第10話 真奈美とエレン、スポーツフェスティバル開幕
体育の時間が終わり、廊下に生徒たちの足音が戻ってくる。
汗の匂いと運動した後の熱が、教室の入り口からゆっくりと流れ込んできた。窓を開け放ったままの室内に、外の空気が混じる。一足先に戻っていた真奈美は席に座ったまま、次の授業の準備をしていた。隣ではエレンが静かに自分の机を整えている。赤いリボンが、窓からの光を受けて小さく揺れていた。
教室のドアが開く音がして、詩歩が入ってきた。
ショートヘアが少し乱れ、頰に赤みが残っている。手元には体育用のタオル。彼女は自分の席に寄らず、まっすぐ真奈美の机へ歩いてきた。そしてそのまま。
「真奈美。今度のスポーツフェスティバル、本気で来いよ」
ショートヘアをかき上げながら、詩歩の目が真剣に輝いている。一人称はいつもの「あたし」で、声のトーンは男勝りだ。
「ライバルだぞ、あんた」
真奈美はペットボトルの蓋を閉めながら、きょとんとした顔をした。
「ライバル? さとし、何の話」
「リレーとか、玉入れとか、全部だ。あたしはテニス部だから足は自信ある。真奈美も運動神経いいってみんな知ってるしどうせ出るんだろ。全員参加なんだから、手ぇ抜くんじゃねえぞ」
奏海が苦笑しながら横から口を挟む。
「さとし、いきなりすぎ。出るのは当たり前だけど、どこまで本気出すかだよね」
「本気出してもらおうって話だよ。あたし、負けたくないから」
詩歩は悪びれずに胸を張った。真奈美は少しだけ考えてから、窓の外を見た。夏の空が高く澄んでいる。スポーツフェスティバルは来週に迫っていた。毎年、全員参加のクラス対抗で盛り上がる行事だ。真奈美は運動は得意だったけれど、目立つのが好きというわけではなかった。出るのは当然として、どこまで本気を出すかは、まだ決めていなかった。
そのとき隣の席から小さな声がした。
「……真奈美さん、頑張るんですか?」
エレンだった。赤いリボンを指で触れながら、こちらを見ている。最近は教室に普通に座れるようになっていたが、声の大きさは相変わらず控えめだ。真奈美は彼女の顔を見て、ふと口元を緩めた。
「どうしようかなって思ってた。でも……さとしがそんなに言うなら、ちゃんとしようかな」
「……あの、見ていて、いいですか」
エレンの声がさらに小さくなった。真奈美は一瞬、言葉を失った。見ていていいですか、というその言い方が胸に残った。
「もちろん。むしろ見ててほしい」
その言葉を聞いた瞬間、エレンの目がわずかに揺れた。真奈美はそれを見逃さなかった。詩歩が「よし、決まったな!」と拳を握り、奏海が「応援するね」と微笑む。教室の空気が少しだけ華やいだ。
その日から、真奈美の準備がゆっくりと始まった。
放課後、校庭の端で軽いランニングをする。詩歩が時々ついてきては「まだまだだな」と挑発し、真奈美が軽く受け流す。エレンはいつも、少し離れたベンチに座って、その様子を静かに見ていた。手には、真奈美が忘れていったタオルと水筒を抱えている。
「柚香ちゃん、毎回見てるね」
詩歩が息を整えながら声をかけると、エレンは小さく頷いた。
「……はい。お手伝い、できることがあればと思いまして」
「優しいな。おい真奈美、大事にされてるぞ」
詩歩がからかうように言うと、真奈美は苦笑した。エレンの耳が少し赤い。真奈美はベンチに近づき、タオルを受け取った。
「ありがとう。柚香、無理しなくていいよ」
みんなの前では「柚香」と呼ぶ。そのたびにエレンの肩がわずかに動くのを、真奈美は知っていた。二人きりになると「エレン」と呼ぶ。その切り替えが、最近は自然になってきている。
夕方近く、練習を終えて並んで帰る道。
