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第2話「柳瀬部長の一言」


朝の営業部は、いつも通り動いているようで、どこかだけ空気が違っていた。


春日井真希は、資料を机に置きながら気づく。


視線が、少し増えている。


(……新しい兼務のせいか)


営業課長兼・柳瀬部長秘書。


その肩書きが、静かに周囲の距離感を変えていた。


だが真希は、それを表情に出さない。


「おはようございます」


いつも通りの一言でデスクに向かう。


その姿は、これまでと何も変わらないはずだった。


――少なくとも、表面上は。



昼前。


柳瀬部長に呼ばれ、真希は部長室へ向かった。


「入ります」


扉を開けると、部長は書類から顔を上げる。


「来たか」


「ご用件は」


「早いな。いいことだ」


軽く笑ったあと、柳瀬部長は数枚の資料を机に置いた。


「これから、もう一段だけ動いてもらう」


真希の視線が止まる。


「営業課の係長業務と、企画部の課長補佐だ」


一瞬の間。


「……二部署、ですか」


「そうだ。営業と企画の“橋”が必要になってる」


柳瀬部長は淡々と言う。


だが、その目は試すようでもあった。


「安曇課長の補佐も頼みたい。現場と企画のズレを埋める役だ」


真希は資料を見たまま、静かに整理する。


業務量、人間関係、動線、責任範囲。


(増える。でも……破綻はしない)


少しだけ計算してから、顔を上げた。


「可能です。ただし優先順位の整理をお願いできますか」


その言葉に、部長は軽く笑う。


「やっぱり頭がいいな」


「事実確認です」


即答。


柳瀬部長は椅子にもたれ、少しだけ声のトーンを落とした。


「それともう一つ」


真希の視線が上がる。


「お前は“家庭を持っている人間”だ」


その言葉に、真希の動きが一瞬だけ止まる。


だが表情は変えない。


「……はい」


「だから無理な潰し方はしない。むしろ逆だ」


部長は続ける。


「家庭が安定している人間は、組織でも安定する」


真希はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。


(評価されているのは能力だけじゃない)


それは、少しだけ不思議な感覚だった。


「分かりました。お受けします」


短く答える。



同じ頃、別フロア。


悠真は企画部で資料を広げていた。


まだ“主担当”と呼べるほどではないが、確実に任される仕事は増えている。


そこへ声がかかる。


「悠真くん、ちょっといい?」


村瀬翼だった。


その後ろには赤井美波と進藤あかり。


「久しぶりだね、このメンバー」


村瀬が軽く笑う。


「そろそろ企画の方、慣れてきた?」


「はい、なんとか」


悠真がそう答えると、赤井が少し笑う。


「真面目だねほんと」


進藤が机を覗き込む。


「ていうかさ、奥さんすごいよね」


その瞬間、悠真の手がわずかに止まる。


「……そう、なんですか」


村瀬が頷く。


「営業の中でも普通に有名だよ。春日井真希さん」


赤井も続ける。


「仕事できすぎる人って噂」


進藤は軽く笑う。


「でもさ、結婚してることはあんまり言わないほうがいいんだよね?」


その言葉に、悠真は静かに頷く。


「はい。それは……上の判断で」


村瀬が肩をすくめる。


「まあ、社内ってそういうのあるよね」


その空気の中で、誰も深くは踏み込まない。


だが“知っているけど触れない関係”だけが、静かにそこにあった。



夜。


家に帰ると、明かりがついている。


その瞬間だけで、気持ちが少し緩む。


「ただいま」


「おかえり」


真希の声。


それだけで十分だった。


リビングでは子どもたちがそれぞれ動いている。


いつもの風景。


だが今日は少しだけ違う。


真希がテーブルに座ると、悠真が先に聞いた。


「また増えた?」


真希は少しだけ目を細める。


「うん。営業と企画、両方」


「そっか」


それだけ。


驚きも、責めもない。


ただ受け止めるだけの声。


その沈黙が、逆に安心だった。


真希は小さく息を吐く。


「……社内、ちょっとずつ見られ方変わってる気がする」


悠真は少し考えてから言う。


「でも、俺たちのことは誰も知らないままなんだろ」


「うん」


即答。


それは“秘密”ではなく、“前提”になっていた。


悠真は少しだけ笑う。


「じゃあ問題ないな」


真希も小さく笑う。


「問題ないね」



その夜。


結翔が眠ったあと、真希は窓際で立ち止まる。


悠真が後ろから声をかける。


「疲れた?」


「少しだけ」


「でも、悪くない疲れ方だろ」


真希は振り返らずに答える。


「……うん」


外の街は静かに光っている。


誰にも知られないまま、彼女はまた一段だけ上へ進んでいた。


そしてその隣には、同じように歩幅を合わせる人がいる。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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