全国一位の賞状
篠原先輩
この第一音楽室が大きい。南校舎の五階、西側半分をまるまる贅沢に確保してコンサートホールのステージと同じく、木管、金管、打楽器にはひな壇を作り、実際の演奏風景をイメージできるように、中学生の音楽家たちは演奏形態に座ることが出来る。ベートーヴェンのデスマスクが飾られている、その下の指揮台に向かって部員たちは音を出す。
この舞台セットを見ただけでも、誰もがこの管弦楽部という部活に「全国優勝」と言う四文字を確約されているように思ってしまう。
髪の長い先輩の女子が、指揮台の横でバイオリンを構えて大股に立った。女子の制服のベストはボタンで留めて着るものではなく、左脇にチャックがついていてそれを外してかぶって着るというタイプのもの。ウォーミングアップに弓を動かし始める。するとまるで蝶が舞うように、弓が軽く自由自在にアルペジオを奏で始める。二年生の篠原夕子先輩だった。トロンボーンの先輩たちがにやにやと笑う。
「篠原夕子ちゃん、日本国際コンクールで優勝したんだ」
国際コンクール?
さすがにオケラ。管弦楽部ともなると、自分の目の前で中学生ながらも巧みに楽器を弾きこなす天才バイオリニストがいるものである。
NHK交響楽団と若干十三歳で共演して、約束された将来を手中にしている篠原夕子。約束された将来とはカラヤンと言う有名な指揮者がベルリンフィルと言うスーパーオーケストラを指揮して二百億円も稼ぐ世界である。
カネにまみれた才能を持つ人が同じ中学校の制服を着て、同じ校舎の五階の音楽室で管弦楽部員として練習している。
「ふーん、あたしたちはみんな仲良く凡人でしたけどねえ?」
里子は青い棒アイスをなめながらディスプレーを眺めていた。一悟の制服も里子の制服も、四半世紀以上たっておきながら、篠原先輩の着ていたものと全く同じデザイン。女子の丸襟のブラウスがどことなく古風。
里子に、俺にもアイスをちょうだいと言うと、里子はトントンと白いハイソックスの足音を立てながら立ち上がって部屋を出て行った。冷蔵庫から青い氷の棒アイスを取り出してくると、「一本五十円です」と言って、立ったまま俺を見下ろす。
「カネを取るのか?」
「これでも安い方です。二十年前のお値段です」
俺が財布を取り出して五円玉を十枚渡すと、これはですね、「カジキン次郎」って言うんですよ。結構ハマるもんでしてねえと、ぺシャンと床に座りなおして再び猫背になりながら、里子はディスプレーを見続けた。
「こんなことで驚いても、ふたを開けてみれば所詮は中学生の部活動。それほど神格化する、凄すぎるという管弦楽部でもなかったのに」
俺がそう言うと、里子は他人事のように「そうなんですか?」とカジキン次郎をガリガリかじっている。
「そういえば先生って、どうやって全国行ったんですか?」
里子がふいと尋ねたから、俺は「バスで行ったに決まってる」と応えた。「あ」、と里子は言葉を詰まらせる。
そういう事ではなくと、里子は口ごもって、全国大会の舞台に立つまでに、一体どんな努力をして、頑張ったのかなあ?と。
「そりゃ、会場までコントラバスやチューバのようなでっかい楽器を何台も抱えて電車に乗ったら、ほかの乗客に迷惑じゃないか。だから全国大会の当日はバスを仕立てて行くもんだろ。子どもは乗り物酔いにも弱い。だから酔い止めの薬も用意したり、吐いたときのための袋も当然必要。それから高速使うからトイレの確保も意外とナーバス。朝の集合時間も早いし、色々と気を使ってがんばった」
全国大会の会場は都内だから道路の渋滞も計算に入れないといけないし、授業を休んでコンクールをやるんだから、補習や宿題もしんどい。
「いやいや、あのときは本当に努力した。俺は自分をほめてやりたい」と、しばし感慨にふけった。
「あのね、先生ね?」と、里子はそこで訂正を入れる。「先生、そういう話じゃなくってね?どんな風に練習をして曲を作り上げて、地区大会から県大会、関東甲信越、そして全国大会。それも、どのコンクールも全て最優秀。
つまり日本一なんて、よくもまあ最高の舞台で輝かしい結果を出したのかと、あたしは尋ねたのです」
一瞬、小首を傾けて俺の顔を覗き込んでいる里子と目を合わせて、沈黙の時間が流れた。
「そんなこと知らないよ。ステージに上がって五分ほどトロンボーンを吹いて、それだけのことでどこの大会でも結果は一位だって。全国優勝なんてあんなに簡単なことなのか?って、拍子抜けするくらいのことだった」
ええ? と、里子は床に手をついてのけぞった。先生それは、なんだかなあ?
「あたしたちは血を吐くような努力をして、眠れぬ夜をいくつも数え、中間期末の両テストの成績まで犠牲にして、必死こいて全国大会までたどり着いたら、そこで見事にコケたんですよ?」
あたしたちは三位ですよ三位。全国最優秀なんて、およそ手に届かない悪夢のようなプレッシャーのかかったことです。
「よくぞ先生は日本国における、学生コンクールの頂点に立ったものですねと、ほめてやりたかったんですけれど?」
俺の背後にまわり、里子は肘で俺の肩をたたき始めた。
「そうだよね、俺たちよくも全国のトップに立ったよな」と俺が言うと「他人事のように言わないでください」と里子は俺のアタマをポンと叩く。
「いや、俺には他人事としか感じることはできない。だいたいトロンボーンなんて、それほど努力の必要なんてない楽器だろうに」
バイオリンとかフルートとかが、一生懸命演奏している間に、トロンボーンはリズムだけ打っていればいいんじゃないか。俺の楽器にはそれほど高度な技術は要求されないんだよ。
「それに今の世代、里子たちの方がはるかにいい音を出している。俺たちのあの汚い音で全国優勝なんて言うのも恥ずかしい。
コンクールと言っても、昔と今とではレベルが全く違うんだから。血を吐く思いで一つ一つ、上の大会へ勝ち進んでいった里子たちの方が、俺たちなんかより実はすごいんじゃないかと思うけれど」と俺は言った。
すごくはありませんよ、結果が全てです。里子はつまらなそうに言う。ああ、あたしは全国一位の賞状が欲しかった。仏壇に飾りたかったのです。




