思い出されるのは、辛さか、懐かしさか。
血中濃度
秋の夕暮れはつるべ落としという、ついさっきまでの午後の太陽がもう沈みかかろうとしている。庭では薄紅のコスモスが冷たさを帯びた風に揺れる。
とある古民家で女子中学生の里子と二人、ぼんやりと薄型ディスプレーで映画を観ていた。なんとなく暗い部屋に明かりをつけようとしたら、夕日が斜めに差し込んできて、部屋は一瞬の間、だいだい色に明るくなった。
ディスプレーではゴジラが口から青い火を噴いている、映画の内容は頭に入らず、考え事をしていた俺はポツリと呟いた。
「……里子。『卒業』が、これ以上は使用不可能なんだって」
猫背の制服姿でぺしゃりと畳に座っている里子は一瞬「へ?」と意外そうな顔をした。ツインテールの髪を揺らし、顎まで伸びる前髪を薬指ではねのけた里子は俺の顔を瞬間、まじまじと見た。姿勢を変えた里子の制服の長いスカートが、風船のような形で膨らんでいる。
「卒業」が通用しない? 俺が「使用不可能」と判を押されている伝票を見たら里子も横からその伝票を覗き込んだ。
「なんだ先生、『卒業』は使ってたんですか?」
スーツ姿の俺は暑苦しいという体裁で首を振りながら右手の中指でえんじ色のネクタイを緩め、靴下も両方ともポーンと脱いだ。
「使ったよ、『卒業』。一回だけじゃなく三回も。それが全く効かないんだ」
「おかしいなあ、三回目ならいい加減に血中濃度も安定するはずですよ? 卒業証書も郵送されてくるはずです。先生、いまどき流行りの詐欺に遭ってるんじゃないんですか? 一度血液検査したどうですか?」
「血液検査?」
「卒業」は一回使うのに税サ込みで六万五千円するんですよ? 安い金額じゃあありません。おカネを払ったら、払ったなりの効果があるはずなんだけれどもなあ。里子はしばらく首をひねって考える。
「あまり『卒業』も使いすぎると、ジスキネジアになりますしねえ」
「ジスキネジアってなに?」
「薬物中毒のことです」
突然ゴジラが吠えた、それと同時に音楽も乱暴に流れる。うるさいなあこの映画。
もしゴジラが火を噴かなかったら、今さらこの怪獣に何の恐ろしさがあるというのだろう。脚が短ければ手も細っちょろい。このでかい図体だけというゴジラは、単にシューティングゲームの格好の的でしかない。
そうそう負けないゴジラと言うのなら、なおさらいいことじゃないか。射撃訓練の対戦相手として、撃ったれ撃ったれ。
「卒業」も近頃では薬物でできているのか?と里子に尋ねると、化学薬品は万能ですからねと、里子はおもむろに俺の背広を脱がせて左腕を引っ張り、袖を手繰り上げてゴムバンドを巻いたかと思うと、パンパンとその腕を叩いた。
腕に血管が浮かび上がると、里子は採血用の針を持ち出した。きらりと銀色の針が光る。
「ちょっと待て」
いかにも痛そうな細い針を見て俺は一瞬ためらうものを感じた。
「どうかしたんですか」
「里子が針を刺すのか?」
「そうですけれど」
そして俺に反論の時間も与えないまま、気が付いたら蚊が血を吸うように採血針は皮膚にすっと刺さっていた。「アッ!」と驚いたころには血管まで針は届いていた。
痛みも恐怖も感じないで針はすっと刺さっている。この里子、中学生のくせにここまで針を刺すのがうまいのか。赤黒い血液が勢いよくガラス管にたまっていく。
誰だってこの言葉を使って、都合のいい暮らしをしている。ぎりぎりの希望にすがるわけではなく、回復不能の絶望に諦めていくわけでもない。平凡でありきたりな日本人の人生。
いやなこと、面倒くさいこと。苦しいことだったらなおさら、そういうものとは誰だって縁を切りたい。だからまるで飽きた制服を脱ぎ捨てるように、自分の都合の悪いものからそそっと離れる口実としての耳に聴こえのいい言葉。
卒業。
「先生、よかったですねえ、肝数値が正常の範囲内ですよ、血糖値も問題ありません」
