第4話「結翔が描いた“5人の家族”」
昼休み、会社のデスク。
真希は、ようやく一息ついていた。
午前中の会議が立て続けに終わり、
ようやく椅子に深く腰を下ろす時間ができた。
「……はぁ……」
カップのコーヒーに手を伸ばす。
少し冷めている。
それでも、口に含むと、わずかに気持ちが落ち着いた。
スマホが震える。
画面を見ると、学校からの連絡アプリ。
「……あれ、結翔?」
通知を開くと、担任からの短いメッセージ。
——本日、図工の授業で描いた絵を持ち帰っています。ぜひご家庭で見てあげてください。
それだけの、よくある連絡。
「……絵、か」
自然と、口元が緩む。
最近、結翔はよく絵を描くようになった。
家族の絵、好きなもの、思いついたもの。
どれも少し歪で、でも一生懸命で。
その一枚一枚が、愛おしかった。
「……今日はどんなのかな」
そんなことを考えながら、午後の仕事に戻る。
そのときは、まだ知らなかった。
その“1枚”が、自分の心をこんなにも揺らすなんて。
⸻
夕方。
保育園と学童を回り、帰宅したのは18時過ぎ。
「ただいまー!」
結翔の声が、玄関に響く。
「おかえり!」
真希はキッチンから顔を出す。
「ママ、これ!」
ランドセルを下ろすよりも先に、結翔は一枚の紙を差し出した。
「今日ね、かぞくのえ、かいた!」
「え、ほんと?見せて!」
手を拭いて、受け取る。
少ししわの寄った画用紙。
クレヨンの匂い。
そこには——
5人の家族が描かれていた。
真ん中に、大きな人物。
その両隣に、少し小さい人物が並び、
さらにその横に、小さな二人。
手をつないでいる。
にこにこと笑っている。
「……すごい……」
思わず、声が漏れた。
「これ、みんな?」
「うん!パパとママと、ぼくと、あと——」
指をさしながら、嬉しそうに説明する。
その姿が、たまらなく愛おしい。
「ちゃんと5人いるね……」
「でしょ!」
誇らしげな顔。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
——ああ、ちゃんと“家族”として見えてるんだ。
忙しくて、余裕がなくて、
ちゃんと向き合えているのか不安だった日々。
それでも、結翔の中では、ちゃんと“5人”が繋がっている。
それが、何より嬉しかった。
——でも。
ふと、違和感に気づく。
「……あれ?」
真希の視線が、一箇所で止まる。
もう一度、よく見る。
5人いる。
手もつないでいる。
でも——
「……結翔、この人……」
指先で、そっと一人を示す。
「どうしたの?」
「……顔、描いてないの?」
その人物だけ。
顔が、なかった。
目も、口も、何も。
ただ、輪郭だけが描かれている。
結翔は、その指を見て、少しだけ首をかしげた。
「……あ、それね」
軽い調子。
でも、その一言に、真希の心がわずかに強張る。
「なんで描かなかったの?」
できるだけ自然に聞く。
責めるようにならないように。
問い詰めないように。
ただ、確認するように。
結翔は少しだけ考えてから——
「……わかんなかった」
「……え?」
「だって、そのときいなかったから」
あまりにも、あっさりとした答え。
それが、逆に重かった。
「……いなかったって……?」
「うん。さいきん、あんまりいないじゃん」
無邪気な言葉。
悪意なんて、ひとつもない。
ただ、見たまま、感じたままを言っているだけ。
でも——
その一言が、真希の胸に深く刺さった。
——“あんまりいない”。
思い当たる節が、ありすぎた。
朝はバタバタしていて、
ゆっくり話す時間もない。
夜は疲れ切って、
寝かしつけのあと、自分が先に寝てしまうこともある。
休日も、どこか余裕がなくて。
“ちゃんと一緒にいる時間”が、どれだけあっただろう。
「……そっか……」
やっとの思いで、それだけ返す。
笑顔は、作れていたか分からない。
⸻
その夜。
子どもたちが寝たあと。
真希は、テーブルにその絵を広げていた。
静かなリビング。
時計の音だけが響く。
改めて見る。
5人の家族。
ちゃんと、手をつないでいる。
ちゃんと、並んでいる。
でも——
一人だけ、顔がない。
「……これ、見た?」
後ろから、悠真の声。
振り返らずに、頷く。
「うん……さっき、結翔から」
悠真も隣に座る。
しばらく、何も言わずに見つめる。
「……これ、誰だと思う?」
真希が小さく聞く。
悠真は少しだけ考えてから、
「……多分、真希じゃないか」
静かに答えた。
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
「……やっぱり」
「結翔、なんて言ってた?」
「……“いなかったから分かんなかった”って」
短く伝える。
それだけで、十分だった。
悠真も、何も言わなくなる。
沈黙が落ちる。
でも、その沈黙は、重すぎた。
「……私さ」
真希が、ぽつりと口を開く。
「ちゃんとやってるつもりだったんだよね」
視線は、絵のまま。
「仕事も、家のことも、子どもたちのことも……全部」
声が少し震える。
「でも……こうやって見ると……全然できてないのかも」
指先で、顔のない人物をなぞる。
「“いない人”になってる」
その言葉に、空気が揺れる。
悠真はすぐには答えなかった。
何か言えば、軽くなってしまいそうで。
でも、何も言わなければ、支えにならない気がして。
その間で、迷っているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……いないわけじゃないだろ」
静かな声。
「ただ、“見えなかった”だけだと思う」
「……同じじゃない?」
「違う」
少しだけ、はっきりとした声。
「真希はちゃんといる。ただ、今は余裕がなくて……見せられてないだけ」
言葉を選びながら、続ける。
「それって、ダメなことじゃないだろ」
真希は何も答えなかった。
でも、その言葉はちゃんと届いていた。
すぐに救われるわけじゃない。
でも、完全に否定されなかったことが、少しだけ楽にした。
⸻
テーブルの上の一枚の絵。
そこに描かれた、5人の家族。
不完全な一人。
でも——
それは、“いない証明”じゃない。
まだ、埋められる余白だった。
⸻
真希は、そっとクレヨンを手に取る。
少しだけ迷ってから——
顔の輪郭の中に、ゆっくりと目を描いた。
口も、描いた。
少し不格好な、でも確かな“顔”。
それを見て、ほんの少しだけ、息を吐く。
「……明日、ちゃんと話そう」
誰に向けた言葉かは、はっきりしている。
悠真は、小さく頷いた。
「うん」
⸻
“普通”の中で、見えなくなるものがある。
でも——
気づけたなら、まだ間に合う。
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