う鍋
いよいよ、出発の前日となった。
六人は最後の顔合わせのため、藍色の暖簾の下に集まろうとしていた。準備はすべて整い、それぞれの持ち場での引き継ぎや警戒態勢の配置も完了した。
一番乗りで暖簾をくぐったのは、カイルだった。防具の留め具は、いつもより一つ多く締められている。
「おやじ、頼んでたやつ頼むぜ」
「あいよ」
おやじは短くそう答えると、大きな鉄鍋をカウンターへと運び、出汁を張って火にかけた。透き通った出汁が、じきにふつふつと音を立て始める。周りに置かれた皿には、焼き上げられた鰻の切り身、みずみずしい白菜、肉厚な椎茸、崩れやすいほど柔らかな絹豆腐、そして丸くて白い餅が、整然と盛り付けられていた。
今日の料理はう鍋だ。
う鍋とは、澄んだ出汁をたっぷりと張った鍋の中で、炭火で焼き上げた鰻と、季節の野菜、餅をじっくり煮込みながら味わう料理だ。焼いた鰻を出汁で煮ることで、蒲焼とはまた違う優しい滋味が引き出される。脂と出汁が溶け合い、白菜や豆腐、椎茸といった具材にも、その風味がじんわりと移っていく。旅立ちの前夜に、皆でわいわいと食べるにはうってつけの一品だった。
鍋が温まるまでの間、カイルはカウンターに肘をつき、静かに待っていた。
そこへ、暖簾を押しのけるようにして、ダグとヴァルガが並んで入ってくる。
「悪ぃ悪ぃ、遅くなった」
「まだ煮えてねえのか」
「いや、ちょうど鍋がかかったところだ」
鍋の出汁が、ふつふつと大きく沸き立ち始める。おやじが手早く鰻の切り身を沈めていくと、炭火で炙られた香ばしい脂が出汁へじんわりと溶け出し、湯気そのものが甘く色づいて立ちのぼっていった。
そこへ、暖簾がまた揺れた。
「失礼します。例の集計、まとまりましたので」
帳面を抱えたリタが、静かに入ってくる。
「もう一つ、報告があります」
カウンターに帳面を広げ、地図を指し示した。
「瘴気を纏った魔獣の出現地点を、改めて集計しました。発生源はやはり森の奥の、この一点です。ここを中心に、瘴気が放射状に広がっています」
「先日のスタンピードで現れた個体も、足取りを逆算すれば、この一角から流れてきたと見て間違いありません」
「だったら――」
「先に一発、浄化の光を飛ばしとくってのはどうだ。ボーダーウッズまで届かせた前例もある」
「試してみます」
その提案を受け、ルチアはそっと両手を胸の前で合わせる。カウンター越しにリタが指さす地図の一点へ意識を注ぎ込むと、指先から柔らかな光が溢れ出した。澄んだ光の粒は、鍋の湯気をやさしく撫でるようにして、静かに宙へ溶け込んでいく。
「遅くなったわ」
ちょうどその時、暖簾をくぐってシャノンが入ってきた。荷を背負ったままカウンターへ近づき、ルチアの手元から放たれる光を見て足を止める。
しばらくして、ルチアがゆっくりと目を開いた。
「……届きました。手応えは、しっかりとありました」
「本当か!」
「はい。周辺に漂っていた瘴気は、これでかなり払えたはずです」
「流石です、ルチア様!」
リタの眼鏡の奥の瞳がキラリと光り、素早く帳面にペンを走らせる。
「遠隔での浄化が成功したとなれば、現地の初期負担は大幅に軽減されるはずです。ですが、あくまで一時的な対処。発生源そのものを叩かなければ、時間の問題で元に戻るでしょう」
「まあな。だが、前哨戦としては上々だ」
ダグが力強く拳を握り締め、カイルも安息の息を漏らした。だが、ルチアは自らの掌をじっと見つめたまま、微かに首をかしげる。
「ただ……漂っていた分は払えましたが、その奥深くに、何か恐ろしいほど強大な力が眠っているような気配を感じました」
「強大な力……?」
「ええ。まるで、何かを封じ込めている古い蓋に、ほんの少しだけ亀裂が入って漏れ出しているような……」
ルチアが口にした言葉に、シャノンの表情がふっと硬くなった。