里子は早くも検査結果を出して、異常な数値はひとつもないと読み上げている。先生、一時は体重が九十キログラムもありましたからねえ、見事に痩せましたね。ダイエットに成功するなんて大したもんだ。
「激太りする副作用のある薬をやめたら、勝手に標準体重まで落ちたんだよ。それで、卒業はどうなったんだ?」
俺が尋ねると、里子は少し黙って間を置いた。そして声音が低くなった。少女の声を低音域へ近づけようとするときの、この独特の音質。
「……『卒業』の数値は、確かに低いですね。マイナスポイント99900ですかね。これじゃ『卒業』も効いている数値じゃありませんよ。……先生そんなに一悟が好きなんですか?」
たまたま俺が撮った、春十三歳の一悟の写真。この幼い少女の可愛さ、この愛らしさ。
分かってるよ、あの一悟に対しての恋なんだ。「卒業」とまじないのように念じたくらいで消える、この恋の炎なんかじゃないんだよ。
傷つく日
上り各駅停車を降りて駅のプラットホームに立つと、午後の日差しにまぶしさを覚えた。明るい春服を着ている人たちが街中を行き交って、その中で一人、濃紺のコートで身を固めて、この厳寒期のカッコをしている自分というものが恥ずかしい。病気の体ではこの気温でも妙に寒くて仕方がない。
病気のメカニズムは不明、決定的な治療法もない。難病という側面も持っている、うつ病や統合失調症などという精神系の疾患。健康という当たり前の感覚を俺は忘れた。三十年もこの精神疾患を患っているのである。元気な人たちを見ると不思議な感覚にとらわれる。どうしてみんな、そんなに健康なのだろう。
T駅から南へまっすぐにバスターミナルの陸橋を突き抜けて、ゼイゼイ言いながらN文化ホールまでたどり着くと、体調はここで限界だった。ホールの入り口にN市立第一中学校管弦楽部の、演奏会の看板が立てかけてある。その看板を見た瞬間、脚が緊張して俺は立ち止まり、その看板を凝視した。
今日、俺はこのホールで傷つく。
だれがどんな傷を、何の理由でつけるかはわからない。だけど、必ずここで俺は傷つけられる。
「傷つくってわかっているなら、何もわざわざ来ることもないのに。なんで来たんですか?先生」里子にそう問われる。
「俺が今日ここへ来なければ、他の場所でさらに深い傷をザックリとつけられてしまう。人生のすべてを壊しつくされる」
「どうして、誰にですか?」
「だからそいつが誰なのか分からないし、どうして傷つけられるのかもまったく分からない」
「ふーん、先生の言っていることがあたしにはさっぱりわかりませんが」
なんでまた先生はいちいち傷をつけられる立場にいるんですかねと里子が呟くように言う。
「里子ね、それが分かれば、俺も人並みに苦痛苦労のない人生を送っているはず、なんだけど」
俺はもはや白けた感情で、この期に及んで守るものなど何もないと言った体裁で答えた。
わずか十五歳、肌のきめも細かい子ども。高校入学を控えた「一悟」と言う中学生。
成人式や結婚も一悟にとっては遠い夢の話。
これからいくつもの、始まりの扉がパタパタと開かれる、一悟にとって未来とはどんなものだろう。一悟は幸せな人生を送ることができるのか。
そもそも幸せって何だろう。誰でも当たり前に幸せに生きている、そういうものだけど、どうにも俺の場合は細心の注意を払わないと幸せどころか地獄へ落される勢いの人生だ。
開演まで早めに着いた俺は、文化ホールの客席でまばらに入った聴衆の上げる白い音を聴きながら、一人ぼんやりと座り込み疲れた体を休めていた。ずいぶんと俺の体も疲労をため込んでいるものだ。
そのとき俺の隣の席にどっさりと、いくらか長髪気味の若作りをした、やせ形の男が座った。男はおもむろに口を開いた。
「吉崎さん、ですね」
「は、はあ……?」
突然俺の名を呼ぶとは。何でこの男は俺の名を知ってるんだ? 男はわざとらしくも顔の右側だけを俺に見せつけた。右目が薄笑いでこっちを一瞥している。
「私が誰だか分かりますか?」
今さら中学校の部活の演奏会で、知っている人に接触するなど考えてもいなかった。
……だれ?
