第7話「その一歩を、間違えないために」
朝。
いつもと変わらない出勤、いつもと変わらない空気。
――ただ一つ違うのは、“今日が避難訓練の日”だということ。
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午前10時。
社内のスピーカーから、ゆっくりとチャイム音が鳴る。
“ピンポンパンポン――”
一瞬、社内の空気が止まる。
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そして、アナウンスが流れ始めた。
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「――訓練、訓練。ただいま、館内において地震が発生した想定で、避難訓練を実施します。」
「全社員の皆様は、落ち着いて行動し、最寄りの非常口より速やかに避難してください。」
「避難の際は、“お・は・し”を守ってください。」
「――押さない。」
「――走らない。」
「――喋らない。」
「周囲の安全を確認しながら、指示に従い、階段を使用して屋外の避難場所まで移動してください。」
「エレベーターは使用しないでください。」
「繰り返します。これは訓練です。落ち着いて行動してください。」
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アナウンスが終わる。
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一瞬の静寂。
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そして――
一斉に動き出す社員たち。
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椅子から立ち上がる音。
資料を置く音。
足音。
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だが、誰も走らない。
誰も押さない。
誰も無駄に喋らない。
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“おはし”が、きちんと守られていた。
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悠真もその流れに乗る。
心の中で、自然と確認する。
(押さない、走らない、喋らない)
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階段へ向かう。
すでに人の列ができている。
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ゆっくりと、一定のペースで降りていく。
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数階分降りたところで――
ふと、横に気配を感じる。
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視線を向ける。
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真希だった。
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一瞬だけ、目が合う。
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言葉はない。
だが、その目はしっかりと伝えている。
(大丈夫)
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悠真も、ほんのわずかに頷く。
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そのまま、並んで階段を降りる。
一定の距離。
他人としての距離。
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だが次の瞬間。
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手が、触れる。
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ほんの一瞬の接触。
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そして――
そのまま、指が絡む。
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恋人繋ぎ。
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(※本来は訓練中にやることではない。完全にルール違反。)
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だが、それでも。
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誰にも気づかれないように。
ほんのわずかな角度。
ほんの短い時間。
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ぎゅっと、軽く握る。
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(ちゃんといる)
(ここにいる)
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それを確かめるような、触れ方だった。
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すぐに離れる。
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何もなかったように。
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再び“他人の距離”に戻る。
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階段は続く。
一段、一段。
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外へ。
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ビルの外に出ると、すでに多くの社員が集まっていた。
部署ごとに整列。
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「営業部、こちらへ」
誘導の声。
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真希はそのまま営業部の列へ。
悠真は企画部の列へ。
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それぞれの場所。
それぞれの立場。
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「点呼を取ります」
名前が呼ばれていく。
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「春日井」
「はい」
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「高槻」
「はい」
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全員の無事を確認。
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「以上で、避難訓練を終了します」
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拍手はない。
歓声もない。
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だが、どこか“やりきった空気”が流れていた。
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再び社内へ戻る。
日常が再開する。
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デスクに戻りながら、悠真は思う。
(もし本番だったら)
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さっきの行動は、どうだったのか。
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正解ではない。
だが――
間違いとも言い切れない。
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“守りたい”と思う気持ち。
それ自体は、本物だった。
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夕方。
仕事を終え、帰宅。
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「ただいま」
「おかえりー!」
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三人が一斉に出迎える。
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「今日ね、学校で避難訓練あったよ!」
未来が言う。
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「ほんと?」
真希が少し驚く。
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「うん!おはしってやつ!」
莉嘉も続く。
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悠真と真希は顔を見合わせる。
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「じゃあ、もう一回復習しよっか」
真希が優しく言う。
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リビングに座る。
スマホで動画を見せる。
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地震の時の行動。
避難の流れ。
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「これね、大事なことだからちゃんと覚えてね」
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「押さない、走らない、喋らない」
結翔が復唱する。
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「そう、それ」
悠真が頷く。
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「あとね、ちゃんと周りを見ること」
真希が付け加える。
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「パパとママも今日やったよ」
悠真が言う。
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「え、ほんと?」
三人が興味津々になる。
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「ちゃんとできた?」
未来が聞く。
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悠真は少しだけ笑う。
「まあな」
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真希も小さく笑う。
「ちゃんとできたよ」
(※一部例外あり)
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だが、それは言わない。
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大事なのは、“守ること”。
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そして、“無事でいること”。
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子どもたちは何度も「おはし」を口にする。
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その様子を見ながら、
真希は静かに思う。
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(こういうの、大事だな)
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悠真も同じことを考えていた。
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日常の中の、ほんの少しの備え。
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それが、
いつか大きな差になるかもしれない。
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そしてその夜。
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子どもたちは安心したように眠りにつく。
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真希と悠真は、静かな部屋で並ぶ。
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「今日さ」
悠真がぽつりと言う。
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「うん」
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「ちょっとルール破ったな」
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真希は一瞬だけ止まり――
小さく笑う。
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「……ほんの少しだけね」
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お互いに分かっている。
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良くないこと。
でも、
それでも――
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「でも、あれで安心した」
悠真が言う。
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真希は、ゆっくり頷く。
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「私も」
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言葉は少ない。
でも、それで十分だった。
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守るべきものがある。
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だからこそ、
明日もまた、正しく生きていく。
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