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第8話 真奈美とエレン、クラスメイトとお泊り

 真奈美の家は閑静な住宅街にある普通の一軒家だった。

 二階建てで、庭もそれなりにある。家族が暮らす家としてはごく一般的な造りなのに、今はほとんど人がいない。両親は仕事の都合で海外に出ていることが多く、帰ってくるのは月に一度あるかないかだ。結果として、この広い家に真奈美が一人でいる時間が長くなっていた。

 この夜、その家に四人の女の子が集まることになった。

 きっかけは詩歩の一言だった。


「ねえ、真奈美んちでお泊りしよ。テストも終わったし、たまには広いところで騒ぎたい」


 放課後の教室で、詩歩が机に肘をついてそう切り出した。奏海が苦笑しながらも反対せず、真奈美も「いいよ」と頷いた。両親不在の家はかえって都合がよい。そして、自然な流れで保健室にいるエレンにも声をかけた。最初、エレンは戸惑ったように目を伏せたが、真奈美が「無理しないでいいから」と付け加えると、小さく「……行きます」と答えていた。

 そしてもう一人、真奈美は別のクラスの幼なじみにも連絡した。

 河内秋。

 小中高とずっと一緒にいて、今でも時間が合えばよく顔を合わせる相手だ。クラスは違うけれど、真奈美にとっては欠かせない存在だった。お泊りの話をすると、秋はすぐに「あたしも行くね」と明るく返してきた。詩歩や奏海とはほとんど面識がないはずなのに、ためらう様子はなかった。


「いいの? 知らない子ばっかりだよ」

「真奈美がいるなら大丈夫だよ。紹介してくれればいいじゃん」


 いつもの元気な調子だった。真奈美は「わかった」と答えながら、どこか胸の奥がくすぐったいような感覚を覚えた。秋が自分の周りにいることは普通なのに、エレンも加わる今夜は、少しだけ空気が違いそうな気がした。


 土曜日の夕方近く、最初に到着したのは秋だった。

 ミディアムの髪をいつものようにポニーテールにまとめ、スポーツバッグを一つ提げている。真奈美が玄関のドアを開けると、秋は「久しぶりー」と明るく手を挙げた。


「早っ。まだ準備中なんだけど」

「どうせ真奈美一人じゃ何も用意してないでしょ。お菓子買ってきたよ。あと、広い家なんだから何か足りないのもあるよね」


 紙袋を差し出す手つきは、昔から変わらない。真奈美がそれを受け取ると、秋は靴を脱ぎながらリビングを見回した。


「相変わらず人がいないね。寂しがりもせずによく一人でいるよね」

「もう慣れたよ。むしろ静かでいいかな?」


 軽いやり取りを交わしているところに、次の呼び鈴が鳴った。詩歩と奏海が一緒に来たようだった。ドアを開けると、詩歩が大きな声で「お邪魔しまーす!」と入り、奏海が「すみません、手ぶらで」と笑って続く。広い玄関に、突然女の子たちの声が反響する。


 そして、最後に到着したのがエレンだった。

 ドアの前で、少しだけ躊躇するような間があった。真奈美が「どうぞ」と声をかけると、エレンは小さく頭を下げて入ってきた。私服は淡い色のワンピースで、赤いリボンは変わらず髪に結ばれている。

 広いリビングに足を踏み入れた瞬間、彼女の動きがわずかに固くなる。

 詩歩と奏海の姿に、一瞬だけ目が止まる。最近は教室で言葉を交わすことも増えた二人だ。それでも、こうして学校の外で顔を合わせるのは初めてに近かった。エレンは軽く会釈を返したものの、すぐに視線を落とした。そしてもう一人——全く知らない人がいる。秋の存在に気づいたとき、彼女の肩が小さく上下し、指先がワンピースの生地をきゅっと摘まんだ。次の瞬間、赤いリボンの端を無意識に撫でる仕草が続いた。喉が鳴ったのか、小さく息を飲み込む音がした気がする。

 人の気配が少ないこの家に、複数の足音が響いている。知っている相手と、初めて見る相手が同時にいる空間。言葉にならない緊張が、その静かな仕草の一つひとつから滲み出ていた。

