発病
発病
「俺が卒業しても、里子が卒業しても、世代がいくつ交代していってもこの校舎が無くならない限り次の中学生は入学してくる。十二歳から十五歳までの子どもがここでひとときの時代を過ごすんだ」
義務教育だからねと、俺は頬に気だるく笑みを浮かべる。
「あたしにも、色々な後輩が生まれてくるんですね。先生は遠い過去の先輩だったんですからね。過去から未来までずっと、先輩であり、後輩であり続けるわけですね」
大きな傷を背負って終わった一悟との思い出、一悟が同じ出身の学生だということ。
金管十二奏が終わってステージから去っていく一悟の背中が幻のように虚空に浮かぶ。
「どれほど一悟を想っても先生には一悟は手は届く相手ではありません」里子が猫背で席に座って、眠たげにうつぶせる。
里子はバイオリンをケースにしまった。
「あたしにはもう、これを弾く機会なんてないんでしょうね」
全国レベルの演奏技術か。こんな下手くそなバイオリンなのにね。あり得ねえほどの詐欺の世界だ。よくもここまであたしたちは日本人をだまし続けたもんだ。里子はそう言って笑った。
「ああ、一悟に情が移ってしまったことの失敗」と突如俺が頭をかきむしると「失敗って言うんですか?」と、里子は両腕を組んで、その上に顎を乗せて、ひっそり問い詰めるように言った、俺はそんな里子に応えなかった。
変な人、悪い人には次から次へと縁を持たれるのに、なぜ一悟とは決して結ばれる縁がありえないんだろう。
「あれからの二年間、一悟とは空想の中でずいぶんと話をした」俺は天井を仰いだ。
一悟と顔を向かい合わせ、色々な場面を二人で歩いて、色々な服を一悟に買って着せてやって。
愛し合う恋人のように、二十歳になった一悟との時間をつくり笑いあっても、そしていい加減に飽きた女だと一悟を捨てようとして、一悟との約束をいくつも破ったり、わざと迷惑な時間に呼び出しておいて、待ちぼうけの上に会うこともなく一悟がヒールを脱いで、一人で家に帰っていくとか。
一悟を傷つけて、一悟を悲しませて、一悟に俺を憎ませて。とにかく一悟との幸せな時間をかたっぱしから壊していった。
「ひどいんですね、先生」里子が前髪をはねのけて俺の背中を見つめる。
「あくまで空想だから、一悟は何にも知らないことだよ」
まさか本当に一悟にそんなことをやって、一悟に嫌われたら、マジで俺は生きていけなくなる。
春浅い夕暮れの教室で、俺は机にうつぶせて考えた。
そのとき「先生?」と笑うような声がした。いちご? 驚いて頭を上げて振り向いたら背の低い少女がトランペットとトロンボーンのケースを床に置いた。
「一曲吹きますか?」
机の上にトロンボーンをドンと置かれて、俺はけーすのふたを開けた。楽器を組み立てると無言で俺は一悟を見つめて、立ち上がってトロンボーンを構えた。
何の曲か知らないが、一悟と二人で俺はおよそ県大会さえもいけない、衰えた音を出した。
でもそれなりに、柔らかくも華やかさのある金管の音。息遣いが雑に聞こえると、一悟と視線を合わせて笑う。
音と音、人と人、その調和。下手だっていいじゃないか。一悟と二人で同じ楽譜をたどっている。その揺らぎのある時間の流れ。
そして曲が終わると一悟は苦笑いをした。マジであたしたち下手ですよねと。また別の曲を吹き出す。五曲ほど吹いたら、ああすっきりしたと一悟は楽器をケースに片付けて、教室を後にする。
「先生?」
一悟が振り向いて笑った。
「先生、さよなら」
背中を向けた一悟は教室のドアを開けて、ゆっくり歩いて出ていく。
「一悟との時間は、こんな風に終わっていくのです。嬉しいですか?先生、一悟と音が合わせられましたよ?」里子が気だるく言った。
里子は教室の一番後ろの席に座って、頬杖を突きながら、いま俺と一悟が吹いていた曲の楽譜を消しゴムで消していた。俺はトロンボーンを机に置いて椅子に座り、大きくため息をついた。
一悟って優しい心を持った子に見えますか? それとも汚らわしい心を持った子に思えますか? 里子が尋ねる。
「どっちでもいい。ここでもう終わりなんだから」
「そんな言い方するんですか、先生」
責めるわけでもなく里子は静かな声で言った。
「それは俺が決めることじゃない。俺には分かりようもない」
俺がそう言うと里子は楽譜を両手でつまみ上げ、消しゴムかすをふーっつと吐息で吹き飛ばす。
「一悟がかわいいという事だけが確かなことなんですね。遠くから見詰めて思うだけの少女ですか」
出会いたい出会いが、もし本当に叶うのであれば。出会いたくない出会いはもし本当に出会わずに済むのであれば。俺がそう言うと里子は一番前の席に座る俺の背中を見ていた。
少しの間、沈黙が漂った。
「……先生」
里子が口を開くと俺はゆっくり振り返って里子を見つめた。おとを鳴らして椅子をずらし、正面から里子に向き合った。
「先生はここで病気を発病したんですね」
「……多分そうだと思う」
それがどれだけ残酷なことか、あの時の自分には分かりようもないことだった。一度発病してしまうと四十歳になっても五十歳になっても治らない病気。
迫りくる恐怖、誰かにその苦しみを理解してほしくても、もはやそう言う意志さえ潰えてしまうほどの、厳粛な事実。
俺はふと頬に笑みを浮かべた、真顔で俺を見つめる里子を優しく見返した。里子は俺の視線に何を思い取ろうとしたのだろう。