(……古い蓋、亀裂……? まさか)
いつもの飄々とした笑みを完全に消し、シャノンはルチアの横顔をじっと見つめる。だが、皆の前で場の雰囲気を崩さぬよう、すぐにいつもの軽やかな表情を取り繕った。
「あらあら、想像力が豊かねえ。……でも、行けば分かるわ。森のことなら任せて」
シャノンはそう言って荷を下ろすと、空いた席へ腰を下ろした。他の五人は特に気に留めた様子もなく、次の話題へと移っていく。シャノンの胸の奥にだけ、小さな引っかかりが残されていた。
「それにしても、森の最奥か」
カイルが手帳を広げ、眉をひそめる。
「ここから歩いて向かうとなると、行きに三日、帰りに三日。現地での調査や予備日を合わせたら、トータルで十日はみとかねえとな」
「ああ。徒歩じゃそれが限界だ。密林を突っ切るんだからな」
ダグが肩をすくめると、シャノンが待っていましたとばかりにニッと笑った。
「ふふ、そのことなんだけど」
腰を下ろすなり、待ちきれない様子で口を開く。
「セラフィナに頼んでみたの」
「……セラフィナ?」
聞き覚えのない名前にカイルが首を傾げると、ダグとヴァルガ、ルチアが同時に顔を見合わせた。
「おいおい、あの白銀竜のことか! あんた、セラフィナと知り合いだったのか?」
ダグが目を見張ると、シャノンは得意げに胸を張った。
「ええ、森番の伝手でね。快く引き受けてくれたわ。空から行けば、片道半日足らずで着けるはずよ」
「竜の背に乗れるなんて……! それは、とても助かります」
ルチアが両手を合わせてパッと表情を輝かせると、ダグも豪快に笑った。
「そりゃあ、大助かりだ! 十日の覚悟をしてたのが、拍子抜けするくらいだな」
そうこうしているうちに、鍋の中身がちょうどよく煮え始めていた。鰻の脂を吸った出汁が、澄んだ黄金色から、深みのある琥珀色へと変わっている。
「よし、食うか」
「いただきます」
六人がそれぞれ箸を伸ばした。ルチアが小皿にひとつ、鰻をすくい上げる。口に運んだ瞬間、澄んだ出汁の滋味と、鰻の脂の甘みが、じんわりと舌の上に広がっていった。
(――ああ、なんという温もり……! 口に含んだ瞬間、どこまでも澄んだ出汁の滋味が、焼き上げられた鰻の濃厚な旨みを優しく解きほぐしていきます。香ばしさと解け合う濃密なコクが、解けるように全身へ染み渡っていきます!)
「……美味しいです」
いつも通りの、澄ました一言。だが、小ぶりな口元がふわりと綻び、満足げな吐息が小さく零れていた。
続けて箸を伸ばしたのは白菜だった。しんなりと出汁を吸った葉が、噛むたびにじゅわりと甘い汁を溢れさせる。
「白菜まで、こんなに美味いとはな」
カイルがそう言って苦笑すると、椎茸を頬張ったダグの額から、外套の下の二対目の腕が待ちきれない様子で伸び始めた。
『肉厚な椎茸に、旨味の詰まった出汁がどこまでも染み込んでやがる……! 鰻の脂を吸ったこの旨さは、肉にも負けてねえぞ……!』
「今夜も、変わらねえな」
ヴァルガが苦笑しながら、卓上の竹筒を手に取った。中の粉山椒を、自分の椀へ容赦なくばかすかと振りかけていく。
「おいおい、そんなにかけたら出汁の味が吹っ飛ぶだろ……」
呆れるダグに、ヴァルガはニヤリと笑った。
「分かってねえなぁ。この強烈な痺れがあるからこそ、出汁の旨みが跳ね上がるんだよ。――ほらみろ、この豆腐なんか最高だぞ」
山椒の粉で一面が緑色に染まった椀の中で、ヴァルガが豆腐を箸で割る。出汁を吸って角の取れた身が、ほろりとほどけた。それを山椒ごと豪快に口へ運び、満足げに目を細める。
「爽やかな香りと痺れの奥から、出汁の優しい甘みが追いかけてきやがる……! 豆腐の甘みと山椒が引き立て合って、たまらん味だな」
「私も、いただきます」