男は苦手だ、男に声をかけられるなんて。濃い髭を鮮やかに深く剃っている頬。
「栃木って、覚えていない?」
男は俺の記憶を試すように口をとがらせてニヤリと問いかける。
次に北関東地方です。茨城、栃木、群馬も明日はおおむね晴れでしょう。って、俺はそんな人物などちっとも知らない。
「下に降りてお話しませんか? 吉崎さん」
半ば丁寧語でありながら、命令口調でそう言われた。「お前今すぐ席立てよ」と。
下のホワイエまで降りて行くほどの話とは、果てなんだろう。栃木さんとやらは俺の答えも聞かずに席を立ちあがってしまう。今さら知りも覚えもしない人とあらたまった席でこの俺という病人が話をするといっても。
しかし俺は、信頼を絵に描いたバリバリの常識的社会人とでもいうように、まるで完全無欠な健康人であるかのように、体中の筋肉を躍動させて顔はまっすぐ前を向きスタッと座席を立って栃木の背中を追った。
もうすぐ演奏の始まる時間。収容人数1500人、残響1.2秒のコンサートホールの中で音楽の世界に没入して、精神のベクトルを調節していたのではあるんだけれどなあ。
そんな俺に振り返りもせず、歩行速度も快調に会場をあとにする栃木である。
栃木は背中で語るようにえんじ色のじゅうたんの長い廊下をすたすたと歩き、右手の人差し指をピンと天井へ向けて一本立てた。それがまるでテレビでの視聴率が最も上がる時間帯のドラマのようで、一体どれくらいの刑事ドラマを見たら、自分でもこんな演技をしてみたくなるものなのだろう。
「盗撮しているだろう」
「?」
「スカートの中を撮っているだろう」
「?」
出た?と小声で、浮かべていた笑みを消して、呆けながら里子は黒縁眼鏡をかけてディスプレーを見つめた。
「いきなり出たらつまらないですよ、こういうものは伏線を張ってじわりじわりと盛り上げていくものです。先生」とは言いながらも、一時はどれほどの傷に、先生が焼身自殺しちゃうかって、あたし焦りましたよ。なるほどこのくらいの傷ですか。たいしたこともないじゃないですか。ああ、よかった。里子はそう笑った。
「何が焼身自殺だよ、他人事だと思って」
スカートの中を盗撮? そもそも現行犯でもなく令状もないのに、一般市民をこんな形で拘束することは警察でも出来ない。しかし栃木にとってはそんなことなどお構いなしである。
ホワイエのベンチでふたり座ると真向かいに座っていた女性がしばらくこちらをうかがっていたが、いきなり声を上げてきた。
「あの、旧姓中島裕子ですけれど」
少し驚いた。中島さん? まだ三十代の女性に思えるが、整形したように昔の面影がなくなっていた。声を聞けば確かに中島さんだ。すると栃木という男からは情報のみを送受信する、中学教師の面影が表れた。
「理科第二分野。今は教頭。あと三年で定年」
あ、このひと理科第二分野の栃木先生だった。
「中島さん、確か管弦楽部だったね」
「はい、チェロを弾いていました」中島さんは栃木先生に応えた。
……栃木先生、ねえ栃木先生!
「ちょっと待って、いまヨシ君に教えているから」
中三のある日、よく晴れた日差しの入る窓辺の席で給食の時間に、栃木先生はどうして地震は起こるのかについて、質問した俺に教えていた。プレート型と活断層型。いずれにしても地盤のずれによって地震は起こるんだと栃木先生はノートに図を描く。
「だったら、ずれそうな地盤に爆弾を仕掛けて、人工的に地震を起こせばあらかじめ準備ができるから、被害から免れる対策も立てられるんじゃないんですか?」
俺がいわゆる地震の巣と呼ばれるところに、赤い鉛筆で爆弾を書いて見せた。
「いや、ヨシ君。地盤のずれを直すとしたら通常兵器ではおよそ歯が立たないんだよ。地震を起こすとしたら核爆弾を使わないとね。そのくらいのエネルギーは必要になるんだ」
地震対策だからと言って原子爆弾や水素爆弾を使うわけにはいかないだろ。放射性物質があふれかえってその土地には住むことができなくなるぞ……。
中島さんは俺を見て笑った。小学校から高校まで、つかず離れず同じ学校の生徒だった。中島さんが真正面から、しかと俺に向き合った。
「ヨシ君?」
「……、うん」
昔ながらの根の健康な中島さん。話をしちゃっても、いいのかな? 懐かしいやさしさに俺は笑顔になった。
「顔、変わったね。全然わからなかった」
中島さんがそういうと、俺そんなに変わってる?と尋ねた。
「全然違うよ」
「そうなのか?」
「ヨシ君、Ⅿ街に住んでるんでしょ?」
「え?」
俺がⅯ街に住んでいることが、なんでここで話題に出るか。もしかして島田が今でも俺のことを見ている?
中島さんと島田って親友だったから、今でも連絡を取り合って、話のついでに俺のことを話題に持ち上げているのか?
