収束していく夢
収束していく夢
「先生、大丈夫ですか……? 先生の記憶も思考も壊れかけていますよ……」
俺の記憶にある教室は、夕日が斜めから深く差し込んで真っ赤に染まり、酸素濃度がいつにも増して低く、呼吸の苦しい空気で満たされていた。
「先生、こんな教室でどういう学生生活を送っていたんですか?」
「どうって、授業を受けるだけだから、朝は普通に登校して、夕方も普通に帰って」
「そうじゃなくって」
里子が言う、先生は自分が壊されて行くことに防ぎようがなかったのですか? と。
「ないよ、そんなもの」
窓の外に目を向けると富士山のシルエットが見える。窓枠に両手をついて、里子はその富士山を眺めた。
「あの富士山にめらめらと沈んでいく、そんな夕日のイメージが、俺にとって「夕方」と言う言葉になっていったんだ」
「どういう意味です?」
里子が尋ねたから、俺は日本語が分からなくなっちゃったんだと、と応えると「ええ?」と里子は難しい顔で首を傾げた。
「中一ではゾンビのバカ、オケラは辞めろ。この二つの言葉で洗脳されて、二年に上がってからは源次郎の都合のいいように人格を細工されていった」
英単語は授業のたびに辞書引っ張って、調べなきゃいけないだろ? 里子にそう聞く。
「電子辞書で調べることが、何か?」
当時はスマホも電子辞書もなかったんだよと、俺はあくびをする。
「とにかく、分からない単語は全部、辞書をぺらぺらめくって調べつくすまで、夜も寝ることが出来なかったのに、頭が全然動かないんだよ」
英語はともかく、日本語が解体されて、言語感覚はバラバラに砕けていく。
「先生、日本語がい分からないのに、日本国で生活できたんですか?」と里子が尋ねるから、俺も富士山を眺めた。
日が西へ傾くたびに頭の中に富士山が思い浮かばれてくる。まるで象形文字のように。その富士山が俺にとっての「夕方」と言う言葉。とても日本語で生活しているという感覚ではない。
「中学三年生にして幼稚園児並みの日本語もしゃべられない俺になってしまった」
今さらながらに訳が分からない。どうして中学生活と言う時間が、あれほどむちゃくちゃな状態に俺を貶めて行ったのか。
「言葉はともかく、俺は何も考えることが出来なくなった」
里子は教室の黒板に大きく「一悟」と白いチョークで書いた。
「先生も過酷なところで生きてたんですね」
「過酷か。あれを過酷というものなのか」
「あたしだったら先生みたいな学生生活、とてもじゃないけど送れません。登校を拒否する生徒になります」
そう言われてみれば、そうかなあと俺がぼやくと本当は先生、つよいのかもしれませんねと、里子が言った。
俺は機嫌を損ねた。
「人は誰でも、つらさに耐え続ける俺のことを、強い人間だというけれど、ここから逃げることが出来ないんだから、俺はここで耐えるしかないじゃないか」
自分で自分を強い人間だと思ったことは一度もないよ、他人事のように強い人だなんて分かったことを言われるのは、もっと辛いことだと、俺は言った。
「……すいません」
里子が謝ると、しばらく二人とも黙って沈黙の間が出来た。
「でもいいなあ」と里子は窓際の席に座った。この景色、富士山が毎日、部活の練習中に音楽室から見えることとか、ここまで古い教室の、セピアの机が四十台。愛しい風景に見えませんか?
「昔はアイドルの写真集っていたら、こんな教室で撮っていましたよね」
「アイドルはあまり興味なかったけど、そうなのかな」
妙に懐かしさがあるんですよね第一中学校の教室は。里子がひっそり微笑む。
「あたしは中学時代って、終わって欲しくなかったな。小さいころからの友達もずっと同級生だったし」
「俺も同じように、あの頃はずっとこのままでと思った。切断されるように暮らし方ががらりと変わる高校生活に、怖さを感じていた」
里子のように、安心していた気持ちが俺にもあったから、あんな中学生活でも卒業するまで無事に暮らせ
たのかも。里子は頬杖をついて黒板を見つめ、俺のセリフを聴く。
「するすると、手のひらからひもが抜け落ちて行くように、中学時代はあっけなく終わりましたからね。本当に早かったな」
里子も笑って、振り返る余裕なんて時間もなかったですよ。あたしも先生のように何か失ってしまったものがあるのかな。
「たとえ嫌な過去でも、まぎれもなく自分の人生のピースのひとつなんだから、ほかでもない俺の中学時代だったと言い切れなければ、人生そのものが何だったのか分からなくなっちゃう」
里子はバイオリンを取り出して、下手くそなメンデルスゾーンを奏で始める。
ふと、そのバイオリンの音が止まって静寂が訪れる。この静けさが生楽器を演奏するときのいいところだと、あのころいつも思っていた。




