頑固おやじ、青ざめる
(少し飲みすぎたか……)
まっすぐ歩いているつもりなのに、気つけば電柱や塀に手が触る。あれから赤里はタクシーで帰っていったが、自分は少しでも酔いを冷ますため徒歩を選択した。……というのは表向きの理由で、実は芽衣子と顔を合わせたくないだけだったのだが。
「う……」
少し胃がもたれ気味らしい。腹を摩りながら家の門扉を開けると、待っていたかのように妻が引戸を開けてきた。
「おかえりなさい」
「水をくれ」
「はいはい」
ただいまの挨拶もなしに告げたのに何も言わず、妻はすぐに奥の台所へ消える。少しばかり罪悪感を覚えながら玄関に腰をかけると、ほどなくして和子が戻ってきた。差し出された水を飲み干しコップを妻に渡す。喉を通る冷たい水が火照った身体になんとも心地よい。ほっと一息吐いて妻の顔を見ると、コップを持った妻がおもむろに口を開いてきた。
「芽衣子のことなんですけどねえ」
「あん?」
今一番聞きたくない名だ。どう言い繕っても、怒りにまかせ碌な話もせず逃げ出してしまったのは自分なわけで。なんとも罰の悪い気分で視線を逸らすと、和子が首をかしげて覗き込んできた。
「少しでいいですから、話を聞いてあげてくださいな」
和子の言葉に、善郎は思いきり顔を顰める。
「話ってなんだ。奴のことか?」
「飛田さんですよ、あなた。仮にも芽衣子がお世話になってる人に奴だなんて」
和子が口に手をあてやんわりと非難してきた。善郎は鼻を鳴らして毒づく。
「あんな奴にさん付けなんかせんでいい!」
「まあまあ。そんなに噛みつくような言い方しなくてもいいじゃありませんか。なかなかいい人ですよ。優しいし、細面ですけど結構力持ちですし」
くすくすと肩を揺らす和子の態度に苛立ちが募った。善郎は靴を脱いで立ち上がりながら、妻の言葉を遮る。
「ああ、もういい! あいつの話なんか聞いてどうするってんだ!」
邪険に告げて居間へ向かうと、和子が後ろをついてきながら言及してきた。
「だって、芽衣子が選んだ人なんですよ?」
宥めるように紡がれた言葉へ怒りが増す。
「あれは人じゃないだろう!」
勢いよく振り返り怒鳴りつけると、和子が眉根を寄せてあからさまな溜め息を吐いてきた。
「いいじゃありませんか。ほとんど人なんだから」
呆れ返ったような妻の言葉に、善郎はふざけるな、と激昂する。
「いいか! 俺は奴に殺されかけたんだぞ! それを許せたあ、どういう了見だってんだ!」
「だって悪気はなかったじゃないですか」
和子が困ったように眉根を寄せるのを見て、強くかぶりを振った。
「いいや、あれは悪気があるに決まってる!」
「あなたはどうしてそう穿った考え方するんです」
声を一段高めぴしゃりと言葉を切ってくる和子に、善郎は声を詰まらせる。
「芽衣子がかわいいのはわかりますけど、これじゃあいつまで経っても、あの子がお嫁に行けないじゃあないですか」
諌めるような声音で諭してくる和子に対し、明後日の方角を向いて対抗する。とにかくすべてが面白くない。妻の言い分が正しいことは重々承知しているだけに、どうにも受け入れる気にはなれず。
「もういい! 寝る!」
「あなた!」
善郎は勢いよく立ちあがり居間の襖を乱暴に開けると、和子が止めるのも聞かず寝室へと逃げ込んだ。
窓辺から雀の鳴き声がする。
(もう朝になったのか……)
目を開けたくなくて寝返りを打つと、頭がずきんと痛んだ。
「うー……」
やはり昨日の酒が残ってしまったらしい。善郎は二日酔いで痛む頭を堪えながら布団から起き上がる。隣を見やると、すでにきちんと畳まれた妻の布団が目に入った。今頃は腹を立てながらも朝食の支度をしているに違いない。昨晩のことを思い出し、溜め息を吐く。まだ腹の虫は収まらないが、どう考えても和子の言い分のほうが正論だ。
「俺も少し頑固すぎたかな……」
善郎は頭をかいて立ち上がり、伸びをする。妻とはもう一度、きちんと話すべきかもしれない。だが……。
「俺の気持ちも少しは考えてもらいたいもんなんだがなあ」
ぼやきながら腰を鳴らして一息吐くと、重い身体を引きずって寝室を出た。
「あの野郎のことを聞くのは腹が立つが、少しはあいつらの話も聞いてやるべきか?」
ひとりごちつつ階下へ降りる。おはよう、と妻に声をかけると、和子が目を合わすことなくどこか不機嫌そうに挨拶を返してきた。やはり、あちらも昨晩のことを引きずっているようだ。
(まあ、なんにせよ、とにかく面倒なことは後回しだな)
とりあえずはいつも通り過ごすことにしよう。善郎はラジオ体操を始めるべく、ラジカセを手に取る。チューニングしながら庭に出ようと庭の引き戸を開けると、外から青い顔をした芽衣子が植木鉢を持ってやってきた。
「お父さん! 大変!」
おろおろとして植木鉢を掲げてくる芽衣子を前に、善郎は一喝する。
「いきなりなんだ! 危ないだろうが!」
芽衣子の勢いに圧されて仰け反った態勢をなんとか立て直し、バランスを整えながら改めて芽衣子の持つ植木鉢を見た。
「なんだ! お前! その妙な植物は!」
のたくったように伸びた緑色の茎を、半透明の黄色い汁が覆っている。触ってはいないが、なんとなく粘着性が高そうなそれを見て目を剥くと、芽衣子が息急き切ったように話し始めた。
「お父さんが昨日持って帰ってきた種を植えておいてあげようと思って、植木鉢に植えて水をかけたら急に!」
説明しながら植木鉢を押しつけてくる芽衣子を見て、善郎は愕然とする。
「な! お前、またなんてことを! あれは会長から預かった大事なものなんだぞ!」
最大級の大声で怒鳴りつけるも、混乱しきっているらしい芽衣子は形振りかまわず植木鉢をぐいぐい目の前へ突きつけてきた。
「そんなこと言ったって! なんか出てきてるし! お父さん! どうしよう! これなんかネバネバしてる!」
「どうするったってお前!」
そんなこと、わかるはずがない。善郎は泣きだしそうな芽衣子の前で途方に暮れるのだった。
第一章 はじまりの種 了
第二章からは一日一話の更新となります。
どうぞよろしくお願いいたします。




