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第1話「役職の重なり」


朝の会議室は、いつもより少しだけ空気が重かった。


春日井真希は、資料を手に立ったまま静かに呼吸を整える。画面に映るのは営業部の人事案と、新しい兼務体制の通知だった。


その中に、自分の名前があった。


――営業部課長兼・柳瀬部長秘書。


一瞬、視線だけが止まる。


「……兼務、ですか」


柳瀬部長は、特に驚いた様子もなく頷いた。


「そうだ。営業は今まで通り。ただし、俺の秘書業務も一部お願いする」


会議室の空気が、わずかに動く。


真希はすぐに表情を戻した。


「承知しました」


その返事は、迷いのない声だった。


だが心の中では、別の計算が走っていた。


営業課長としての業務、部長秘書としての動き、そして家庭。


(……増えるな)


それでも、不思議と不安だけではなかった。


むしろ、“任される側から、支える側へ一段上がった”感覚があった。


柳瀬部長は資料を閉じながら、少しだけ言葉を続ける。


「それともう一つ。今度は営業課の係長としての動きと、企画部の課長補佐も頼みたい」


会議室の一部がざわつく。


真希はすぐに顔を上げた。


「企画部……ですか」


「安曇課長の補佐だ。営業と企画の橋渡し役だと思ってくれればいい」


一拍置いてから、部長は続けた。


「結婚していることも含めて、生活の安定性も評価の一部だ。無理に壊す配置にはしない」


その言葉に、真希は一瞬だけ視線を落とす。


(“家庭”が評価に入る会社か……)


以前なら違和感を持ったかもしれない。


でも今は違った。


家に帰れば、悠真がいる。


結翔がいる。


陽葵と悠翔がいる。


それが、自分の軸になっていた。


「分かりました。お受けします」


短く、しかしはっきりと答えた。



同じ頃。


別フロアでは、悠真もまた新しい資料を受け取っていた。


「社会人8年目か……そろそろ来ると思ってたよ」


陽翔先輩が笑いながら肩を叩く。


その横には、村瀬翼と赤井美波、進藤あかりがいた。


「久しぶりだね、悠真くん」

「営業の奥さん、すごいって聞いてるよ」

「春日井真希さん、社内でも有名だし」


その名前が出た瞬間、悠真は少しだけ苦笑する。


「……有名なんですね」


村瀬が軽く笑う。


「そりゃそうでしょ。あの人、営業でも企画でも噂になるタイプだし」


赤井が続ける。


「たださ、結婚してることは“あんまり公にしないほうがいい”って(同期で氷室結衣社長の旦那の)陽翔から言われてるよね?」


その言葉に、悠真は一瞬だけ目を細めた。


「はい。そこは……一応」


進藤あかりが少し笑う。


「でもさ、そういうの含めて面白いよね。社内に“有名だけど謎の家庭持ち”って」


陽翔がコーヒーを飲みながら言った。


「余計な波風立てないのが一番だろ。仕事優先でいけ」


その言葉に、悠真は静かに頷いた。


だが胸の奥には、少しだけ別の感覚があった。


(真希、また仕事増えてるだろうな)


それだけは、なぜかすぐに想像できた。



その日の夜。


家の明かりがついた瞬間、空気が変わる。


仕事の張り詰めた時間とは違う、“戻る場所の時間”。


真希は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。


「ただいま」


「おかえり」


悠真の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


リビングでは結翔が何かを描いていて、陽葵と悠翔がテレビを見ている。


その光景を見て、真希はようやく肩の力を抜いた。


「今日ね」


真希が言う。


「役職、増えた」


悠真はすぐに反応しない。ただ一瞬だけ止まる。


「……また?」


「うん。営業課長と、部長秘書。それと企画の補佐も少し」


それを聞いて、悠真は静かに笑った。


「忙しくなるな」


「なるね」


でも、そのやり取りには重さがなかった。


むしろ、いつものことのように自然だった。


少しの沈黙のあと、悠真が言う。


「でもさ」


「うん?」


「また一歩、上がったってことだろ」


真希は少しだけ目を細めた。


そして小さく頷く。


「……そうかもね」


結翔が後ろから声を上げる。


「ママすごいの?」


「すごいんじゃなくて、忙しいの」


真希がそう返すと、結翔はよく分からないまま「ふーん!」と笑った。


その様子に、リビングに小さな笑いが広がる。



夜が静かになった頃。


真希は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「少しずつ、変わってるね」


悠真は隣で頷く。


「でも、家は変わってない」


その言葉に、真希は少しだけ安心したように目を閉じた。


外では、都市の灯りが静かに瞬いている。


その中で、彼女は確かに一歩だけ前に進んでいた。


そしてその一歩は、家庭の中にちゃんと帰ってきていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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