第9話 エレンと真奈美、心の中の思い
朝の光が校舎の廊下を白く照らしていた。
エレンは真奈美と並んで、教室の前まで来ていた。いつものように一緒に登校して、ここまで一緒に歩いてきた。なのに、ドアの前で足が止まってしまう。ドアの向こうから聞こえる話し声。詩歩の大きめの笑い声と、奏海の穏やかな返事。胸の奥が、理由もなく小さく跳ねる。
お泊り会から数日が経っていた。
その日から、エレンの中で何かが少し変わっていた。入りたい、と思う気持ちが以前よりはっきりしている。逃げたくない、と自分に言い聞かせる回数も増えた。それでも、ドアの前に立つと足がすくむ。中の空気が自分を拒むような気がして、体が硬くなる。決意はしている。なのに、いつもはここで折れてしまう。気がつけば保健室の方へ足が向いていて、真奈美に「先に行ってます」と小さな声で告げてしまう。
今日も同じ感覚が背中を撫でた。
真奈美はそれを知っているのか、知らないのか。ただ強制せずに、静かに隣で待っていてくれる。急かさない。声もかけすぎない。そっとそばにいてくれる。その沈黙が今日は不思議と心強かった。
真奈美は特に何も言わず、ただ頷く。
その顔を見てエレンも小さく頷いた。逃げない。今日は中へ入る。そう決めて、真奈美が先にドアに手をかけ、少しだけ開いてくれた。恐る恐る、足を踏み入れる。真奈美もすぐ後ろから続いて入ってくる。二人並んで教室に入る形になった。
教室の空気が一瞬こちらに向く。詩歩がすぐに顔を上げて、手を挙げた。
「あ、柚香ちゃん! おはよう!」
奏海も柔らかく微笑んで、「おはようございます」と返してくれる。真奈美は自分の席に鞄を置きながら、こちらを見て小さく笑った。その笑顔が、妙に柔らかい。
「……おはようございます」
声が小さくなるのを自覚しながら、自分の席へ向かう。以前なら、この空間に足を踏み入れるだけで息が苦しくなった。人目が刺さるように感じられて、すぐに視線を落としていた。今は、誰かが「柚香ちゃん」と呼んでくれる。そして真奈美が隣にいてくれる。それが、少しだけ安心材料になっている。
席に着くと真奈美が隣から声をかけてきた。声のトーンが、いつもの少し上ずっている。
「柚香、やったね」
みんなの前では「柚香」と呼ぶ。その響きに、また小さくビクッとする。二人きりのときには「エレン」と呼ばれるようになってから、この名前が少しだけ遠く感じられるようになった。恥ずかしさと、特別なものを隠しているような感覚が、混ざっている。
「……はい。真奈美さんが、いてくれたから」
「そっか」
真奈美は小さく息を吐くようにして、嬉しそうに目を細めた。無理に大げさにはしない。でも、胸の奥で安堵と喜びが混じっているのが、隣にいると伝わってくる。初めてちゃんと教室に入れた自分を、真奈美が喜んでくれている。そのことが胸に温かく残った。
授業が始まっても、その感覚は消えなかった。
黒板を見つめていなければならないのに、隣の席の気配が気になる。真奈美がノートを取る音。時折、髪を耳にかける仕草。それが目に入るたびに、視線が自然とそちらへ流れてしまう。気づくと、自分の教科書の文字がぼやけている。
なぜ、こんなにも見てしまうのだろう。
休み時間になると、その違いがよりはっきりする。
真奈美が詩歩と奏海に囲まれて笑っている。楽しそうな声が聞こえる。エレンもその輪の端にいることはできる。誘われれば、短く返事もできる。なのに、真奈美が他の子と話している姿を見ていると、胸の奥が静かに沈む。寂しさに近いのに、それだけではない。自分でもうまく説明できない、小さな疼きのようなもの。
「柚香ちゃん、どうした? ぼーっとしてんな」
詩歩が顔を覗き込んできた。
「……なんでも、ありません」
