第3話「泣いたのは、誰のせいでもない」
夜22時47分。
ようやく、家の中が静かになった。
リビングの照明は落とされ、キッチンの小さな灯りだけが残っている。
洗い終えた食器が、乾燥機の中でかすかに音を立てていた。
——今日も終わった。
そう思った瞬間、真希の体から、力が抜けた。
ソファに座る。
背もたれに体を預けると、そのまま沈み込んでいくような感覚。
「……はぁ……」
長く、深いため息。
それは、意識して吐いたものじゃなかった。
気づいたら、勝手に出ていた。
手は、まだ少し震えている。
——何に、こんなに疲れてるんだろう。
自分でも分からない。
特別なことがあったわけじゃない。
大きな失敗をしたわけでもない。
ただ——
朝からずっと、止まらなかった。
考えて、動いて、気を遣って。
それを一日中、繰り返して。
気づいたら、夜になっていただけ。
それだけなのに。
どうしてこんなに、苦しいんだろう。
⸻
「……真希?」
背後から、悠真の声がした。
振り向かなくても分かる。
お風呂を終えて、タオルで髪を拭きながら出てきたところだろう。
「……起きてたんだ」
「うん……ちょっとだけ」
声が、思ったよりもかすれていた。
自分で少し驚く。
悠真はそのまま、ソファの横に立った。
「大丈夫?」
「……うん」
反射的に答える。
でも、その“うん”は、あまりにも軽かった。
自分でも分かるくらい、空っぽだった。
少しの沈黙。
その間に、何か言わなきゃと思う。
でも、言葉が出てこない。
何をどう話せばいいのか分からない。
——そのときだった。
ぽたり、と。
何かが、落ちた。
「……え」
自分の頬に触れる。
濡れている。
もう一度、ぽたり。
今度ははっきり分かった。
涙だった。
「……あれ……」
驚くほど、自然に流れていた。
悲しいわけじゃない。
悔しいわけでもない。
なのに、止まらない。
「……なんで……」
小さく呟く。
その声も、震えていた。
⸻
悠真は、何も言わなかった。
ただ、そっと隣に座る。
少しだけ距離を空けて。
触れるわけでもなく、離れるわけでもない場所に。
それが、今の最適な距離だと分かっているみたいに。
真希は顔を伏せたまま、涙を拭こうともしなかった。
拭いたところで、どうせまた溢れてくる。
そんな気がした。
「……ごめん」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「え?」
「なんか……意味もなく泣いてて……」
「……意味、ないことないだろ」
静かな声。
責めるでも、慰めるでもない。
ただ、否定しない声。
それだけで、少しだけ救われる。
「……でも、理由とか……分かんないし……」
「分かんなくてもいいんじゃない?」
その言葉に、真希は少しだけ顔を上げた。
涙でぼやけた視界の中で、悠真の横顔が見える。
「……疲れてるときって、そういうもんだし」
ゆっくりとした口調。
無理に明るくするわけでもなく、
変に深刻にするわけでもない。
ただ、そこにある事実を言うように。
「……っ」
その一言で、何かがほどけた。
我慢していたものが、一気に崩れる。
「……つかれた……」
ぽろっと、本音が零れる。
「うん」
「ちゃんとやろうとしてるのに……できなくて……」
「うん」
「全部中途半端で……なんか……ダメで……」
言葉が途切れ途切れになる。
それでも、悠真は遮らない。
ただ、聞いている。
それだけ。
それなのに。
それが、何よりもありがたかった。
「……ごめん……」
また、謝る。
何に対してなのか、自分でも分からない。
でも、口から出てしまう。
その瞬間——
「謝らなくていい」
少しだけ強い声。
初めて、はっきりとした否定。
「え……」
「真希、何も悪くないだろ」
まっすぐな言葉。
「俺だって同じだし。今日、全然うまく回せなかったし」
小さく苦笑する。
「だから……これ、誰のせいでもない」
その言葉が、静かに胸に落ちてくる。
——誰のせいでもない。
ずっと、どこかで探していた“原因”。
でも、本当はそんなもの、なかったのかもしれない。
「……そっか……」
力が抜ける。
肩の力も、心の力も。
⸻
しばらく、二人はそのまま座っていた。
会話はない。
でも、不思議と気まずくはなかった。
むしろ、心地よかった。
同じ空間で、同じ時間を過ごしている。
それだけで、十分だった。
やがて、真希の涙も落ち着いていく。
呼吸が、少しずつ整っていく。
「……ありがと」
小さく言う。
「うん」
それだけの返事。
でも、その“うん”は、ちゃんと届いていた。
⸻
その夜。
特別なことは、何もなかった。
励ましの言葉も、解決策もない。
ただ、隣に座っていただけ。
それでも——
それがあったから、崩れずにいられた。
⸻
泣いた理由は、分からない。
でもきっと、
泣いたこと自体に、意味があった。
そして——
その涙を、誰のせいにもされなかったことが、
何よりも救いだった。
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