俺の初恋の相手が島田恵理華、小学五年生の時だった。
どこかの街へ引っ越したという島田だったが、その彼女はなんとⅯ街に住んでいた。俺も中二でⅯ街に引っ越したが、島田と通学のⅯ駅でばったり会った。俺は島田に待ち伏せされていたというのが正しい。
その後も何度か島田とは街中で顔を合わせ、言葉を交わしたことはただの一度もなかったのだが、大人になったら島田は子供の手を引いて街を歩くようになり、その後、顔を見なくなった。
島田恵理華のことで話したいことはたくさんある。そのことを中島さんに話そうとした。
「ちょっと話をしているから、その話はあとで」
栃木が能面の顔つきで話を打ち消して、ふと管弦楽部は高城先生のころ?と中島さんに尋ねた。
「そう、ゾンビ」
「高城先生のことをゾンビって呼んでいたの?」
「はい、あいつ嫌な奴だったなあ」
青いワンピースの、六歳くらいの女の子が中島さんの横にそっと寄り添ってきた。
「娘です」と、中島さんは紹介した。
「この下にもう一人男の子がいるんです」
二児の母親になった中島さんだった。きれいにまとめている服装をみて、この時正直言うなら、ほっとした。中島さんのことは実のところ、いつも心配はしていた。
中島さんは、中学一年のとき父親を亡くされていたから。
父親を失うということは、どれだけ経済的に苦しい立場に追い込まれるものか。晴れ着だらけの成人式に私服で来ていたような中島さんである。
病気で無職。俺だってスマホも持てないほど、カネがない。貧乏と言うのは、窒息するくらいの苦しくさいなまれる思いになる気分。
開演前の時間がないときに、とっさに思い立って俺はひとり世間話に花を咲かせた。昔の俺がどれほど喋られなかったのかも、管弦楽部で俺がやったヒンシュクな事件について、同じ高校へ進学して、おなじクラスになって、それでもひたすら俺が避け続ける形でいた中島さんだったとしても。
そんな気まずい過去は、まるで嘘だったことにして、まるでお笑い芸人のように明るさ全開。俺は中島さんと昔ばなしに花を咲かせた。
開演五分前のベルが鳴った。中島さんはそれじゃーねと、笑って会場へ入って行く。俺は顔と顔を見合わせて、子どものよう中島さんと互いに手を振った。
「先生、そこまでやるようなったんですかね。少し軽々しい」
里子は俺をバカにしながらも、感心している。
「これでも、コミュニケーションについてはずいぶん鍛えたつもりなんだよ、孤立状態で息絶えて、死後二十年もたってから、遺体が発見されるような孤独はいやだ」
とにかく安静を保つことが、演奏会へ聴きに来ることに対しての絶対条件だったのに、俺はここにきて、ずいぶん興奮気味になっていた。目の前に見える風景がオレンジ色の気色の悪い色を帯びてくる。
聴衆が全員会場に入って、俺と栃木教頭が二人きりになると、この先生はインターネットの話題を話し始めた。
俺はガンガンと殴られるような慢性の激しさを帯びた頭痛、そして全身の神経の痛み。そこに栃木先生の繰り広げる、多分に妄想がかった意味不明の話だ。
「君はやっていなけれど、当然君もやっているんだろ」と文脈そのものからして、それじゃ何を言いたいのか分からない栃木先生の一人語りが延々と語られ始められた。十本の指で収まりきらないほど、君はやってないけど、君はかなり悪質なサイバー犯罪をやっているんだろうと。
インターネットを引いていなくて、スマホも持っていなかったもので、いちいち言われていることの意味が分からない。やってないけどやっているんだろ。??
俺の病気、精神疾患について、理解してくれよと人に願うことなど、それが叶わないことは、今さら俺もよく分かっている。そんな病気、ホントにあるの? それ仮病なんじゃないの?
「先生の病気って何ですか?」里子が、ふいと尋ねてくる。
「すまないが、人に理解してくれと言いながら、実は俺もよく分かってはいない。精神科医も、この病気は患者に告知しないもんで」
栃木先生はネット中毒に陥っていたようで、いったん話題の口火を切ると、人を傷つける痛覚からしてマヒしていたようで、昔の教え子を冷徹に侮辱するサイバーな言葉は立て板に水の様に、その口からあふれ出して止まらない。
その十本の指では収まりきらないネットにおける犯罪を、なにを理由に君はやってないけれど、当然君もやっているんだろと? 饒舌に語り続ける栃木先生。俺の病気は発作の前兆を感覚しはじめ、冷静さを装うことが難しくなり始めていた。
会場では演奏がはじまり、「天国と地獄」と言う曲が鳴り始めた。俺の人生に天国などありゃしない。しかし、ここまでシナリオに書かれたように、都合よくも俺に傷をつける輩なんて現れるなんて、話ができすぎている。
音楽に耳を傾けてみると、なんだかトロンボーンがうまい。音量があって音程もしっかりしてる。肺活量の少ない女子が吹いているのである。俺たち男子が現役だった頃の、あの情けなくも消え入りそうなトロンボーンと一体何が違うのか。
「とにかく君からカメラを預からないと、君は会場には入れられないの」
突如、栃木は威圧的に日本語を放った。カメラ?
栃木は次の瞬間、「……いや、それは」と、うろたえた。定年前の教頭に翻弄されたけれど、やっぱりあの中学生のときのまま、まじめで素直な指示待ち族のヨシ君だ。へらへら笑って言われるとおりに、俺はバッグから銀色に輝く小さな「カメラ」を取り出して、先生に差し出した。
あと三年、栃木先生も振り返れば教員生活もここまで来た。無事に定年を迎えたならば共済年金で悠々自適の生活が待っている。こんな時にまさかトラブルなどあってはならない。
しかしカメラと言っても。一般家庭用のビデオカメラだ。演奏会を撮ろうと思って三脚とともに持ってきたけれど、……だからカメラでしょ?
