第54話 祈り ― “聖杯”を抱く王女と、癒しの掌 ―
第54話
祈り ― “聖杯”を抱く王女と、癒しの掌 ―
――旗艦・煌武館道場――
静寂だった。
巨大戦艦の内部とは思えないほど、そこには澄み切った空気が流れている。
磨き上げられた木床。
壁際に整然と並ぶ武具。
兵士たちの鍛錬で刻まれた無数の傷跡。
――煌武館。
それは《アラベスク・マウザー》内部に設けられた武術修練場。
戦う者たちが己を鍛え、心を磨き、覚悟を固める場所だった。
だが今、その中央に漂っているのは、鋭い殺気ではない。
柔らかく、静かな空気だった。
道場中央。
二人の女性が、静かに向かい合って座っている。
一人は――モディアス王国第一王女、ジュリア・ハーティス。
そしてもう一人は――トラインザスター王国王女にして、《煌武館》師範代。
イリア・ルークスター。
しばし沈黙が続いた後、ジュリアがぽつりと口を開いた。
「……アンジュに、あんな事をするなんて」
少し困ったように微笑む。
「昔は、本当の姉妹みたいに仲が良かったのに……」
するとイリアは、むすっと頬を膨らませた。
「だって、あの女が“約束”破ったから!」
「約束……ですか?」
「そう!」
イリアは腕を組み、ぷいっと顔を逸らす。
「それにお兄ぃもお兄ぃよ!」
「振った女に妙に優しいしさ!」
ジュリアは思わず苦笑した。
「……ふふ」
「アイザック様にもアンジュにも、色々思うところがあったのでしょう……」
だが次の瞬間、ジュリアはふと首を傾げる。
「それより、“試したい事”とは……?」
「あっ、そうだった!」
イリアは慌てたように姿勢を正した。
そして。
静かに瞳を閉じる。
両手を、そっとジュリアへ向けた。
その掌から――
淡い光が溢れ始める。
柔らかく。
温かく。
まるで春の日差しのような優しい光。
その光が、ゆっくりとジュリアを包み込んでいった。
「…………」
道場の空気が、静かに震える。
イリアの額には、うっすら汗が滲んでいた。
「……どう?」
集中したまま、小さく問い掛ける。
「何か変化、ある?」
ジュリアは、自分の胸へそっと手を当てた。
そこには、ずっと抱えてきた“痛み”がある。
――聖杯。
モディアス王国の秘宝。
幼き日から、その力は彼女の身体と共に在り続けた。
守護でもあり。
呪いでもある存在。
常に身体を蝕み、生命力を削り続けている。
だが――
「……不思議です」
ジュリアの目が、僅かに見開かれた。
「身体が……暖かい……」
ゆっくり息を吐く。
「ずっと胸にあった重さが……少しだけ軽くなった気がします……」
「ほんと!?」
イリアの表情がぱっと明るくなる。
「よかったぁ……!」
そのまま念導力を維持しながら、イリアは静かに語り始めた。
「前にね、古い書物を読んだ事あるの」
「それには念導力って、“戦うための力”だけじゃないって」
掌の光が、柔らかく揺れる。
「使い方次第では、“癒す力”にもなるって書いてあったの」
イリアは少し照れ臭そうに笑った。
「私の周りって、怪我人ばっかりだからさ」
「お兄ぃも、門下生も、兵士も、みーんな無茶するし」
苦笑交じりに肩をすくめる。
「だから、“治せる力”があったらいいなって思って」
「ずっと勉強してたんだ」
ジュリアは、イリアの顔を静かに見つめていた。
イリアの念導力は規格外だ。
兄であるアイザックすら凌ぐと言われる戦闘適性。
ネンドール搭乗時の出力も、常軌を逸している。
まさに“天才”。
だが。
彼女の瞳に宿るのは、覇気ではない。
どこまでも優しい、“誰かを守りたい”という想いだった。
「イリアは……戦うのが好きなのだと思っていました」
「えっ?」
イリアが目を丸くする。
「そんな訳ないじゃん!」
即答だった。
「戦場なんて嫌いだよ」
ジュリアは少し驚いたように瞬きをする。
イリアは、ゆっくり視線を落とした。
「誰かが傷付くのも嫌」
「痛そうなのも嫌」
「死ぬのなんて……もっと嫌」
一つ一つの言葉が、嘘なく胸から出ていた。
「武道をやってるのも、“戦いたい”からじゃない」
ぎゅっと拳を握る。
「大切な人を守りたいから」
その声音には、一切の迷いがなかった。
ジュリアは、小さく微笑む。
「……皆さん、凄いですね」
「ん?」
「ジンクス兄様も」
「アンジュも」
「アイザック様も」
「イリアも」
「そして、匠様も……」
静かに言葉を重ねる。
「皆、人々のために戦っています」
その声は、どこか羨望に満ちていた。
「私は……守られてばかりです」
そっと、自分の胸に触れる。
「この身体に、“聖杯”を抱えたまま……」
空気が、静かに変わった。
イリアの表情から笑みが消える。
「……知ってたんだね」
「はい」
ジュリアは小さく頷いた。
「ジャカランダが、この国へ進軍してくる理由も」
「私が狙いである事も……」
それでも。
ジュリアの瞳は逃げていなかった。
「ですが」
真っ直ぐ前を見る。
「私は、モディアス王国の王女です」
その声には、確かな覚悟が宿っていた。
「この国の民を守るためなら、私は――」
「ダメ!」
即座に、イリアが遮った。
「……え?」
ジュリアが目を瞬かせる。
イリアは真っ直ぐジュリアを見ていた。
優しく。
けれど強い眼差しで。
「“自分を犠牲にする覚悟”なんて持たなくていい」
その言葉に、ジュリアの瞳が揺れる。
「でも……」
「大丈夫だから」
イリアは、にっと笑った。
まるで太陽みたいな笑顔だった。
「そういう時は――私が守る!」
迷いのない声。
「絶対に!!」
その瞬間。
ジュリアの胸の奥で、張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。
一人で抱え込んでいた不安。
王女としての責務。
“聖杯”を宿す恐怖。
その全てが、少しだけ軽くなる。
「……ありがとう」
小さく呟く。
「イリア……」
イリアは照れ臭そうに笑った。
「えへへ」
「でもさ――」
少しだけ真剣な顔になる。
「一人で全部背負おうとしちゃダメだからね?」
その時だった。
道場の外から、微かに響く金属音。
整備されるネンドール。
慌ただしく駆け回る兵士たち。
迫り来る決戦。
匠。
アンジュ。
アイザック。
ココル。
ルイス。
誰もが、それぞれの想いを胸に戦いへ向かっている。
静かな風が、道場を吹き抜けた。
イリアの掌から放たれる光が、優しく揺れる。
まるで。
戦乱の時代の中で生まれた、小さな希望の灯火のように。
だが――
その頃。
遥か遠く。
深淵の闇の中では。
《黒帝》が、静かに進軍を始めていた。
“聖杯”を奪うために。
世界を書き換えるために。
確実に。
ゆっくりと。
戦争の足音が、近づいていた。
――つづく――