「ほんと? なんか考え事してる顔してるぞ」
「少し、だけです」
それ以上は言えなかった。何を考えているのか、自分でもはっきりしない。ただ、真奈美の笑顔を見ていると、なぜか追いかけたくなる。教室を移動するときも、無意識に彼女の後ろを歩いてしまう。気づくと、自分の席が真奈美の隣にあることが、特別に感じられてしまう。
放課後、真奈美と二人で帰ることになった。
詩歩たちが先に部活へ向かい、奏海も用事があると言って別れたあと、校門を出て並んで歩く。夕暮れの風が、エレンの髪を優しく揺らした。真奈美はいつものようにマイペースに歩いている。時折、こちらを見て小さく笑う。その笑顔を見るたびに胸がまた小さく跳ねる。
「最近、よく一緒に帰れるね」
真奈美が言った。
「……はい。たまたま、です」
「たまたまが続いてるのも、いいんじゃない」
その言葉が胸に残った。たまたま。自分ではそう思おうとしている。なのに、真奈美の予定を無意識に確認してしまったり、彼女が先に帰ると少しだけ落ち着かなくなったりする。それが、ただの習慣なのか、それとも別の何かなのか。
分かれ道の近くで、真奈美が立ち止まった。
「また明日ね」
「はい。……また明日」
手を振る真奈美の後ろ姿を見送りながら、エレンは自分の胸に手を当てた。鼓動が、いつもより少し速い。暗い世界から連れ出してくれた人。その人の明るさと優しさに、自分がどれほど救われたかを、今はもうはっきりとわかっていた。
でも、その救いが、ただの感謝だけでは収まらなくなりつつあることも、薄々感じ始めていた。
なぜ、こんなにも真奈美を追いかけてしまうのか。
教室に入るとき、最初に探すのが彼女の姿であること。休み時間に、彼女の笑い声が聞こえる方へ自然と体が向いてしまうこと。帰りの道で並んで歩く時間が特別に感じられること。理由がわからないまま、自分の足が彼女の方へ向かってしまう。
家に帰り、自室の窓辺に立った。
プラチナブロンドの髪を指で梳かしながら、ぼんやりと空を見る。母親はまだ帰ってきていない。この静かな部屋で、真奈美の顔を思い浮かべる。
あの日、羽を隠してくれたときのことを、ふと思い出す。
真奈美が一歩踏み込み、正面から抱きしめてくれた感触。大きな羽が外に見えないよう、体全体で自分を覆い隠してくれたときの、密着した温かさ。肩に頭を預けたとき、わずかに伝わってきた体温。制服の生地越しに感じた、真奈美の心臓の音。羽の厚みごと自分を抱きしめてくれた、あの瞬間の安心感が、今も胸の奥に残っている。
みんなの前で「柚香」と呼ばれたときの羞恥。そして、二人きりの暗がりで「エレン」と囁かれたときの、胸の奥が熱くなる感覚。
あの日から何かが変わった。
人を避けて生きてきた自分が、真奈美のそばにいると、少しだけ呼吸が楽になる。暗がりの中にいた自分が、彼女の明るさに触れて、初めて「外」があることを知った。その光に救われたことは、もう否定できない。なのに、救われた感謝だけならこんなに胸がざわつかないはずだった。
ベッドに倒れ込み天井を見上げる。
「……どうして、なのだろう」
小さく呟いた声は、部屋に吸い込まれて消えた。
好き、という言葉は、まだ遠くにあった。自分が今、真奈美に対して抱いているこの感覚を、はっきりと名前で呼ぶことはできなかった。ただ、理由もわからないまま、彼女を追いかけてしまう自分だけが、確かにここにいる。
夕暮れの空が、ゆっくりと藍に変わっていく。
エレンは赤いリボンを指で確かめながら、静かに目を閉じた。心の中に芽生え始めた小さな感情を、まだうまく扱うことはできなかった。それでも、それが真奈美にだけ向けられた特別なものであることだけは、もう否定できなくなりつつあった。