俺はこれをどのように使って誰のスカートの中を盗撮するのだろう。どこから盗撮と言う疑いが湧いて出てきたのだろう。
「き、君は信じられそうな人物だから、不問にするとしよう」
突如としてねっとり感のある、いやらしい刑事役のキャラクターの栃木先生は、「疑いはすべて全て晴れた、君は無罪だ」と、取り乱し気味になって、押し付けるようにビデオカメラを俺に渡して返した。
だけど「信じられそう」ってどういうニュアンス?突如一方的に俺を悪者扱いして捕まえ、会場から引きずり出して、地獄のトロンボーンは絶大な爆音。
「この先生のバッグが黒いから、カメラバッグと見間違われたようですかね」と里子が言う。
「そう見えるからってこれは絶対にカメラバッグだと、どうして決め付けられるの?」
そして、どうしてそのまま盗撮とまで直結されるもんなの?
トロンボーンを会場で聴きたかった。予想通りに俺はこの演奏会の会場で、まさかマジで傷ついた。
途端に栃木先生は自分が加害者の立場となって身の危険を感じて、大慌てで会場のドアを開けて叫んだ。
「早く中へ!」
「いや、しかしカメラが」
「そんなことどうだっていいんだよ!早く入れ!」
入場厳禁の風向きが変わり、今までのすべてが「そんなことどうだっていいんだよ」と、俺は会場の中へ秒速の速さで飛び込まなくてはならなくなった。どうでもいいけど、俺は犯罪者なのか、そうではない人物なのか。
壁がゆがんで見え始める。奇妙なコントラストのオレンジ色の光が発光する。精神の疾患が再燃を始めた。
三部構成の演奏会。すでに終わった第一部に引き続いて、第二部の少人数編成のアンサンブルが演奏の準備を終えている。
一悟がステージに立っていた。
アナウンスにトランペットの一悟の本名が流れる。曲名が紹介されると金管の十二人の中学生は息をそろえてメロディーを鳴らし始めた。
今年度の管弦楽部のコンクール、結果は全国で三位。まあそのくらいの成績でもいいのかな、というこの部活の空気。
N一中管弦楽部と言うのは、常に全国レベルの成績を収めるエリート集団である。指導者が変わっても部員が入れ替わっても、日本国において常に高い位置に君臨する。それが伝統の域まで構築された、神の歌を奏でる子どもたち。
俺はけいれんのような感覚を覚えた。何をしでかすか分からないと恐れられる、差別意識で取り上げられる精神障害者。幻覚と妄想に意識が支配されていた。
会場に目を向けると、頭がい骨がずらりと並んでいる。包帯が巻かれている顔のない人間の頭部が、暗い空間にまるで遺体安置所の様のように、座ったままで千五百体。閉鎖空間のホールに充満している死の匂い。
一悟がステージの上でスポットライトを浴びて、十五歳の少女は金管楽器の音を吹き鳴らし、俺にとって今日の主役としての一悟。恍惚感に圧倒されているうちに演奏が終わって、一悟は静かにステージから去っていく。
「いちご?」
去り際の一悟に向かって小声で呟いた。ひだの多い長いスカートが緩やかに揺れている中学生の女子生徒。これは何だろう。自分でも抑えきれない一悟に対する想い。
叶わぬ恋よりも苦しい感情。決してお互いがその顔と声、魂の深さまで、理解し合うことが許されない。健康、とだけでは形容することの出来ない、美しく整った、痩せていながらも幼さの面影を残す、ふっくらとした顔の、きれいな黒い髪の小さな少女。
高い精神性を持ち、愛情に満ちて、苦しみ悩める人々や社会の歪み、何より俺自身を救い助ける精霊、天使、女神。果てなくきらめくように純粋な、その輝く宝石。
「果たしてそこまで理想を押し付けて、一悟が本当にそんな高尚な願望に応える少女なんですかね」
皮肉を言いつつ、里子は右手で歯ブラシを持ち、左手で手鏡を握りしめながら、ゴシゴシと歯を磨いていた。「女を磨いているのです」と。
「だけど先生ね、もしかして先生はこの日、ありえる限りの、最も深い傷をつけられたんじゃないですか?」里子は少し考えてそう言った。
「やはりそうだったかも」
俺も同じようにそう思った。そうなる気はしないでもなかったが、しかし一体、俺はどうしていつもそうなんだろうか。
「ここまで理不尽なことをされても、まだ『卒業』は効かないんですか? もっと根性入れて真剣に念じないと、ケチばかりつく人生から先生は卒業できません」
「『卒業』なんて言葉が、永遠なる宇宙において絶対的に通用する呪文でもなかったみたい」
人生は上手くいかないからこそ面白い、と言われるけれど、これのどこが面白い? いざ本人の立場に立って、卒業しきれない劇苦激痛に他人事として分かったように言われても。と、だらだら俺が言っていたら「先生?」と里子が俺の言葉を止める。
「それであたしに何をしろと?」
庭の物干しざおに、制服のまま三角巾をかぶって洗濯物を干しあげた里子が、洗濯かごを持ちながら、くるりと振り向いて俺を見る。
「里子、とにかくも一悟に消えてもらいたいんだ。卒業がだめなら転校でも退学でもいい」
「あたしが一悟を消すんですか?」
「そう、俺の記憶から、一悟が微塵もなく消えて欲しいんだ」
悩んでいるんだよ、俺はずっと一悟のことばかり考えて恋の業火に焼き尽くされているんだよ。この辛さが分かるか?
