特別編⑦「見えない合図と、守るための距離」
秋が深まる頃。
ルクシア株式会社では、毎年決まって行われる行事があった。
――防災の日に合わせた、避難訓練。
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「今年もこの時期か」
朝の社内放送を聞きながら、悠真は小さく呟く。
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“来週、全社員を対象とした避難訓練を実施します。
当日は指示に従い、安全に避難してください”
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その放送は、どこか事務的で、けれど重要な意味を持っていた。
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ルクシア株式会社が入るビルは高い。
しかも、会社のフロアは“真ん中あたり”。
上でもなく、下でもない。
だからこそ――
“どうやって早く、安全に降りるか”が重要になる。
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階段の位置。
非常口の場所。
避難経路の確認。
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すべてが“もしも”のための準備。
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そして、さらに一週間前。
別の放送が流れる。
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“避難時の基本行動を再確認してください。
『お・は・し』――押さない、走らない、喋らない”
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その言葉は、どこか子ども向けのようでいて、
実際には大人ほど守るのが難しい。
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「押さない、走らない、喋らない……ね」
悠真はそのフレーズを繰り返す。
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パニックの中で、冷静でいられるか。
それは“訓練しているかどうか”に大きく左右される。
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そんなある日の昼前。
悠真は自動販売機の前に立っていた。
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缶ココアを一本。
温かいそれを手に取り、軽く一口。
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「はぁ……」
一息つく。
忙しい仕事の合間の、ほんのわずかな休憩。
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その時だった。
後ろから、誰かの気配。
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振り返らなくても分かる。
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真希だった。
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同じタイミングで、別の社員――同期の一人もやってくる。
三人で、何気ない会話が始まる。
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「避難訓練、来週ですよね」
「また階段きつそうだな」
「ほんとそれ」
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自然な会話。
何も特別なことはない。
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だが、その中で――
ふとした瞬間。
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手が、ぶつかる。
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ほんのわずかな接触。
偶然に見えるタイミング。
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だが次の瞬間。
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そのまま、指が絡む。
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恋人繋ぎ。
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視線は合わせない。
顔も向けない。
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あくまで“会話の延長線”の中で、
誰にも気づかれない角度で。
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だが、その握り方には、
はっきりとした意思があった。
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ぎゅっと、軽く握る。
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(好きだよ)
言葉にしない想い。
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それに応えるように、
少しだけ強く握り返される。
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(分かってる)
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ほんの数秒。
それだけの時間。
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周囲から見れば、
ただ立って話しているだけ。
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だがその裏では、
確かな感情が交わされていた。
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「じゃあ、そろそろ戻るか」
同期の声で、会話が終わる。
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その流れに合わせて、
自然に手が離れる。
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何もなかったように。
何も起きていないように。
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真希はそのまま歩き出す。
悠真も少し遅れて動く。
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すれ違う一瞬。
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「……気をつけてね、来週」
真希が小さく言う。
仕事の話として。
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悠真は軽く頷く。
「そっちも」
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それだけのやり取り。
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だがその裏には、
別の意味が含まれている。
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“ちゃんと無事でいて”
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言葉にしない分、
その重みは強かった。
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仕事に戻る。
それぞれのデスク。
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また忙しさが始まる。
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だが、ほんの数秒のあの時間が、
不思議と心を軽くしていた。
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“見えない関係”。
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誰にも知られてはいけない。
だからこそ、
守れる距離がある。
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そしてそれは、
決して不自由なものではなかった。
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むしろ――
二人にとっては、
大切な“かたち”だった。
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来週、避難訓練がある。
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もしもの時。
本当に大事なのは、
冷静さと、判断力と、
そして――
“守りたいもの”を持っているかどうか。
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その答えは、
もう決まっていた。
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