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夏祭りの夜

 夏祭りの夜


 一学期の終業式を終えて夏休みに入る。ひと息つく間もなく朝の五時起きとなった。五時半に家を出て午前六時から正午まで、延々と六時間も管弦楽部員たちは音楽室で練習する。

 しかし練習と言っても。

 トロンボーンにとってはね、やるものがあればいくらかはマシなんだけれど。厳しい部活の管弦楽部と思っていた入学式の頃の記憶も、今や霧のように消え去って。

 ほかのパートはそれなりに楽譜と向かい合って、泣きながら練習をしている部員がいたりもするけれど。トロンボーンのパートは出番が極端に少ないこともあって、楽譜はすでに暗譜してしまっている。

 難しくて吹けない箇所があって、そこのところと格闘するということもなく、俺はあてどもなくメロディーにもならない音をプップカと吹くだけだった。野球部でいえば、キャッチボールにもノックにもならない、ただの暇つぶし。

 午前中の第二音楽室は窓を全開放にして、夏の風が爽やかに吹き込んでくる。ニンジン畑の真ん中にある、この第一中学校の校舎は命の息吹で満たされている。天上まで昇り行く太陽の輝きが眩しい。

 とか、言っている場合でもなく、せっかく部活に来ているのだから、先輩に基礎練習をしてくださいと頼んでみようとすると、実は先輩の皆さんも、基礎のキの字もない楽器の吹き方をしている。コンクールがどうのこうのと言う前に、基礎なくしての全国最優秀校。

「ゾンビはバカだ、オケラは辞めろ。ゾンビはバカだ、オケラは辞めろ。ゾンビはバカだ、オケラは辞めろ」

 部活の六時間、東條、笹山の両先輩方は途切れることなく、このセリフを吐き続ける。いらだちのはけ口に、一年生の俺一人を捕まえて、楽器も吹かずに三年生は愚痴っていたけれど、俺にとってはそれがマインドコントロールになっちゃって。心を操られる洗脳の形となっていた。

 二年生になったらオケラを辞めなければいけないのか。精神に暗鬱としたものをため込んで、ぼんやり六時間、俺はトロンボーンを吹いていた。

 第二音楽室で練習している金管楽器のメンバーのみんなも、同じようにコントロールされて、ヨシ君は二年生になったらオケラを辞めていくものだと思っていたらしい。集団催眠の体裁で、ヨシ君の立場っていったい何だったんだろう?


 あの頃は八月も終わりに近づくと、淋し気な風の吹き出すような天候だった。夏の終わりごろの夜、Y駅前の階段を上って五丁目の盆踊りに行った。

 星一つない夜の空が黒い。やぐらを組んだ裸電球の眩しい光との明暗のコントラスト。ハッピを着てねじり鉢巻きのオヤジがやぐらのうえで太鼓をたたいている。

 テーラーヨネヤのおばさんが店の前でサイダーを売っていた。氷水の中に瓶をぎゅうぎゅう詰めに突っ込んでいるから、これでは冷却効果が落ちると手伝うつもりではしゃいでいたら、「売り物をおもちゃにしないで」と怒られた。ふと視線を感じると、オケラでクラリネットを吹いている佐倉が笑って立っている。

「ヨシ君!」

 なんとなく気分が高ぶって祭りの雰囲気に酔っていた俺は、普段は女子なんかとは口も利かないのに、珍しくも佐倉に手を振った。

「九時までだけど、いいか」

 佐倉は夜遊びしたいようなことを言い出した。校則では外出は夜の九時までとなっている。もう八時半だ。

「ダメだよ、みんな帰されるから」

「少し聞いて、あのね」

 いつも登下校に使っている道にしゃがみ込んで、いつもと違う雰囲気にまどろんだ。白い短パンとTシャツの佐倉は首をかしげて、何やら秘密をそっと打ち明けるように含み笑いをした。

「ヨシ君ってヴァージンなの?」

「え?」

 どういう意味? と聞くと佐倉は応えずに白い歯を見せて笑った。そしてまた尋ねてきた。

「ABCって知ってる?」

 知らない、と応えた。佐倉はもっと嬉しそうに笑った。

「じゃあ、ペッティングって分かる?」

「分からない、どういう意味?」

「あのね、それはね、うーん」

 クラリネット女子は言葉を濁してはしゃぎだし、笑顔でごまかした。

 祭りの提灯の、うすぼんやりとした明かりの下でその笑顔が遠い記憶へ溶けて行く。佐倉は小学生のとき繊細な顔だと思っていたけれど、中学へ入って校則で髪を短く切ってしまうと、その顔がなんだかババ臭くなった。

「ひと夏の経験って分かる?」

「分からない」

「失うって分かる?」

「分からない」

 何にも分かんないんだあと、佐倉だってまだ子どもの言葉遣いのくせに、覚えたての知識を夏の夜風に乗せている。

「子どもはおうちへ帰りましょう」というアナウンスが鳴って、同時に市内放送の夜の九時を告げる悲しげなメロディーが夜空に鳴り渡る。

 そのまま幼い二人は引き合う力が弱まって、軽く挨拶すると同じ方向への帰り道なのに、一緒に帰るということもなく人ごみに紛れて、その後のことは記憶にも残らないほど、特別な感情は佐倉に抱かなかった。

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