シャノンが餅をひとつ選んで頬張ると、幸福そうに目を細める。緑がかった銀髪の一房が、柔らかな花びらのシルエットへと変わり、湯気の中を漂うように舞った。
「記録しておきます。う鍋、六人分。……美味しいです、これは」
リタも珍しく、帳面を閉じたまま素直な感想をこぼす。
そんな折、暖簾がためらいがちに揺れた。
「失礼します。先日のスタンピードの件、追加で伺いたいことがあり参りました」
顔を覗かせたのは、教会からの視察官、アイリスだった。分厚い書類挟みを胸に抱えている。
「ちょうど良いところに、皆様お揃いで助かります」
「アイリスさんも、飯食ってったらどうだ」
ダグが気軽にそう声をかけると、アイリスは一瞬だけ戸惑った顔をしたが、すぐに姿勢を正した。
「では、お言葉に甘えて」
空いた席に腰を下ろし、差し出された椀を受け取る。一口すすると、アイリスの目が大きく見開かれた。
「……これは。出汁にここまで滋味が溶け込むものなのですね」
「へっ、この美味さが分かるたぁ、見かけによらずお目が高いねえ」
ヴァルガが感心したように笑うと、アイリスは真顔のまま二口目に箸を伸ばす。書類挟みは、いつの間にか椅子の下に置かれたままになっていた。
「ところで、皆さん明日はどちらへ」
尋ねられて、カイルが軽い調子で答えた。
「森の奥に、瘴気の出所らしい一角がある。何がいるのか、俺たちで見に行くことになってる」
「見に行く、というのは……討伐部隊としての正式な出動ですか」
「いや、そこまで大層なもんじゃねえよ。何かおかしいから、様子を見に行くってだけだ」
ダグが軽く答えると、アイリスの箸が止まった。
「……私も、同行させていただけませんか」
「は?」
六人の声が、ほぼ重なった。
「教会本部への報告は、伝聞では正確さを欠きます。この目で確かめる必要があると、以前から思っておりました」
「危ねえかもしれねえんだぞ」
カイルが眉を寄せると、アイリスは書類挟みを拾い上げ、胸に抱え直した。
「危険は承知の上です。それに、皆様が何かおかしいと感じて見に行くだけ、というなら、なおのこと私が見届けるべきかと」
その言い分に、しばらく誰も言葉を継げなかった。
「……まあ、本人がそこまで言うなら」
カイルが根負けしたように肩をすくめると、ダグとヴァルガも顔を見合わせて頷く。
「賑やかになりそうだな」
「セラフィナも、乗せてくれるかしら」
シャノンが小さく笑うと、アイリスは深々と頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
鍋の中身がひとしきり減った頃、おやじが白飯を加え、雑炊の仕上げにかかる。具材の旨みが凝縮された琥珀色の出汁を吸い込みながら、米粒がとろりと優しい黄金色の一杯へと姿を変えていった。
「――さあ、締めだ」
七人が、それぞれの茶碗に雑炊をよそっていく。
『おおおっ!こりゃ反則だぜ! 鰻の香ばしさと野菜の甘みを丸ごと吸った米なんて、美味くないわけがねえっ!』
「出汁の深みが、さっきより数段増してやがる。一粒一粒にまでじっくり味が染み込んで……締めにしとくには惜しいくらいだな」
「ここに、追い山椒をっと。かあーっ、この爽やかな痺れと熱さがたまらん!」
「美味しすぎて、お腹がいっぱいなのも忘れちゃいそう……。噛むたびにジュワッと汁が広がるの、ズルいわぁ」
「……記録、更新です。個々の素材がもたらした成分を余すことなく回収する調理法として、極めて完成度が高いと言わざるを得ません」
「……鍋の締めというものを、初めて体験いたしました。全ての具材が重なり合った味わいが、これほど心とお腹を満たすものだとは」
(――ああ、これです……! 最後のひと粒、最後の一滴まで、皆さんの温もりと一緒に染みわたっていきます。明日への活力が、身体の奥から湧き上がってくるようです……!)
