第7話「小さな家出」
火曜日、朝6時。
いつも通りのはずの時間。
——なのに、どこか違った。
キッチンに立つ真希の動きは、いつもより静かだった。
必要最低限の音だけで、朝の準備を進めている。
フライパンの音も、食器の触れ合う音も、どこか抑えられている。
まるで、誰かを起こさないようにしているみたいに。
でも実際は——
もう、誰かと“ぶつかる”余裕がなかっただけだった。
⸻
「……おはよ」
背後から、悠真の声。
「……おはよ」
短い返事。
それ以上、続かない。
昨日の夜から続く沈黙が、そのまま朝に持ち越されていた。
⸻
結翔が起きてきて、双子が泣き出して。
いつもと同じように、一日は始まる。
でも、空気は明らかに違っていた。
言葉が少ない。
目が合わない。
必要なことだけを伝えるやり取り。
それだけで、時間が過ぎていく。
⸻
7時40分。
玄関。
「いってきます」
結翔が先に出る。
「いってらっしゃい」
真希が送り出す。
その横で、悠真が双子の準備をしている。
その光景も、いつもと同じ。
——のはずなのに。
⸻
「……今日さ」
真希が、ぽつりと口を開いた。
「うん?」
「……ちょっと、実家帰ろうと思ってる」
一瞬、時間が止まったような気がした。
「……え?」
悠真が顔を上げる。
聞き間違いじゃないかと、思った。
「……今日、仕事終わったら。そのまま」
淡々とした声。
感情を乗せないようにしているのが、逆に分かる。
「……どういうこと?」
問いかける。
責めるつもりはなかった。
でも、戸惑いは隠せなかった。
「……ちょっとだけ、離れたい」
その言葉が、静かに落ちる。
強い口調じゃない。
でも、はっきりしていた。
⸻
「……何かあった?」
分かっている。
何も“特別なこと”があったわけじゃないことくらい。
でも、聞かずにはいられなかった。
「……何かっていうか」
真希は少しだけ視線を落とす。
「……このままだと、なんか……ダメな気がして」
言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「一緒にいるのに、ちゃんと話せてなくて……」
「……」
「それが、ずっと続いてるのが……ちょっとしんどい」
正直な言葉だった。
責めるでもなく、逃げるでもなく。
ただ、“今の状態”をそのまま言っているだけ。
⸻
悠真は、何も言えなかった。
止めるべきか。
それとも、送り出すべきか。
答えが出ない。
でも——
無理に引き止めても、意味がないことだけは分かっていた。
「……どれくらい?」
やっと、それだけ聞く。
「……2、3日。様子見て」
「……そっか」
短いやり取り。
それだけで、決まってしまう。
⸻
「子どもたちは……?」
「双子は連れてく。結翔は……学校あるし、こっちでいい?」
少しだけ、迷いながら。
「……分かった」
頷く。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
でも、それを言葉にできなかった。
⸻
その日の夜。
真希は、静かに荷物をまとめた。
必要最低限のものだけ。
大げさな準備はしない。
あくまで、“一時的”なものだから。
⸻
「ママ、おでかけ?」
結翔が聞く。
「うん、ちょっとだけね」
「ぼくもいく?」
少し期待した目。
でも、真希はゆっくりと首を横に振る。
「今回はね、おうちでパパと一緒にいようか」
「……そっか」
少しだけ寂しそうな顔。
それを見て、胸が痛む。
でも——
今は、無理に一緒にいるよりも、必要な距離だった。
⸻
「いってきます」
玄関で、そう言う。
悠真は、ドアの近くに立っていた。
「……いってらっしゃい」
その一言だけ。
送り出す。
引き止めない。
それが正しいのかどうか、分からないまま。
⸻
ドアが閉まる。
カチ、と小さな音。
それだけで、家の空気が変わった。
⸻
——静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
いつもは当たり前にあった気配が、ひとつ消えただけで。
こんなにも違うのかと思う。
⸻
「……パパ?」
結翔が、下から見上げる。
「ん?」
「ママ、すぐかえる?」
その問いに、少しだけ詰まる。
「……うん、すぐ帰ってくるよ」
そう答える。
自分に言い聞かせるように。
⸻
夜。
結翔を寝かしつけたあと。
リビングに一人。
ソファに座る。
いつもの場所。
でも、隣には誰もいない。
⸻
ふと、思い出す。
真希がいたときの、何気ないやり取り。
「お疲れさま」とか、
「それ取って」とか、
そんな、どうでもいい会話。
それが、どれだけあったか。
そして、それがどれだけ支えになっていたか。
⸻
「……あれが、普通だったのか」
ぽつりと呟く。
“普通”だと思っていたもの。
でも本当は、それは簡単に保たれていたわけじゃない。
真希がいて、回してくれていたからこそ、成り立っていた。
⸻
キッチンを見る。
洗い物が、そのまま残っている。
いつもなら、もう終わっている時間。
それに気づいて、立ち上がる。
蛇口をひねる。
水の音が、やけに大きく響く。
⸻
「……こんなに、やってたんだな……」
ひとつひとつの作業が、妙に重い。
時間も、手間も、思っていた以上にかかる。
それを、毎日。
当たり前のようにやっていた人が、いない。
⸻
リビングに戻る。
静かすぎる空間。
スマホを手に取る。
メッセージを開く。
——“着いたよ”
真希からの一言。
それだけ。
でも、それを見た瞬間。
少しだけ、胸が締め付けられた。
⸻
打ちかける。
「大丈夫?」と。
でも、指が止まる。
それが“正しい言葉”なのか分からない。
消す。
もう一度打つ。
「無理しないで」
……違う気がする。
また消す。
⸻
結局。
送れたのは、たった一言だった。
——“気をつけて”
⸻
その短さが、今の距離をそのまま表している気がした。
⸻
ソファに座り直す。
天井を見上げる。
何もない。
でも、確かに“足りない”。
⸻
離れて初めて分かる。
どれだけ支えられていたか。
どれだけ“そこにいること”が当たり前じゃなかったか。
⸻
小さな家出。
でもそれは、
今まで見えなかったものを、はっきりと映し出していた。
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