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第5話「真希という存在」


営業部の空気は、少しずつ変わっていた。


それは大きな事件ではない。


誰かが異動したわけでも、プロジェクトが爆発的に成功したわけでもない。


ただ、“春日井真希”という名前が、静かに積み重なっていっただけだった。



朝のミーティング。


資料を読み上げる社員の声のあと、柳瀬部長が一言だけ付け加える。


「この件は春日井に任せる」


それだけで、場の空気が少し締まる。


“任せる”という言葉が、重く響くようになっていた。



その日の昼休み。


営業部の一角で、社員たちが小さく話している。


「春日井さんってさ、営業だけじゃなくて企画も入ってるらしいよ」

「部長の秘書もやってるって聞いた」

「いやもう、何人分仕事してるんだよ」


その中に悪意はない。


むしろ、半分は尊敬だった。


だが同時に、どこか距離のある存在として語られている。


“同じ部署にいるのに、別のレイヤーにいる人間”


それが、春日井真希だった。



一方その頃。


企画部。


安曇課長は、悠真の報告書を見ながら軽く息を吐いた。


「悪くないな」


「ありがとうございます」


「ただし」


安曇課長は視線を上げる。


「まだ“自分の考え”が弱い」


その言葉に、悠真は小さく頷く。


「はい」


厳しい評価。


だが否定ではない。



「ところで」


安曇課長がふと話題を変える。


「お前、春日井課長と仲いいのか?」


その瞬間。


悠真の指が、ほんの一瞬だけ止まる。


「……業務上の連携はあります」


「そうか」


それ以上は踏み込まない。


安曇課長は、ただ資料に視線を戻した。


(知られていない)


その事実が、そこにあった。


同じ会社の中で、


同じ空気を吸いながら、


別々の“関係”が存在している。



その夜。


営業部の小さな打ち合わせが終わったあと。


村瀬翼と赤井美波、進藤あかりが廊下で話していた。


「ねえ、やっぱ春日井さんって別格じゃない?」

村瀬が言う。


赤井が頷く。


「普通の課長の動きじゃないよね」


進藤が笑う。


「ていうか、上が使い倒してる感ある」


村瀬は少しだけ真剣な顔になる。


「でもさ、それでも崩れないのすごくない?」


その言葉に、少しだけ沈黙が落ちる。


赤井がぽつりと言う。


「……あの人、感情見えないよね」


進藤は首を振る。


「見えないんじゃなくて、見せてないだけでしょ」


村瀬は小さく頷いた。


「うん。たぶんそう」



その頃。


真希は営業部のデスクで一人残っていた。


資料を片付ける手は止まらない。


だが、頭の中は別のことを考えていた。


(“見えない人”か)


ふと、自分のことを外から見た評価がよぎる。


別に否定はしない。


むしろ、それでいいと思っている。


必要以上に感情を見せることは、仕事では武器にならない。


ただ――


ふと、スマホを見た。


悠真からの短いメッセージ。


『帰り遅くなる?』


真希は少しだけ息を吐いてから返す。


『もう少しで帰る』


それだけで十分だった。



夜。


家に帰ると、いつもの灯り。


「おかえり」


「ただいま」


その一言で、外の“評価”が全部落ちる。


リビングでは結翔が宿題をしていて、陽葵と悠翔がテレビを見ている。


その光景を見て、真希はようやく肩の力を抜いた。



その後。


キッチンで並びながら、悠真がぽつりと言う。


「今日さ」


「うん」


「安曇課長にちょっと聞かれた」


真希の手が一瞬止まる。


「何を?」


「俺と真希のこと」


真希は静かに振り返る。


「……どう答えたの?」


悠真は少しだけ笑う。


「業務上の関係って」


真希は小さく息を吐いた。


「正解」


即答だった。



沈黙。


だが、それは重くない。


むしろ安心に近い。


真希は少しだけ目を細める。


「まだ知られない方がいいね」


「うん」


悠真も頷く。



真希はふと、リビングを見た。


そこには“ただの家族の時間”がある。


会社では見えない顔。


誰にも評価されない時間。


それが、自分にとって一番大事な場所だった。



真希は小さく呟く。


「……外では、私じゃないみたいだね」


悠真は少しだけ間を置いてから言う。


「でも、家ではちゃんと真希だろ」


その言葉に、真希は少しだけ笑った。


「うん」



外では“真希という存在”が作られていく。


だがその中心には、誰にも見せない時間が確かにあった。


そしてその時間だけが、


彼女を“彼女のまま”保っていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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