「真奈美さん、足、早くて」
エレンがぽつりと言った。
「そう? さとしには負けそうだけど」
「いえ。……見ていて、きれいだと思いました」
その言葉に、真奈美は少し足を止めた。エレンは俯き加減で、赤いリボンを指で弄んでいる。夕暮れの光がプラチナブロンドの髪を柔らかく照らしていた。
「きれい、かぁ」
「はい。走っている姿が」
真奈美は「そっか」と短く答え、再び歩き出した。胸の奥が、なぜか温かかった。エレンが自分の走りを「きれい」だと言った。ただの感想なのに、特別に聞こえた。
数日が過ぎ、スポーツフェスティバルの前日になった。
放課後の校庭は、すでに準備の気配で賑わっていた。旗を立てる生徒や、線を引く先生たちの姿が見える。真奈美は軽く体を動かしたあと、ベンチに座っているエレンの隣に腰を下ろした。
「明日、見ててくれる?」
「はい。最初から」
「無理しないでね。ずっと見てるのは疲れるよ」
「大丈夫です。……真奈美さんの走るところ、ちゃんと見たいので」
エレンの声が風に少し溶けた。真奈美は横顔を見た。オッドアイが、夕方の光を受けて穏やかに輝いている。スカイブルーの方は透き通っていて、クリムゾンレッドの方は静かな熱を宿しているように見えた。
「わかった。じゃあ、ちゃんと走るね」
「はい」
短いやり取りだったが、胸に残った。エレンが自分を見に来てくれる。その事実だけで、明日への気持ちが少し変わった気がした。全員参加の行事なのに、誰かのために本気を出そうと思えるのは、初めてだった。
スポーツフェスティバル当日。
朝から空は晴れ渡り、校庭にはすでに色とりどりの旗が立っていた。クラスごとの集合場所で、詩歩が腕を組んで真奈美を睨むように見ている。
「今日こそ負けないからな」
「ふふ、どこまでついてこれるかな?」
真奈美は軽く肩を回しながら答えた。視線をずらすと、観客席の端にエレンの姿があった。赤いリボンが、朝の光を受けて小さく輝いている。奏海が隣に座り、何か話しかけている。エレンは小さく頷きながら、時折こちらを見ていた。自分も種目に出るはずなのに、真奈美の出番のときはちゃんと見に来てくれている。
真奈美の胸が静かに高鳴った。
見に来てくれている。自分が走るところを、エレンが見ている。その事実だけで、足取りが少し軽くなる気がした。
最初の種目は玉入れだった。
真奈美は籠の下で立ち、飛んでくる玉を確実に入れていく。詩歩が隣のクラスの位置で声を張り上げているのが聞こえる。観客席から、小さな声援が届く。真奈美は無意識に、エレンのいる方向を探した。彼女は両手を膝の上で握り、じっとこちらを見ていた。
次に、短い距離の徒競走。
真奈美はスタートの姿勢を取り、合図と同時に走り出した。風が頬を撫で、校庭の土の匂いが鼻をくすぐる。足の運びは滑らかで、自然と前に体が運ばれていく。ゴールしたあと、息を整えながら振り返ると、観客席でエレンが小さく身を乗り出していた。手が胸の前で組まれ、目が大きく見開かれている。真奈美は、その表情を見て、自然と笑ってしまった。
休憩時間、真奈美は水を飲みながら観客席に近づいた。
「柚香、見ててくれたの?」
「……はい。ずっと」
エレンの声が、風に少し溶けた。真奈美は彼女の隣に腰を下ろした。近くで見ると、エレンの頰がほのかに赤い。興奮しているのか、それとも別の理由か。
「疲れてない? 自分の種目もあるのに」
「大丈夫です。真奈美さんの方が」
「私は平気だよ。運動は得意だから」
真奈美がそう言うと、エレンは少しだけ目を細めた。
「走っているとき、すごく……生き生きしていました」
「そう? 嬉しいな」
