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第10話「それでも続いていく日常」


 金沢行きの話が現実味を帯び始めた頃。


 春日井家の空気は、少しだけ“次の段階”に入っていた。


 それは特別な事件が起きたわけではない。


 むしろ逆で——何も起きない日常が、ちゃんと続いていることが変化だった。



 朝。


 いつもの出勤前。


 リビングには、子どもたちの声が響く。



「いってきまーす!」


「気をつけてね」


 真希の声は柔らかい。



春日井真希



 悠真も玄関で靴を履きながら言う。


「今日、ちょっと遅くなるかも」


「了解」


 それだけ。


 それだけで、十分だった。



 会社。


 オフィス。


 空気はいつも通り。


 だが——少しだけ違う。



 周囲の社員は、もう気づき始めている。


 あの二人は“ただの同僚ではない”と。


 しかし確証はない。


 だから、誰も踏み込まない。



 その曖昧な距離が、今のバランスだった。



 昼。


 食堂。


 別々の席。


 会話なし。


 視線だけ一瞬交差。



 それだけで、十分だった。



 夕方。


 仕事終わり。


 帰宅途中。


 少し離れた場所で合流する。



「疲れたな」


 悠真が言う。



「うん」


 真希が答える。



 そして、少しだけ間。



「でもさ」


 悠真が続ける。



「悪くないよな、今」



 真希は少しだけ空を見上げる。



「うん」



 それだけ。



 夜。


 家。



「ただいまー!」


「おかえりー!」



 子どもたちの声。


 結翔、双子。


 騒がしいはずの空間が、安心で満たされる。



 夕食。


 風呂。


 寝かしつけ。



 いつもの流れ。



 夜。


 静かなリビング。



 窓の外は暗い。


 街の灯りだけが遠くに揺れている。



「金沢、どうする?」


 悠真が言う。



「行くよ」


 真希は即答する。



「決まり?」


「決まり」



 少しだけ笑う。



「今度はさ」


 悠真が続ける。



「ちょっと違う旅行になりそうだな」



「そうかもね」


 真希も笑う。



 その“違う”という言葉に、不安はない。


 むしろ、少し楽しみだった。



 そこへ結翔が寝ぼけながら顔を出す。


「……どこいくの?」



「金沢だよ」


 真希が答える。



「みんなで?」



「うん」



「やった……」


 そのままソファで寝落ちする。



 小さな寝息。



 それを見て、二人は自然と静かになる。



 しばらく沈黙。



 悠真がぽつりと言う。



「ここまで来たな」



 真希は少しだけ目を細める。



「うん」



 会社での評価。


 家庭の安定。


 そして広がる人間関係。



 全部が少しずつ重なって、


 今の形になっている。



 完璧ではない。


 余裕もない。


 むしろずっとギリギリだ。



 それでも——



「ちゃんと続いてるな」



 悠真の言葉に、真希は小さく頷く。



「続いてるね」



 その瞬間。


 特別な何かが起きたわけではない。



 ただ、日常がそこにある。


 そのことが、いちばん強かった。



 夜が深くなる。


 子どもたちは眠り。


 街は静かになり。



 二人だけが残る。



「明日も仕事だな」


「うん」



「でもさ」


 悠真が少し笑う。



「悪くないよな」



 真希も笑う。



「悪くない」



 肩が少しだけ触れる。


 それだけで十分だった。



 どこまでも劇的じゃない。


 でも確かに続いていく。



 “ただいま”と“おかえり”がある限り。



 この家族は、まだ進んでいく。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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