第8話「仕事と家族、どちらも捨てない」
水曜日、午前9時。
オフィスのフロアは、いつも通りの朝を迎えていた。
キーボードの音。
電話のコール音。
誰かの「おはようございます」という声。
すべてが、変わらない日常。
——ただ一つを除いて。
⸻
真希は、自分のデスクに座っていた。
画面に映る資料。
今日の会議のための準備。
手は動いている。
頭も、ちゃんと働いている。
——でも。
視界の端に、どうしても入ってくる存在があった。
数列先の席。
悠真。
⸻
同じ職場。
同じ空間。
それなのに——
一言も、話していない。
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朝、出社したときも。
すれ違った。
視線は、一瞬だけ交わった。
でも、そのまま。
「おはよう」すら、言えなかった。
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——どうして、こんなに難しいんだろう。
心の中で、何度も繰り返す。
家では言葉が出ない。
職場でも出ない。
距離は物理的には近いのに、
気持ちは、どこか遠い。
⸻
「真希さん、この資料なんですが」
同僚の声で、我に返る。
「あ、はい。すみません、今見ます」
切り替える。
今は、仕事。
感情を持ち込む場所じゃない。
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資料を確認する。
数字、進捗、修正点。
ひとつずつ、正確に。
ミスは許されない。
責任のある立場。
それは、家庭とは別の“戦場”。
⸻
一方で——
悠真もまた、同じ空間で戦っていた。
「この件、今日中にまとめられる?」
上司の声。
「……はい、やります」
短く答える。
画面に向き直る。
コード、データ、処理。
頭はフル回転している。
でも——
ふとした瞬間に、思考が途切れる。
視線が、無意識に動く。
真希の方へ。
⸻
いる。
ちゃんと、そこに。
数メートル先。
手を伸ばせば届く距離。
でも。
その距離が、遠い。
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話しかければいい。
それだけなのに。
“仕事中だから”という理由が、
都合よく壁になっている。
——いや、違う。
本当は。
何を話せばいいのか、分からないだけだ。
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昼休み。
社員食堂。
人で賑わう中で、二人は——
別々の席に座っていた。
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真希は、同僚と一緒に。
会話をしている。
仕事の話。
ちょっとした雑談。
ちゃんと笑っている。
“いつもの自分”を、問題なくやっている。
⸻
悠真は、一人で。
スマホを見ながら、簡単に食事を済ませる。
周囲の声は、聞こえているようで聞こえていない。
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ふと、視線が上がる。
向こうの席。
真希がいる。
誰かと話して、笑っている。
——ああいう顔、最近見てないな。
そんなことを思ってしまう。
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目が合う。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
でも——
どちらも、何も言わない。
そのまま、視線が逸れる。
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午後。
会議室。
同じテーブルに座る二人。
数人のメンバーと一緒に、プロジェクトの進捗確認。
⸻
「では、この部分についてですが——」
真希が説明する。
的確で、無駄のない言葉。
仕事としては、完璧だった。
⸻
「その点なんですが」
悠真が口を開く。
補足する。
こちらも、冷静で正確。
⸻
仕事としての連携は、問題ない。
むしろ、スムーズすぎるくらい。
だからこそ。
“それ以上がないこと”が、際立つ。
⸻
会議が終わる。
「お疲れさまでした」
全員が席を立つ。
二人も、同じように立ち上がる。
すれ違う。
距離、ほんの数十センチ。
⸻
でも。
やっぱり、何も言えない。
⸻
夜。
仕事を終え、帰宅。
それぞれが、別の場所から。
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真希は、実家から。
悠真は、自宅から。
玄関のドアを開ける。
そこにある空気が、どこか懐かしく感じる。
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子どもたちは、すでに寝ていた。
真希は静かに荷物を置く。
久しぶりの“家”。
でも、少しだけよそよそしい。
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リビング。
悠真がいた。
ソファに座っている。
テレビはついていない。
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「……おかえり」
先に、悠真が言った。
「……ただいま」
少しだけ間を置いて、真希が返す。
それだけで。
少しだけ、空気が動いた。
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沈黙。
でも、前とは少し違う。
完全な“無”じゃない。
何かを言おうとしている空気が、ある。
⸻
「……今日」
同時に、口を開く。
「あ……」
重なる。
少しだけ、苦笑が漏れる。
ほんの一瞬だけ、昔の空気が戻る。
⸻
「……先いいよ」
悠真が言う。
「……いや、そっち」
「……じゃあ」
小さく息を吸う。
⸻
「……このままじゃ、ダメだと思ってる」
はっきりとした言葉。
逃げない声。
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真希は、黙って聞く。
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「仕事も、家のことも……どっちも中途半端になるの、嫌なんだ」
言葉を選びながら、続ける。
「でも……どっちか捨てるのも、違うと思う」
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真希の目が、少しだけ揺れる。
同じことを、考えていた。
⸻
「……私も」
静かに言う。
「どっちも、ちゃんとやりたい」
声は小さい。
でも、迷いはなかった。
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「無理かもしれないけど」
「うん」
「それでも……諦めたくない」
⸻
視線が合う。
今度は、逸らさない。
⸻
「……じゃあさ」
悠真が言う。
「ちゃんと話そう」
「……うん」
「どうすれば、回せるか」
「……うん」
⸻
完璧な答えなんて、まだない。
でも。
“向き合う”ことは、決めた。
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少しだけ、距離が縮まる。
ほんの少しだけ。
でも、それで十分だった。
⸻
仕事も、家族も。
どちらも簡単じゃない。
どちらも、重い。
⸻
それでも——
どちらも捨てないと決めた瞬間、
二人は、もう一度同じ方向を向き始めていた。
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