真奈美は素直に答えた。エレンの言葉が胸に染みる。ただ見てもらっているだけなのに、こんなに力が湧くのは初めてだった。詩歩が遠くから「真奈美、次だぞ!」と叫ぶ。真奈美は手を挙げて応え、立ち上がった。
「また後でね」
「はい。……頑張ってください」
エレンの声が背中に届いた。真奈美は振り返らずに、小さく手を振った。足が、自然と前に出る。
午後の種目も進み、校庭は徐々に熱を帯びていった。
真奈美は障害物競走にも出て、スムーズにクリアしていく。詩歩が「くっそ、やっぱり上手い」と悔しがる声が聞こえるたびに、奏海が「さとしも頑張ったよ」と慰める。エレンはほとんど声を出さなかったが、真奈美が動くたびに視線を外さなかった。その視線の熱が、真奈美には遠くまで届いているように感じられた。
夕方近く、その日の部はひとまず区切りを迎えた。
総合順位はまだ途中経過で、最終日に持ち越しになる種目も多かった。詩歩が「明日のテニス、覚悟しとけよ」と真奈美に宣言し、真奈美が「わかった、さとし」と笑い返す。奏海が「お互い怪我しないでね」とまとめ、エレンは少し離れた位置からその様子を見ていた。
片付けが始まり、校庭に夕陽が差し込む。
真奈美は荷物をまとめながら、エレンの方へ歩いた。彼女はベンチに座ったまま、赤いリボンを指で触れている。近づくと、エレンが顔を上げた。
「お疲れ様でした」
「ありがとう。見ててくれて」
「……はい。真奈美さんの走る姿、何度も見てしまいました」
その言い方が、どこか恥ずかしげだった。真奈美は隣に座り同じように校庭を見た。旗が風に揺れている。遠くで生徒たちの笑い声が聞こえる。
「楽しかった?」
「はい。真奈美さんが、輝いて見えて」
エレンの声が、ほとんど囁きのように小さくなった。真奈美は横顔を見た。プラチナブロンドの髪が、夕陽を受けて金色に近い色に変わっている。赤いリボンが静かに揺れている。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。聞かなくても、伝わってくるものがあった。エレンが自分を見る目。その目が、ただの友達を見る目とは少し違っていること。真奈美はそれを否定しなかった。むしろ、どこか嬉しいとさえ思っていた。
帰り道、二人は並んで歩いた。
詩歩と奏海は別の方向へ帰っていった。夕暮れの道は静かで、街灯が一つずつ点き始めている。エレンの足音が、真奈美のそれに寄り添うように重なる。
「真奈美さん」
「ん?」
「明日も、見てもいいですか」
「もちろん。明日はさとしとテニスだから、ちゃんと見てて」
真奈美がそう言うと、エレンは小さく頷いた。その仕草が、とても真剣だった。
家の近くで分かれるとき、真奈美は短く言った。
「また明日」
「はい。……また明日、真奈美さん」
エレンの声が、夕方の空気に溶けていく。真奈美は手を振り、自分の家の方向へ歩き出した。後ろでエレンの気配がしばらく残っているのを感じた。振り返ると、彼女はまだこちらを見ていて、赤いリボンが街灯の光を受けて小さく輝いている。
真奈美はもう一度だけ手を振った。
エレンも、小さく手を振り返した。
その夜、真奈美は天井を見上げながら、今日のレースを思い出していた。風を切る感覚。ゴールした瞬間の安堵。そして、観客席で自分を見つめていたエレンの目。
「見ててくれて、ありがとう」
独り言のように呟く。声は誰にも届かない。でも、胸の奥に残った温かさは、確かにそこにあった。
スポーツフェスティバルは、まだ始まったばかりだった。
明日はさとしとのテニス。そして、エレンがまた見に来てくれる。
そのことが、真奈美の中で静かに、しかし確かに、特別な意味を持ち始めていた。