 真奈美はまず秋を詩歩と奏海に紹介した。


「こっちは河内秋。幼なじみだよ。別のクラスだけどね」

「よろしくね。河内です」


 秋が手を挙げると、詩歩が目を丸くした。


「ああ聞いたことある。真奈美の幼なじみって子だよね。テニス部の子が言ってた」

「そうなの? あたしは詩歩って名前だけ知ってたよ。奏海さんも、確か成績優秀って聞いてる」


 奏海が「そんな大袈裟な」と謙遜しながらも、笑顔で会釈する。初対面とは思えないくらい、会話がスムーズに繋がり始めた。秋は人見知りしない性格だ。真奈美が隣にいるという安心感もあるのだろう。すぐに詩歩と軽い冗談を飛ばし合い、奏海が間に入って話を整える。

 真奈美は、その流れでエレンにも紹介を続ける。


「柚香、詩歩と奏海は知ってるよね。で、こっちが秋。私の幼なじみ」


 エレンは小さく頭を下げた。声は、ほとんど聞こえなかった。


「……よろしく、お願いします」


 真奈美は秋の方を見ながら、改めて言った。


「秋、この子が天園柚香。同じクラスの子」


 秋の視線がゆっくりとエレンに向く。一瞬、何かを測るような間があった。初対面にしてはあまりにもスムーズに名前を受け止めている気がしたようで。驚いた様子も戸惑った様子もない。それは静かに相手を確認するような目だった。


「天園さん、か。よろしく」


 短く落ち着いた声。エレンはもう一度小さく頭を下げただけだった。指先が、またワンピースの生地を摘まんでいる。

 その様子を真奈美は近くで見ていて、秋の反応が少しだけ気になった。まるで、すでに知っていたかのような受け取り方。だけど詳しくは聞かなかった。今はそれ以上踏み込む場面ではなさそうだったから。

 彼女のそばに寄り、声を低める。


「大丈夫? 無理してない?」

「……はい。大丈夫です」


 答えは丁寧だったが、指先が袖を握っている。真奈美はそれ以上深く聞かず、ただ隣に立った。エレンが自分のペースでこの空間に慣れていくのを、静かに待つことにした。


 リビングは徐々に賑やかになっていった。

 詩歩が持参したお菓子をテーブルに広げ、奏海がキッチンで紅茶を淹れる。秋は真奈美の家の広さをからかいつつ、自分が買ってきたスナックを並べる。誰かが笑えば、別の誰かがそれに乗せる。広い部屋なのに、不思議とまばらな感じはしなかった。人の声が空白を埋めていく。

 エレンは最初のうちはほとんど話さなかった。

 勧められたお菓子を小さく齧り、紅茶のカップを両手で包む。誰かが自分に話を振ると、短い返事を返す。それでも、否定はしない。避けようともしない。慎重にこの場の空気を測るように座っている。

 真奈美はその姿を時折横目で見ていた。

 学校では保健室にいることが多かった子が、こうして同級生に囲まれている。詩歩の大きな笑い声に、わずかに肩をすくめる仕草。奏海が優しく声をかけると小さく頷く反応。秋が時々こちらを見る視線に、少しだけ身を固くする緊張。全部が、今夜だけの特別な光景に感じられた。


「ねえ、天園さんって普段何してるの? 真奈美とよく一緒にいるよね」


 詩歩が興味本意で聞いてきた。エレンはカップを置いて、丁寧に答える。


「……図書室にいることが多いです。あとは、保健室で」

「へえ。静かなんだ。あたしたちとは大違い」

「さとしだけがうるさいんだと思うけど。いいんじゃない。いろんな人がいた方が楽しいよ」


 奏海がフォローするように言うと、エレンはわずかに目を伏せて「……ありがとうございます」と返した。声は小さいけれど拒む色はなかった。真奈美はそのやり取りを聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 秋がふと真奈美の方を見た。


「真奈美、最近そっちの子といること多いんでしょ。部活終わりに会うと、だいたい一緒だよね」


 指摘するような、確認するような口調だった。真奈美は「まあ」と答え、特に深くは返さなかった。秋はそれ以上追及せず、詩歩に話題を戻した。でも、その一瞬の視線に真奈美は何か小さな棘のようなものを感じた。気のせいではない。秋がエレンのことを意識している。

 テーブルを囲んでお菓子を食べていると、詩歩が突然提案した。


「ねえ、最近あった面白いこと話そうよ」

「さとしが面白いことなんて起きるタイプ?」


 真奈美がからかうと、詩歩が「失礼だな。昨日も廊下で転んだよ、なかなかの傑作だったよ」と返す。


「それ面白いの?」


 奏海が呆れながらも笑い、秋が「わかる、わかる」と乗せる。エレンは、その会話の輪の外側で、静かに微笑んでいた。大きな笑顔ではない。でも、口元がわずかに緩んでいる。真奈美にはそれがわかった。緊張が少しずつ溶け始めている。


