第1話「5人の朝は、もう戦場」
朝5時半。
まだ外は薄暗く、カーテン越しの光も頼りない時間帯。
——ジリリリリ……。
目覚ましの音が、静かな部屋を無遠慮に引き裂いた。
「……ん……」
最初に反応したのは真希だった。
ゆっくりと目を開ける。頭が重い。昨日の疲れが、まだ体の奥に残っている。
だが、止めなければならない。
彼女は腕を伸ばし、スマホのアラームを止めた。
静寂が戻る——はずだった。
「……ふぇ……」
次の瞬間、小さな声がそれを破る。
「う、そでしょ……」
真希は天井を見たまま、かすれた声で呟いた。
その声は、すぐに泣き声へと変わった。
「ふぇぇぇぇぇぇん!!」
双子の片方が起きたのだ。
——ああ、始まった。
真希はゆっくりと体を起こした。
隣では悠真がまだ眠っている。いや、“眠っていたふり”かもしれない。
「悠真……起きて……」
「……ん……今……起きる……」
そう言いながらも、布団から出る気配はない。
「もう泣いてるから……お願い……」
「……わかった……」
それでも体は動かない。
結局、真希が先に立ち上がる。
足元に広がる冷たい床の感触が、容赦なく現実を突きつける。
ベビーベッドに近づくと、双子のひとりが顔を真っ赤にして泣いていた。
「はいはい、ごめんね、ごめんね……」
抱き上げると、すぐに泣き声が少しだけ弱まる。
小さな体の温もりが腕に伝わる。
その瞬間、ほんの少しだけ、心がほどけた。
——でも。
「……っ、もう一人も……」
もう一人の双子も、遅れて泣き始めた。
「うそでしょ……タイミング……」
思わず苦笑が漏れる。
片手にひとり、もう片方をどうするか。
考える暇もなく、背後から足音がした。
「……ごめん、遅れた」
ようやく悠真が起きてきた。
「片方お願い……!」
「うん」
悠真がもう一人を抱き上げる。
泣き声が二重奏のように響いていた部屋は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
だが、それはほんの“序章”にすぎない。
⸻
6時10分。
キッチンでは、すでに戦いが始まっていた。
「トースト焦げる——!」
「牛乳どこ!?」
「冷蔵庫の右!」
「右ってどっちの右!?」
「もういい、私やる!」
真希は片手でフライパンを持ちながら、もう片方で双子の一人をあやしていた。
肩に乗せた小さな頭が、時折ぐずるように動く。
「……無理があるでしょ、これ……」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、現実が重すぎて、言葉にせずにはいられなかった。
そのとき——
「ママぁ〜……」
リビングの方から、眠そうな声が聞こえた。
「結翔……起きたの?」
小さな足音が近づいてくる。
寝ぐせだらけの髪。まだ半分閉じたままの目。
「……ねむい……」
「そりゃそうだよね……」
真希は苦笑しながらも、できるだけ優しく声をかける。
「顔洗ってきて?ごはんできるから」
「……やだ……」
「やだじゃないの」
「ママがいい……」
そう言って、結翔は真希の足にしがみついた。
その瞬間——
ジュッ。
「あっ——!」
フライパンの中の卵が、少し焦げた。
「……はぁ……」
思わず、深く息を吐く。
余裕なんて、どこにもない。
時間も、手も、心も。
すべてが足りない。
⸻
6時40分。
ようやく朝食が並ぶ。
だが、座って食べる余裕はない。
「結翔、早く食べて!遅れるよ!」
「……これきらい……」
「昨日は食べたでしょ!」
「きょうはきらい!」
「そんな日ある!?」
会話というより、応酬。
その横で、双子の一人がスプーンを床に落とした。
「はい、もう一回ね……」
拾って、拭いて、渡して。
——その間に、もう一人が泣き出す。
「ちょっと待って、今——」
「真希、それ俺やるから」
悠真が声をかける。
「いいの?」
「うん、任せて」
その一言に、ほんの少しだけ救われる。
「……ありがとう」
自然と口から出た言葉。
だけどその直後、真希は少し驚いた。
——ちゃんと“ありがとう”言えた。
余裕がないと、こういう言葉すら消えていく。
だからこそ、その一言が、妙に大きく感じた。
⸻
7時15分。
「いってきます!」
結翔がランドセルを背負い、玄関を飛び出す。
「いってらっしゃい!」
真希と悠真の声が重なる。
ドアが閉まると、家の中は一瞬だけ静かになった。
——本当に、一瞬だけ。
「……ふぇぇぇぇん!!」
「はいはい、今行くよ……」
再び始まる泣き声。
真希はその場に立ったまま、少しだけ目を閉じた。
ほんの数秒。
それだけでいい。
呼吸を整える時間が欲しかった。
「……大丈夫?」
後ろから、悠真の声。
「うん……」
そう答えたものの、本当は“大丈夫”なんかじゃない。
でも、言えない。
言ったら、崩れてしまいそうだから。
代わりに、彼女は小さく笑った。
「……今日も、頑張ろうか」
「……そうだな」
短いやり取り。
それだけで、少しだけ前を向ける。
⸻
これは、特別な日じゃない。
誰かに褒められるような出来事もない。
ただの、ありふれた朝。
だけど——
5人で迎えるこの日常は、確かに“戦場”だった。
それでも。
逃げることはできないし、逃げたくもない。
この騒がしくて、不器用で、余裕のない毎日こそが——
今の自分たちの“家族”だから。
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