写真
父の命のついえる頃、Y街にある病院まで母と二人で入院している父の見舞いに自転車をこいだ。
コントラストがくっきりした正午の光、ここは昔、うちの住んでいた街だった。学年が一つ上がる三月の終わり、カメラであちらこちらの桜を撮りながら、俺は駅二つ向こうの街からこの病院までやってきた。
一年前、高校時代の友人が三十九歳で死んで、葬式の朝は満開の桜だった。桜ってこんなに命を感覚させる花だったかな。彼の死で思い入れの強くなった桜、はらはらと舞う薄紅の花びらが、鮮やかまでに命のはかなさを縁取った。
はかなさ?
俺は絶望的までにこの命を生きている。三十年も精神を患って、その間ひと時として気の休まることのなかった、この病気の痛みや苦しみを思う。
ひたすら街中の桜を一眼レフのカメラで撮っていると、ふと視界に懐かしい制服の少女たちのひと固まり。あらためて目を凝らすと、それは一中バッグと呼ばれる、学校指定のバッグを持っている女子中学生たちだった。
「あの子、こっちを気にしているわよ」老眼で遠くの見える母がそう言う。一悟がカメラを持っている俺を見ていたのである。視力の悪い俺にはその顔が見えなかったが、ついでに一悟たち、学校帰りなのか、五六人でたむろしている姿に望遠レンズを向けて、二三枚、適当にシャッターを切っておいた。
しかし、いまだに一中バッグ。俺がそれを持っていた頃と大きさもデザインも変わらない、三十年前俺もあの場所で同じように一中バッグを抱えてブラブラと仲間たちと立ち話をしていた。
濃紺のブレザー、ブラウスの丸襟、足首まで隠しそうな長いスカート。パンツがちらちら見えるミニスカの制服の、息の詰まる時代にここまで昔と同じ格好をされると、清楚なイメージに正直ほっとするものがある。
教師や先輩に従うことに反抗心も持たず、厳しいと言われる校則もしきたりと思えばそれで済む。そういう発想で生きていた中学時代。
着崩してはいけない制服だの、分単位で管理される時間通りの生活だの、そういうものはただ従っていればいい。無駄なエネルギーを使わず、教師たちの言われるままに生きることは、実はたいして悪いことではない。
不良生徒のように道から外れた生き方を、そのために創意工夫を自分の責任とエネルギーで探求し続ける。そう言った独創性を一切放棄する。すべてを管理される、気楽ともいえるライフスタイル。気楽と思わせるほど平和なN市立第一中学校。
「え? こんな写真撮ってたの?」
家に帰って写真をプリントしてみると、桜の風景の中に混ざってN一中の女子の中にひとり惹きつけられる少女が写っている。
不覚にも、と言うのはこのことである。この女子、度を越してかわいいかな? 俺の妄想がこの少女「一悟」に集中してしまった。
整った丸顔の、長く伸ばしてゴムで結わかれた髪型が丁寧に整えられている。優しげな色気を感じるその子が、ひたむきに俺のカメラを意識している表情は切なくも愛しい。
精神疾患の、俺のアタマの強固な妄想は、これだけで赤の他人の一悟と自分とのただならぬ強い関係を思い込ませてしまう。
椅子もない場所で一悟は何に座っているのか。もう一枚撮った写真では、一悟は何かのケースに腰を下ろしている。そして三枚目の写真では俺を意識して立ち上がっていた。このケース、楽器のケースだ。金管楽器、大きさからするとトランペット。
女子中学生たちはそれぞれ楽器のケースを持っている。この子たち、N一中の管弦楽部?