ルチアの漏れ出た心の声に、周囲の面々が(相変わらず情熱的な心の声だな……)とあたたかな眼差しを向ける中、湯気が静かに宙へ溶けていった。
「ごちそうさまでした」
「どうぞ、また」
藍色の暖簾をくぐり、七人はそれぞれの帰路へとついた。夜の帳が下りたフォレステッジの空に、星が静かに瞬いている。
「じゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
短い挨拶を交わし、六人はそれぞれの夜へと歩き出す。少し離れた場所で、アイリスも一人、宿の方角へと歩き始めていた。橙色の灯りに照らされた石畳の上に、七つの影が長く伸びていた。
◆◆◆
王都、武具庫の奥。埃をかぶった書庫の隅、崩れかけた石棺の下から、鈍い光を放つ一振りの剣が見つかったのは、その日の未明のことだった。
「これは。外見は伝承の通りだ。こんな足元にあったなんて」
老練な武具番の手によって聖剣はただちに王の元へと届けられた。兵の編成も、この一報を受けて一気に動き出す。選抜された兵たちが、続々と王都の外れの演習場へと集まり始めていた。
◆◆◆
出発の朝、藍色の暖簾はまだ下りたままだった。だが、店の奥では、いつもより早い時刻から包丁の小気味よい音が響いている。
「おはようございます」
一番乗りで暖簾をくぐったのは、ルチアだった。
「おう、早いな」
おやじが顔も上げずに答える。カウンターの上には、酢飯を握る手つきの職人らしい迷いのなさで、次々と寿司が並べられていた。数日前に話していた、あの棒寿司と握りだ。
「約束通り、道中用だ。十日分、余裕を持たせてある」
「ありがとうございます」
ルチアが頭を下げたところへ、カイルとダグ、リタ、そしてヴァルガとシャノンが次々と暖簾をくぐってきた。皆、旅装に身を包み、いつもよりずっと表情が引き締まっている。少し遅れて、アイリスも息を切らしながら顔を出した。
「お待たせしました」
「早いな、ちゃんと来るとは思わなかったぜ」
ダグがからかうように言うと、アイリスは書類挟みを抱え直しながら胸を張った。
「言い出したのは私です。遅れるわけにはまいりません」
「それと、こっちも持っていきな」
おやじが、別に用意していた竹皮の包みを差し出した。
「うなぎおにぎりと、八幡巻きだ。小腹が空いた時にでも、摘まめるようにしてある」
「……いろいろ、世話になる」
カイルが包みを受け取りながら、頭を下げた。
◆◆◆
王都の外れ、広大な演習場に、選抜された兵たちの隊列が並んでいた。鎧の擦れる音、馬の嘶き、指揮官の号令。数週間かけて集められた兵の数は、すでに千に届こうとしている。
その先頭に立つローガンの腰には、鈍い輝きを放つ一振りの剣が下げられていた。長い捜索の末、ようやく見つかった聖剣だった。
「出立まで、あと数日か」
ローガンが呟いた声は、これから始まる長い行軍への緊張を、静かに滲ませていた。
◆◆◆
森を挟んだ先、亜人国の議事堂には、討伐官たちからの報告が積み重ねられていた。
「森の奥から漏れ出す瘴気の勢いが、ここ数日でまた強まっています」
ゼフィルスが差し出した書面に、居並ぶ長老の一人が目を落とす。
「討伐官たちの疲弊も、限界に近づいているようだな」
「はい。件数だけでなく、一体あたりの瘴気の濃さも、これまでにない水準です」
長老は、深く皺の刻まれた顔をわずかに曇らせ、古い言い伝えを口にした。
「まさか、魔王か?封じられし王が疼く兆しあらば、いずこかで聖なる剣もまた目覚めていよう。――そう伝えられてきたはずだ」
「聖なる剣、ですか」
「ああ、古い戦記には、こうも記されている。かの王が一度いきり立てば、山は崩れ、川の流れさえ変わったと」
「大げさな言い伝えかと」
「大げさであってくれれば、それに越したことはないがな」
長老は、窓の外に広がる深い森へと視線を向け、静かに息を吐いた。
「魔王の目覚めが近いのであれば、いずれ相応の備えが要る。討伐官たちへの召集を、検討しておくべきかもしれん」
ゼフィルスは静かに頷き、議事堂を後にした。
◆◆◆
「――さて、そろそろだな」
支度を終える頃、暖簾の外から、大きな影が空を覆った。
「来た」
シャノンが真っ先に立ち上がり、店の外へと駆け出す。他の六人もそれに続いた。
石畳の広場に舞い降りたのは、白銀の巨躯を持つ竜――セラフィナだった。優雅に翼を畳み、静かに頭を垂れる。
「お待たせいたしました」
「セラフィナ、来てくれたんですね」