 窓の外はすでに完全に暗くなっていた。

 広いリビングに、五人分の気配が満ちている。普段は静かな家が、こんなにも人の声で満たされることは、これまでほとんどなかった。真奈美はソファに背を預けながら、エレンの横顔を見た。赤いリボンが、部屋の明かりを受けて小さく光っている。

 まだ、夜は始まったばかりだった。


 夜が深くなるにつれて、家の空気は少しずつ緩んでいった。

 詩歩が持ってきたカードゲームがテーブルに広がり、負けた人が罰ゲームで変な顔をするたびに大きな笑いが起きる。奏海は最初こそ「もう少し静かにしたら」とたしなめていたが、いつの間にか一緒に笑っていた。秋は負けず嫌いで、真奈美に絡みながらも楽しそうに参加している。広いリビングが、その声でいっぱいになっていく。

 エレンは、最初のうちは様子を見ているだけだった。

 カードを配られると、丁寧に受け取り、静かに手札を見つめる。勝っても派手に喜ばず、負けても声を立てない。それでも、誰かが自分の番を飛ばしそうになると「あ……」と小さな声を出して止めたり、詩歩が大袈裟に嘆くと、目を細めて微笑んだりするようになっていた。

 真奈美は、その変化を見逃さなかった。


「柚香、意外と勝負強いね」


 真奈美が自然にそう呼ぶと、エレンの肩がわずかにビクッと揺れた。

 二人きりのときにはもう「エレン」と呼ばれている。その呼び方が自分の中で少しずつ馴染んできているのに、みんなの前で再び「柚香」と聞こえた瞬間、胸の奥が熱くなった。恥ずかしさが先に立って、指先が小さくすくむ。真奈美の声は優しいのに、なぜか耳まで熱くなるような感覚だった。

 その一言に詩歩が目を丸くした。


「柚香……? 真奈美、天園さんのこと柚香って呼んでるの?」

「うん」


 真奈美が当たり前のように答えると、詩歩は一瞬、何か言いたげな顔をした。羨ましさが混じった、少し不思議そうな表情だった。


「いいなあ……あたしらはずっと天園さんなのに。柚香って、なんか近いっしょ」


 奏海も穏やかに微笑みながら頷いた。


「確かに。真奈美だけ特別な呼び方してる感じがするね」


 秋は黙ってそのやり取りを聞いていた。視線が真奈美とエレンの間をゆっくりと行き来する。何も言わなかったが、口元がわずかに引き結ばれているのがわかった。


 真奈美だけ特別、という言葉に、エレンは小さく首を横に振った。


「そんなことは……ありません」


 否定する声は細く耳の先端がわずかに赤い。褒められることにも、特別扱いされることにも、まだ慣れていないらしい。真奈美はその様子を見て小さく笑った。

 詩歩はすぐに気を取り直したように、エレンの方を見て明るく言った。


「じゃあ、あたしも柚香ちゃんって呼んでいい? 天園さんだとちょっと堅いし」


 エレンは少し戸惑ったように目を瞬いたが、やがて小さく頷いた。


「……はい。大丈夫です」

「やった。柚香ちゃん、よろしくね」


 詩歩がそう言うと、奏海も「柚香ちゃん」と試しに呼んでみて、柔らかく笑った。秋も少し遅れて「柚香ちゃん」と短く口にした。声のトーンは明るかったが、どこか丁寧で、距離を測っているような響きがあった。

 秋が真奈美の隣に座ったまま、ぽつりと言った。


「真奈美、最近そういう顔よくするね」

「どういう顔……?」

「なんか、ちょっと緩んでる顔。前より、目元が柔らかい気がする」


 秋は自分でも言葉を探するように言い直した。指摘するような、少しだけ拗ねたような声だった。真奈美は「気のせいでしょ」と返しながら、秋の横顔を見た。ポニーテールが少し乱れていて、いつもの元気な様子とは違う、微かな影がある。エレンの方を見る視線が時折、長く止まる。

 真奈美にはその理由がぼんやりとわかっていた。

 秋は昔から、自分の周りにいる人を気にする傾向があった。特に自分と親しくする相手に対しては、敏感になる。エレンが特別な存在になりつつある今、秋がその空気を感じ取っているとしても、不思議ではなかった。

