第6話「“ありがとう”が言えない夜」
月曜日、夜21時。
リビングの時計の針が、やけに大きな音を立てていた。
カチ、カチ、と。
いつもと同じはずなのに、妙に耳につく。
その理由は、はっきりしていた。
——静かすぎる。
子どもたちは、すでに寝ている。
双子は少し前までぐずっていたが、ようやく落ち着いた。
結翔も、今日は疲れていたのか、珍しくすぐに眠りについた。
だからこそ、余計に。
この静けさが、重かった。
⸻
キッチン。
真希は、無言で食器を洗っていた。
水の音だけが響く。
手は動いている。
でも、頭はどこかぼんやりしていた。
——疲れた。
その一言で済むはずなのに。
その“疲れた”すら、口に出す余裕がなかった。
⸻
リビング。
悠真はソファに座り、スマホを見ていた。
画面をスクロールする指は動いている。
でも、内容はほとんど頭に入っていない。
視線だけが、何かを追っているだけ。
——話しかけるべきか。
一瞬、そう思う。
でも、やめる。
何を話せばいいのか分からない。
“今日どうだった?”
そんな当たり前の一言さえ、今は重く感じる。
⸻
カチャ、と。
真希が食器を置く音。
それだけで、互いの存在を確認する。
でも、それ以上は何もない。
⸻
「……終わった」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもない。
でも、悠真には聞こえていた。
「……そっか」
短い返事。
それで、会話は終わる。
⸻
ほんの少し前までなら。
「ありがとう」とか、
「お疲れさま」とか、
自然に出ていた言葉。
でも今は——
喉の奥で止まってしまう。
出そうと思えば、出せる。
でも、その“ひと手間”が、やけに遠い。
⸻
真希は、手を拭きながらリビングに来た。
悠真の隣に座る。
でも、少しだけ距離を空けて。
触れない距離。
遠くはないけど、近くもない。
その曖昧な距離が、今の二人そのものだった。
⸻
沈黙。
テレビもつけていない。
何も音がない。
ただ、時間だけが流れていく。
⸻
「……今日さ」
真希が口を開く。
でも、続かない。
「……うん?」
悠真が促す。
「……いや、なんでもない」
結局、言葉は引っ込む。
話したいことがあったはずなのに、
どう言えばいいのか分からなくなる。
そのまま、また沈黙。
⸻
悠真も、同じだった。
言いたいことは、ある。
でも、それを言葉にするエネルギーが足りない。
余計な一言で、空気が悪くなるのも怖い。
だから、何も言わない。
⸻
——気づいている。
二人とも、分かっている。
このままだと、少しずつ離れていくこと。
でも。
止め方が、分からない。
⸻
しばらくして、真希が立ち上がった。
「……先、お風呂入るね」
「……うん」
それだけ。
それ以上、何もない。
⸻
バスルームのドアが閉まる音。
水の流れる音。
それを聞きながら、悠真は天井を見上げた。
「……なんだこれ……」
小さく呟く。
喧嘩しているわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
でも、明らかに何かが違う。
その“何か”が分からないのが、一番厄介だった。
⸻
風呂から上がった真希は、タオルで髪を拭きながら戻ってきた。
「……お先」
「……うん」
また、それだけ。
⸻
目が合う。
でも、すぐに逸らす。
その一瞬が、妙に長く感じる。
⸻
本当は。
今日もありがとう、と言いたかった。
今日もお疲れさま、と伝えたかった。
でも——
そのたった一言が、どうしても出てこない。
⸻
真希は、ソファに座った。
少しだけ迷ってから、悠真の隣に。
さっきより、ほんの少しだけ近く。
でも、まだ触れない。
⸻
沈黙の中で、時間が過ぎる。
何も変わらない。
でも、何も変えられない。
⸻
——このままでいいわけじゃない。
分かっている。
でも、動けない。
⸻
そのとき。
ほんの少しだけ。
真希の手が、動いた。
隣にある悠真の手に、触れるか触れないかの距離まで。
止まる。
あと数センチ。
それだけで届くのに。
動かない。
⸻
悠真も、それに気づいていた。
でも、自分からは動けなかった。
触れたら、何かが変わる。
でも、その“何か”が怖かった。
⸻
結局。
そのまま、時間だけが過ぎていく。
⸻
夜は、深くなる。
言葉のないまま。
触れ合うこともないまま。
⸻
“ありがとう”が言えない夜は、
思っている以上に、静かで。
思っている以上に、冷たかった。
⸻
そして——
その冷たさに気づいていることが、
何よりも、苦しかった。
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