ルチアが駆け寄ると、セラフィナは穏やかに目を細めた。それから、初めて見る顔に気づいたように、アイリスへと視線を移す。
「……こちらの方も、ご一緒に?」
「教会の視察官、アイリスと申します。ご迷惑でなければ、私も同行させてください」
アイリスが深く頭を下げると、セラフィナは静かに頷いた。
「迷惑などとんでもございません。皆様のお役に立てるなら、これほど嬉しいことはございません」
「助かるぜ。歩きなら十日は見てた道のりだ」
ダグが感謝を込めて頭を下げると、セラフィナは静かに翼を広げた。
「さあ、どうぞ」
七人が背に乗り込むと、セラフィナは大きく翼を打ち、地を蹴った。
「うおおっ……!」
ヴァルガが思わず声を上げる。
「ひゃ……ひゃあああっ……!」
その隣で、アイリスが両手でセラフィナの鱗をきつく掴みながら、悲鳴とも歓声ともつかない声を上げていた。
「アイリスさん、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫、大丈夫です……!これが、竜の背中……!」
目を白黒させながらも、アイリスは眼下を見ようとして、そのたびに体を強張らせる。誰も乗ったことのない乗り物への恐怖と好奇心が、彼女の中でせめぎ合っているのが、傍から見てもよく分かった。
一瞬にして、フォレステッジの街並みが遥か眼下へと遠ざかっていった。防柵の丸太の一本一本まで見分けられていたはずの街が、あっという間に石畳の模様のように小さくなっていく。風が耳元で唸り、頬を強く叩いた。雲の合間を縫うように、白銀の竜が滑空していく。
「これは……すごいな」
カイルが、思わず身を乗り出して眼下を見渡す。
「三日かかると思っていた道のりが、こんなにあっという間だなんて」
ルチアも、風になびく髪を押さえながら、眼下に広がる深い森の全景に息を呑んだ。
「この森はこんなにも広大だったのですね!地上にいただけじゃ、絶対に分からなかったです」
ルチアが思わず声を弾ませると、隣でリタが帳面を風にはためかせながら頷いた。
「上空から見ると、地形の全体像がよく分かります。これは、貴重な記録になりますね」
「り、リタさん、この状況でよく帳面を開けますね……!」
アイリスが震える声でそう言うと、リタは眼鏡を軽く押し上げた。
「慣れです」
「あなたも初めてですよね……?!」
「俺は、こういうのは苦手だ……」
ダグが、四本の腕で座席代わりの鱗をがっしりと掴みながら、少し青ざめた顔で呟く。
「意外な弱点発見。ってとこかしら?」
シャノンがくすくすと笑うと、ダグは決まりが悪そうに顔をしかめた。
「地に足がついてねえと、どうにも落ち着かねえんだよ」
ヴァルガだけは、風を全身に受けながら愉快そうに笑っていた。
「あの一帯ですね」
リタが帳面を風にはためかせながら、遠く霞む森の一角を指差した。木々の色が、その一帯だけ不自然に暗く沈んでいる。
「見えてきたぜ」
ダグが低く呟いた。空の旅の高揚感が、静かに緊張へと変わっていく。アイリスも、震えていた手をいつの間にか止め、真剣な目でその一帯を見つめていた。
◆◆◆
高度を落としながら、セラフィナがその一帯へと近づいていく。眼下にどこまでも広がっていた緑の絨毯――「呑む森」の最奥部が、次第にはっきりと迫ってきた。
「あれは……」
セラフィナの声に、緊張の色が滲む。
密林の海が、まるで大地を力任せに引き裂いたかのように唐突に途切れていた。その先に広がっていたのは、四方を切り立った崖に囲まれた、巨大な大穴のような峡谷だ。その中央、ぽつりと取り残された岩山の上に、蔦に覆われ朽ちかけた一つの城がそびえていた。
「城……? こんなところに?」
カイルが身を乗り出し、目を凝らす。
「地図にも、記録にも、そんなものは載っていません」
リタが帳面をめくる手を止め、絶句した。
「瘴気の気配、あの城の方角から強くなっています」
ルチアが、目を伏せたまま低く呟く。
絶壁に囲まれ、地上から足を踏み入れる術はどこにもない。もしセラフィナがいなければ、到達することすら叶わぬ孤絶の果て。
「……あそこが、目的地ってことか」
ダグの声にも、これまでにない硬さが滲んでいた。
「城門前に降りられそうです」
セラフィナは、城門前に降り立った。
「私は城の中まで入れません。どうか、お気をつけて」
「ああ。ここまで運んでくれて助かった」
カイルが礼を告げると、セラフィナは静かに頭を垂れた。
「戻られる際は、また声をかけてくださいませ」




