カブトです」
隊員たちの騒ぎをよそに、ルチアのもとに次の串が運ばれてきた。鰻の頭の部分をじっくりと時間をかけて蒸しあげ、それから強火の炭火で一気に焼き上げたカブトだ。
骨まで柔らかく火を通された頭部は、深みのある特製タレを限界まで吸い込み、漆黒に近い濃厚な色合いを呈している。ルチアは躊躇う様子もなく、その一切れに豪快に齧り付いた。
パリパリとした皮を破った瞬間、中から濃厚なコラーゲン質が、とろりと熱く溶け出してくる。頭部の複雑な骨格の隙間に隠された、目の周りや頬の希少な身。それは運動量が多い部位であるため、他のどの部位よりも深みのある、ビターな野性味を秘めていた。
その特有のほろ苦さと濃厚な旨味が、甘辛いタレの糖分と完璧に調和し、口の中で重厚なメロディを奏でる。ねっとりと舌全体に絡みつく、尋常ではない深みのあるスープ。噛むたびにゼラチン質のとろみが弾け、口の中が至高の味で満たされていく。ルチアの身体が、その美味さの衝撃に微かに震えた。
(――濃密!まさに濃密です!脳を直接揺さぶるような深いコクと、後を引くこの極上のねっとりとしたとろみが、頭の芯まで痺れさせて……!)
鮮明な言葉は、今度はカイルだけでなく、場にいた隊員たち全員の頭にも同時に響いた。
隊員たちが、一瞬だけ目を見開く。だが、それも束の間のことだった。
――ああ、さっきの、あの声と同じだ。
塔で聞いた「もう大丈夫」と、今しがた聞こえた食への賛辞。声の主が同じであることに、誰もが一瞬で思い至ったらしい。声にこそ出さなかったが、互いに目配せを交わすと、そっと視線を逸らしていく。あとの判断は、副隊長に委ねる。隊員たちの意思疎通に、言葉はいらなかった。聖女としての威厳などどこへやら、当のルチアの表情は至福の色に染まりきっている。
「そして最後に、ばらをいただきます」
トリを飾るのは、切り落としの特に脂が乗った極上の部位を集めた、ばらだ。網の上で脂が激しく弾け、立ち上る煙さえも美味いという、贅沢極まりない一串。
ルチアはそれを、一口で贅沢に頬張った。
その瞬間、彼女の動きが止まる。歯を立てる必要すら感じさせないほど、身はふんわりと、儚く解けていく。口の中に入れた途端、爆発的に溢れ出た極上の脂の甘みが、味覚の限界を突破した。蕩けるような柔らかさと、どこまでもピュアな脂の洪水の前に、彼女の心は完全に満たされる。
(――ふわあああ!これもまた、言葉を失うほどの美味しさです!全てが優しい……幸福感で胸がいっぱいになります!)
その声は、またしてもその場の全員に届いていた。今度は誰も驚かない。むしろ、妙な一体感すら漂っている。
だがまあ、一人くらいは空気を読むのが遅いやつもいるものだ。
「聖女様、今の、もしかして……」
若い隊員の一人が、好奇心を抑えきれずに聖女に向かって口を開きかけた。体は前のめりになり、走り出しかけている。
「――っと」
カイルは反射的に手を伸ばし、その隊員の口を後ろから塞いだ。
「んんっ!?」
「……悪い。虫が飛んできたと思ってな」
カイルはしれっとそう言い放ちながら、隊員の口から手を離す。隊員は目を白黒させていたが、周囲の視線に気づいて、ようやく状況を察したらしい。ばつが悪そうに、こくこくと何度もうなずいた。
カイルは他の隊員たちにも、ぐるりと視線を巡らせる。誰も何も言わなかったが、全員が小さく頷き返してきた。今日この場で起きたことは、誰の口からも外には出さない。そう申し合わせるのに、言葉はいらなかった。
ルチアは、串の最後のひとかけらを名残惜しそうに味わっているだけで、今の騒ぎにはまるで気づいていない。
美味しいものを食べて歓喜する声を特等席で聞きながら、カイルはついに我慢できず、小さな苦笑を漏らした。
確信した。能力の影響か、この聖女は、食に対する感動や幸福感が一定の限界を超えて昂ると、その心の声がそのまま周囲の脳内へ漏れ出してしまうのだ。
そして、本人はその事態に、爪の先ほども気づかないでいる。
気づかぬまま、彼女は一本の串に対するその感動の全てを、隠すことなく垂れ流していたのだ。
結局、二周目の四本も瞬く間に平らげ、合計で八本の串を完食した聖女は、大いに満足した様子で息をつく。
カイルはその普段とは違う破天荒な姿に呆れつつも、胸の内に不思議な温かさを覚えていた。
「……聖女様、おいしかったですか」
「はい。とても!あ、いえ、美味しくいただきました。ごちそうさまでした」
ルチアは満足そうな笑みを浮かべたあとで慌てて口元を手で隠し、真顔で答えた。
――知ってます。誰よりも詳しく、たった今、聞かせていただきましたので。
そんな軽口が喉元まで込み上げたが、カイルはすんでのところで飲み込んだ。聖女たらんとして、笑みを隠し、慎ましく言い直した一言の裏に、あれほど雄弁で、あれほど幸福に満ちた独白が隠されていたことを、この聖女はきっと欠片も自覚していない。その落差がおかしくて、カイルは頬が緩みそうになるのを堪えた。
ルチアに別れを告げ、一同は見張り塔へと引き返した。夕暮れの光が、フォレステッジの街並みを橙色に染め上げている。
塔に着くと、石壁に残るひび割れが、先ほどの攻防の激しさを物語っていた。それでも崩落は免れている。隊員たちは一様に安堵の表情を浮かべていたが、誰も、路地でのことには触れなかった。示し合わせたわけでもないのに、誰もが同じように口をつぐんでいる。その静かな連帯感に、カイルはどこか胸の奥が温かくなるのを感じた。
塔の恩人である聖女は、自分がどれほど正直に心の内を漏らしてしまっているか、まるで自覚がないのだろう。それを知ってしまうともう外で食事を楽しむことは出来なくなる。ならば、周囲の者はそっと目をつぶってやるのが、この街の優しさというものだ。
鼻腔の奥には、まだあの甘辛いタレと、炭火の焦げた匂いが残っている気がした。明日からは塔の修繕や報告書の作成など、やるべき仕事は山積みだ。それでも、カイルの足取りは、不思議なほど軽かった。
「今度は、自分も一人で、あの暖簾をくぐってみるか」
誰にともなく小さく呟き、カイルは詰所へと歩みを進めた。