「そうです。あたしたち管弦楽部なのです」
里子がバイオリンケースを抱えているところもはっきりと写っている。ケースにジャラリとマスコットがいくつもぶら下がっている。
「そういう事なら話も早いってもんだ」
里子、すべての一悟の記憶を消してほしいんだ。およそすべて、痕跡までもだ。
俺がそう言うと、里子はせんべいをボリボリ食べて、無表情のままディスプレーを見上げていた。
どうしたものか。
入学式
昭和五十年代、N市立第一中学校の入学式で、十二歳の俺は新調した制服を着て新入学生の一人として体育館に並んでいた。男子の詰襟と女子のブレザー。ひと月前まではランドセルを背負っていた児童たちが、制服を着てみると雰囲気もがらりと変わって、少し大人びた顔つきでピシッと前を向き、古びた体育館を埋め尽くして並んでいる。小学生気分の抜けない子どもから、すでに高校受験を考えている生徒まで、この子たちの頭の中はさまざまであった。
「先生にも中学時代があったんですね」
ディスプレーに映るまじめくさって直立している俺を見ながら、里子が笑う。なんだか先生がかわいいと。
「このとき里子は生まれてさえもいなかったんだ」
「そりゃそうでしょう」と里子は髪に手を当てて整えながら、この時代の中学生が大人になってあたしたちを生んだんだからと言う。
「あ、管弦楽部が演奏している」
里子がディスプレーに指をさす。体育館の左側にスペースを陣取って、生のオーケストラが祝宴の音楽を演奏していた。中学生の入学式にはおよそ華やかで贅沢な音。この中学校の体育館で、高い技術や崇高な精神をもってしてと言うように、管弦楽部はクラシック音楽を鳴らしている。
当時、すでに二十年の歴史を持つ、N市立第一中学校の管弦楽部。全国コンクールで優勝経験を積み重ね、実績を認められて音楽の都、オーストリアのウイーンへ演奏旅行へ行ったばかりの部活だった。
子どもたちがヨーロッパまで楽器を片手に乗り込んでいったことが、大したニュースだったようで、管弦楽部の部員たちは「豆演奏家」と呼ばれて、テレビやラジオに出演するなど、かなりもてはやされる存在だった。
まさか俺が、この管弦楽部に入るなどとは思いもしない。壁一面から光が差し込んで、厳粛に入学式に挑んでいる、少し冷たい湿気を帯びた空気の体育館だった。
里子のつぶやきに俺は思考を遮られる。
「どうして一悟なんでしょうかね。なんで十三歳の少女に、先生は結婚願望まで抱くんでしょうね」
「結婚願望?」
この四十代のオヤジが、なぜ中学生の女子に恋をするものでしょうかね。バカな妄想は捨てて、先生も当たり前に女作って結婚したほうがいいですよ。里子は寝転んで頬杖を突きながら、ぶつぶつとつぶやき続ける。
「先生だったら、相手なんかごろごろいるんじゃないんですか? 先生いい男じゃないですか。女なんてその気になればいくらでも選べる立場ですよ。うらやましいもんだと思いますけれど?」
「結婚か、相手がごろごろいるようでも、こっちが無職の病人では」
「何の病気ですか?」
「精神の疾患」
「はあ」
精神系の病気をまさにこの中学生の時から患って、それから人生は止まり、四十代まで年を取ってしまっている。
「そうだよ、適齢期には結婚なんて望めばいくらでも相手はいる。そんな俺だったよ。もし病気をしていなければ。まさか中学で病気を患ってみたら、人生の全てが病気で支配されるなんて思ってもみなかったよ」
病気をしたがために、人生のすべてが紙くずになったのさ。俺が両足を放り出して天井を仰ぐように寝転ぶと、里子は少し黙って考える仕草をした。無職の病人、無職の病人。
「だけど、とりあえず一悟を消してみましょうか?」
「本当に消せるのか?」
「やってみましょう」
すると場面は、いきなり群衆の街中に変わり、制服姿の里子は一丁の短銃を両手で構えていた。安っぽい音楽が流れ、買い物客の行き交う慌ただしい下校路の商店街で、里子は一悟を待ち伏せた。まじめな顔つきなのに何故か笑っているように見える長いまつ毛の瞳の表情、って。
「里子!」
俺は慌てて里子の両手首をつかんだ。
「何するんですか? これから一悟を消去するのに」
里子は興奮した様子もなく覚めた顔で俺を見上げる。
「一悟を消したいと言っても、俺は一悟を殺害しろとは言っていない!」
「同じようなものじゃないですか?」
「バカ、全然違うよ!日本国において中学生が銃を持って街中に存在するな! 一悟はお前の友達だろ?それが友人を平気で殺せる里子なのか?」
あたしは先生の指示通りに動いているだけで、一悟が友達かどうかは別次元の話ですよ。と里子は顔色も変えずに銃を俺に渡した。
「銃がダメならナイフで行きましょうか?」里子はなんともマニアックなサバイバルナイフを懐から取り出した。俺は里子の両腕を握り締めた。
「だから一悟を殺さなくてもいい! と言うより、一悟を殺したら犯罪だ!」
妙に納得した顔で、里子はうなずいた。先生、悪いことはやらない主義なんですか?里子は尋ねるものである。
「もし一悟が殺されたら、そんな哀れな運命をたどる中学生の美少女の思い出を抱えて、俺の苦しみは深くなる」
一切の一悟についての記憶を消してくれと言ってるんだ。初めから知らない人間、およそ出会うことなど考えようもない縁、Y駅の前でたむろしているなんて、まったく同じ場所に俺と一悟が居合わせるなんて、およそありえない。
そんな風にして欲しいと言ってるんだ。解せない?分からない?理解してもらえない?
