第3話「企画の芽」
企画部の空気は、営業部とは少し違う。
数字よりも先に“意図”が飛び交う場所。
高槻悠真は、資料を抱えながらそのフロアに立っていた。
「……安曇課長」
呼びかけると、奥から落ち着いた声が返ってくる。
「高槻くん、こっち」
安曇課長は簡潔だった。
机の上に置かれたのは、数枚の企画メモ。
「次のプロジェクトの初期案だ。君にも入ってもらう」
悠真は資料を受け取る。
「僕が、ですか」
「そうだ。営業側の視点が必要になる」
安曇課長は淡々と続ける。
「ただし今回は“正解を出す仕事”じゃない。“形にする仕事”だと思ってくれ」
その言葉に、悠真は少しだけ表情を引き締めた。
(形にする……)
それは、今までより一歩深い仕事だった。
⸻
同じ頃、営業部。
真希は書類を整理しながら、淡々と業務を進めていた。
そこへ柳瀬部長が通りかかる。
「春日井」
「はい」
「企画部の件、安曇から話は行ってるはずだ」
真希は頷く。
「高槻は今そちらで対応しています」
部長は少しだけ視線を細めた。
「そうか。あいつ、真面目すぎるからな」
真希は一瞬だけペンを止める。
だが表情は変えない。
「問題はないと思います」
柳瀬部長は軽く頷いた。
「ならいい」
そして少しだけ間を置いて続ける。
「お前は今回は手を出すな。全部見てやりたくなる性格だろ」
真希は一瞬だけ黙る。
そして小さく息を吐いた。
「……バレてますね」
「当たり前だ」
柳瀬部長は短く笑う。
「今回は“育てる側”じゃなくて“見守る側”だ」
真希は静かに頷いた。
「分かりました」
そして心の中で少しだけ思う。
(悠真、大丈夫かな)
だがそれは口には出さない。
――安曇課長はまだ知らない。
高槻悠真が春日井真希と結婚していることを。
この会社の中で、それは完全に“別の世界の話”だった。
⸻
その夜。
家に帰ると、いつもの灯りが迎えてくれる。
「おかえり」
「ただいま」
短いやり取り。
それだけで、外の緊張が少しずつほどけていく。
夕食のあと、子どもたちが眠りについた頃。
家の中は一気に静かになる。
⸻
浴室。
湯気がゆっくりと上がる中で、真希と悠真は並んで湯に浸かっていた。
仕事の話は、もう一度外に置いてきたあとだった。
「今日さ」
悠真がぽつりと言う。
「企画、思ったより難しい」
真希は少しだけ目を閉じる。
「安曇課長、厳しい?」
「厳しいというか……ちゃんと見てる感じ」
その言葉に、真希は小さく笑う。
「それ、いい上司だよ」
「そうかも」
沈黙。
湯の音だけが静かに広がる。
やがて真希が少しだけ体を寄せた。
「無理してない?」
「してないよ」
即答。
その返事を聞いて、真希はようやく少しだけ安心したように息を吐く。
そして、軽く悠真の肩にもたれた。
「ならいい」
悠真は少しだけ笑う。
「そっちは?また増えたんだろ」
「うん。少しだけ」
「相変わらずだな」
「褒めてる?」
「半分は」
そのやり取りに、自然と空気が柔らかくなる。
⸻
しばらくして。
真希が小さく言う。
「会社ではさ」
「うん」
「お互い、別の人間だね」
悠真は少しだけ間を置く。
「そうだな」
真希は目を閉じたまま続ける。
「でも、ここでは違う」
その言葉に、悠真はゆっくりと頷いた。
「うん」
⸻
そっと、真希が顔を上げる。
そして軽く、悠真の頬に触れる。
それは仕事の緊張も、役職も、すべてから切り離された時間だった。
静かで濃厚なキスが交わされ、長い時間…
でも確かに“戻る場所”を確認するようなものだった。
そして自然に、肩を寄せ合い、
裸もくっつきあい、身体を重なり合った。
言葉はもう必要なかった。
⸻
その夜。
寝室に戻ると、すぐに眠気が訪れる。
真希は小さく呟く。
「明日も忙しいね」
悠真は薄く笑う。
「でも、いつも通りだろ」
「うん」
そして静かに目を閉じる。
⸻
外では都市の灯りが揺れている。
誰にも知られていない関係のまま。
職場では“別の顔”として生きる二人。
それでも、家ではただの夫婦だった。
その事実だけが、確かに二人を支えていた。
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