第2話「“普通”が一番難しい」
朝7時02分。
「——やばい、もうこんな時間!?」
真希の声が、家中に響いた。
いつもなら余裕を持って動いているはずの時間。
だが今日は、すでに“遅れ”が始まっていた。
原因は、ほんの些細なことだった。
双子の一人が夜中に何度も起きたこと。
結翔が珍しく朝ぐずったこと。
そして——ほんの5分、アラームに気づかなかったこと。
たったそれだけ。
でも、その“たったそれだけ”が、すべてを狂わせる。
「悠真、保育園の準備終わってる!?」
「ごめん、まだオムツ替え終わってない!」
「え、嘘でしょ!?もう出ないと間に合わないよ!」
「わかってるけど——ちょっと待って!」
声が強くなる。
お互い、余裕がないのが分かっているからこそ、言葉が鋭くなる。
キッチンではトーストが焼きすぎで焦げ始めていた。
「……ああ、もう……!」
真希はそれを取り出しながら、苛立ちを抑えきれずに小さく舌打ちした。
⸻
7時28分。
ようやく全員が玄関に揃う。
「結翔、靴ちゃんと履いて!」
「もう履いてる!」
「左右逆!」
「えっ!?」
バタバタと履き直す音。
その横で、双子の一人がまた泣き出した。
「……タイミング……」
真希は天井を仰いだ。
誰も悪くない。
でも、全部が噛み合わない。
「真希、先に結翔連れて行って。双子は俺があとで保育園送る」
「……いいの?」
「うん。その方が早い」
一瞬だけ迷ったあと、真希は頷いた。
「じゃあお願い……!」
「任せて」
短い言葉。
だけど、その裏には“綱渡り”のような連携がある。
⸻
8時15分。
会社に着いたときには、すでに息が上がっていた。
「おはようございます……」
デスクに座ると同時に、深く息を吐く。
まだ始業前なのに、もう一日分の体力を使った気がした。
パソコンを立ち上げる。
メールが溜まっている。
スケジュールもぎっしりだ。
「……普通に働くだけなのに……」
ぽつりと呟く。
“普通”。
それは、かつての自分なら何の苦もなくこなしていたはずのもの。
でも今は違う。
仕事の前に“家族”があり、
仕事の後にも“家族”がある。
その間に挟まれる仕事は、もはや“単独のもの”じゃない。
すべてが繋がっていて、
ひとつ崩れれば、全部が揺れる。
⸻
その頃——
悠真もまた、ぎりぎりの状態だった。
「すみません、少し遅れます……」
在宅会議の開始5分前。
まだ双子の一人がぐずっている。
「今だけだから……ちょっとだけ……」
抱きながらパソコンに向かう。
カメラはオフ。
マイクもミュート。
それでも、泣き声が気になって仕方ない。
画面の向こうでは、仕事が進んでいく。
でも、自分の現実はそこじゃない。
「……両立って、こんなに難しかったっけ……」
独り言のように呟いた。
⸻
夕方。
保育園の迎えの時間。
「すみません、少し遅れます……!」
真希はスマホを握りながら、駅のホームを走っていた。
電車が遅延している。
ほんの数分。
でもその数分が、迎えの時間を超えてしまう。
通知音が鳴る。
——保育園から。
「……っ」
胸が締め付けられる。
焦りと罪悪感が混ざり合う。
“ちゃんとやらなきゃいけないのに”
“できていない”
その現実が、重くのしかかる。
⸻
夜20時過ぎ。
ようやく全員が揃った。
だが、空気はどこか重い。
「……ごめん、迎え遅れて」
真希が小さく言う。
「いや、俺も今日はバタバタしてたし……」
悠真はそう返すが、その声にも疲れが滲んでいる。
沈黙。
食卓に並ぶのは簡単な夕食。
会話はほとんどない。
結翔の話も、どこか上の空で聞いてしまう。
——余裕がない。
それが、はっきりと分かる。
⸻
子どもたちを寝かしつけた後。
リビングには、二人だけが残った。
時計の音だけが響く。
「……今日さ」
真希が口を開く。
「うん?」
「なんか……全部うまくいかなかった」
「……そうだな」
「ちゃんとやろうとしてるのに……なんでこんなにズレるんだろ」
声が少し震える。
責めているわけじゃない。
でも、どこかで“誰かのせいにしたい気持ち”もある。
その矛先が、ふと——悠真に向きかける。
「……悠真がさ、朝もう少し早く——」
言いかけて、止まる。
その瞬間、自分でも気づいた。
——違う。
これは、誰か一人の問題じゃない。
それでも、言葉は一度出かけたら戻らない。
空気が、ピリッと張り詰める。
悠真も、何か言いかけた。
でも——やめた。
代わりに、小さく息を吐く。
「……忙しいのは、仕方ないよ」
「……え?」
「今の俺たち、そもそも余裕ないし」
責めるでもなく、諦めるでもない声。
「“普通にやる”ことが、一番難しい時期なんだと思う」
真希は黙って聞いていた。
「だからさ……完璧じゃなくていいんじゃない?」
その言葉に、少しだけ力が抜ける。
「……そう、なのかな」
「うん。むしろ今までが頑張りすぎ」
少しだけ笑う悠真。
その顔を見て、真希の胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりとほどけていく。
「……ありがと」
ぽつりと呟く。
その距離が、少しだけ縮まる。
⸻
静かな夜。
照明も落とされたリビング。
ふと、目が合う。
言葉は、いらなかった。
どちらからともなく、近づく。
そっと触れる唇。
最初は、確かめるように。
そして——少しずつ、深くなる。
疲れも、すれ違いも、全部抱えたまま。
それでも離れないように。
確かめるように。
もう一度、繋がるように。
濃く、静かなキス。
息が重なる。
指先が触れる。
それだけで、十分だった。
⸻
“普通”は、簡単じゃない。
でも——
それでも一緒にいることを選び続ける限り、
この日常は、きっと壊れない。
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