「里子、学校で使っている消しゴム貸して」
「なんでですか?」
「いいから」
里子はペンケースから消しゴムを取り出した。
「それで一悟の記憶を消してみて」
「記憶が消しゴムで消えるんですか?」
俺は一冊のアルバムを取り出した。その中にはずらりと見事に一悟の写真が収まっている。
先生、よくここまで集めましたね? 里子があきれ返るように言うが、俺は一悟が写っている写真を一枚取り出し、それを里子に消しゴムでこすらせてみると、あの美少女顔が一瞬にして消えていく。
は?
「こんな消し方、発想が素人じみて、どうかと思いますけれど?」
先生は一悟がどんな性格の女子か分かってないんでしょ? 先生は一悟の外見だけに恋しているだけですよね?
「そりゃ、一悟は可愛いから、誰にでもこういう風に自分のあずかり知らないところで、訳の分からないことをされているとは思いますよ」
誰も、一悟の本当の姿や想いを知らないし、身勝手で訳の分からない一悟のイメージは作られるばかり。
そんな一悟って本当は可愛そうな女子中学生なんじゃないのかなと、あたしは思いますが。
里子はそう言う。
入部
中学へ入学して早くも五月に近づいた金曜日の放課後、北校舎と南校舎を結ぶ二階の渡り廊下を一人で歩いていると、さっそく難題には待ち構えられていた。
普段、三年生がいるはずはまずないこのエリア。ここで俺は太った女子の先輩とばったりと出会った。ぎょっとした。
「吉崎君の弟だね?もうすぐ仮入部期間も終わりだね? 部活決めたの?管弦楽部においでよ」
管弦楽部でオーボエを吹く、この先輩に畳みかけられるように声をかけられてしまった。俺のことをどうして吉崎の弟と知っているのだろう?
あのとき俺は、ひたすら管弦楽部からは逃げ回っていた。どの部活へ入ればいいのかを決められず悩んでいたのだが、管弦楽部だけには絶対に入りたくない。全国優勝連覇校。人生のすべてがおしまいになるほど厳しい部活なのかもしれないよ? どうしてこの柿崎先輩と言う人に出会ってしまったのだろう? 心の中で俺の思いは焦りの言葉となって早口で連ねられている。
古い校舎の白く乾いて黄ばみかけた壁、薄汚れたガラスの窓から差し込む放課後の乾いた光に、疲れた不快感を覚えた。
三歳からエレクトーンを弾いて、小学校ではマンドリンクラブに入っていた。生活の中に音楽のある俺だったけれど、さすがに名門、N一中管弦楽部となると、それは自分とは少し住んでいる世界が違うのではないか。空恐ろしくて入部なんてとんでもないのに。
N一中の校則では生徒全員が部活に所属することになっている。これは「義務」である。生徒の厳格な管理の一つとして絶対的なことだった。入るべき部活を探し回っていたのに入部先は見つからない。
しかし仮入部期間も終わる、とりあえず管弦楽部だけからは逃げきれる。そう思ったときに寄りにもよって柿崎先輩に捕まった。
「楽器は何がいいかなあ、あ、トロンボーンがいいよ、トロンボーンにしなよ」
とかいうより、仮入部が終わる寸前のこの時期とまで来ると、トロンボーンしか空席のある楽器はなかった。
努力むなしくあっさりとひっかけられて、来いと言われたら断る強さもなく、俺は音楽室へと連れていかれていく。
先に仮入部をした他の一年生は、ほどほどに楽器の音を出せるようになっていて、すでに全国優勝することが前提となっているコンクールの課題曲の楽譜をさらい始めている。
トロンボーンという低音の金管楽器は嫌われたもので、三年生は三人そろっているものの、二年生が一人もいなくて、一年生の新入部員は俺一人となっていた。
「吉崎です」
挨拶もほどほどに、メッキが剥げて黄銅の匂いがプンプンする、古臭いテナートロンボーンを俺はあてがわれた。これ本当に音が出るの?と言うくらいボコボコにいかれた楽器。部員がいなかったもので一年以上使ってないと先輩は言う。
とにかく、全国レベルはともかく世界レベルで活動を展開させるような超エリート集団。そんな所へ入れられて、俺はこれから一体どうなっていくのだろう。
普通、部活は午後五時で終わるのが世間さまの常識とうかがったが、管弦楽部ではこの夕方五時からが本番で、第二音楽室の金管と打楽器、練習室の木管が、弦楽器の練習していた第一音楽室へ一堂に会する。
そして通常でも夜七時まで続く合同練習というものが始まる。指揮者の顧問のもとで全員で音を合わせ、オーケストラの音色は奏でられるのである。
管弦楽、つまりオーケストラのことを短く呼ぶと、カラオケのように「オケ」と呼ぶものだけど、あの頃のN一中生は何故か「オケラ」と呼んでいた。
「奇妙な虫みたいだろ、いまだに里子たちがオケラなんて呼び方をしていたら、どうにも気色悪い」
「遊び心があっていいんじゃないですか? あたしは面白いと思います」