 それでも、秋はエレンを排除しようとはしなかった。

 カードゲームの最中、エレンが手札で迷っていると「それ、出した方がいいんじゃないかな」と優しく助言したり、お菓子を取り分けるときに自然と彼女の分も考慮したりする。距離を保ちつつ、敵意は見せない。その態度が秋らしいと思った。


「ねえ、柚香ちゃん」

「……はい」

「柚香ちゃんは、普段一人でいるの好きなタイプ? それとも、こうやってわいわいするのも好き?」


 少し踏み込んだ質問だった。奏海が「さとし」と注意するような目を向けるが、詩歩は悪びれない。エレンは手元のカップを見つめながら、しばらく考えてから答えた。


「……一人の方が、楽なことも多いです。でも、こうして皆さんが笑っているのを見ていると……嫌、ではないです」


 丁寧で慎重な答え。それでも、以前の彼女なら「特に何も」としか言わなかったかもしれない。真奈美は、その言葉の端に、小さな変化を感じた。


「じゃあ、また誘っていい? 次は別のこともしようよ」


 詩歩が気軽に言うと、エレンは小さく頷いた。


「……はい。よければ」


 その返事を聞いて、真奈美は胸の奥が温かくなった。拒絶しない。可能性を残す。それだけでも、大きな一歩だった。

 やがて会話は自然と途切れ、誰かが欠伸をした。

 奏海が「そろそろ寝よっか」と提案し、詩歩が「まだ話そうぜ」と反対しつつも、結局は布団を広げ始めた。真奈美の家には十分な寝具がある。両親の分も含めて出せば、全員が余裕を持って横になれる。秋は慣れた手つきで真奈美の布団を並べ、エレンの分も自然と隣に確保していた。広いリビングの床が、一時的な寝室に変わっていく。


 明かりを落とした部屋は、急に静かになった。

 窓の外から、遠くの車の音が時折聞こえる。誰かの寝息が、少しずつ規則正しくなっていく。詩歩はすぐに眠ったようで、小さな寝言を漏らしている。奏海は静かに息を整え、秋は壁側で腕を枕にして目を閉じている。

 真奈美は天井を見つめたまま、しばらく眠れなかった。

 隣でエレンがまだ起きている気配がした。大きな動きはない。ただ、呼吸のリズムが、眠っている人のものではなかった。真奈美の胸の奥が、理由もなく少しだけ速く鳴っている。二人しか起きていないこの暗がりの中で、隣にいる人の存在がいつもより近く感じられた。

 真奈美は声を出さないように体を少しだけ向けた。

 暗闇の中で、エレンの横顔がぼんやりと見える。赤いリボンは外され、枕元に丁寧に置かれている。リボンのない姿は、どこか無防備で幼く見えた。真奈美の鼓動が、静かな部屋の中で自分だけに聞こえるように大きくなった。


「……エレン」


 真奈美が小さく囁くと、エレンはゆっくりとこちらを向いた。その動きも、どこか緊張しているように見えた。


「……少し、眠れないです。初めての、場所なので」

「無理しなくていいよ。眠れなかったら、起きてても」

「はい。……ありがとうございます。真奈美さん」


 短い沈黙のあと、エレンがほとんど聞こえない声で、ぽつりと呟いた。


「……柚香、って呼ばれたとき、少し、どきってしました。こっちの名前で呼ばれるの、初めてだったので」


 恥ずかしさを押し殺したような、小さな声だった。真奈美は暗闇の中でそっと目を細めた。胸の奥がまた少し熱くなる。


「……そっか」


 それ以上言葉はいらなかった。静かに、隣にいる人の気配と自分の鼓動の音だけが重なっていた。

 真奈美はもう一度だけ隣を見た。

 クラスメイトに囲まれて、少しずつ笑顔を見せるようになった子。緊張しながらも、輪の中に身を置こうとしている姿。その全部が胸の奥に残っている。秋の微かな棘も、詩歩の大きな笑い声も、奏海の穏やかな気配も、全部含めて、今夜は特別だった。

 今日のことを確認するように言葉を交わして、いよいよエレンから可愛らしい欠伸が聞こえてきた。


「おやすみ」


 真奈美がそう囁くと、暗闇の中で小さな声が返ってきた。


「……おやすみなさい。真奈美さん」


 その声音が、今夜一番の温かさだった。

 真奈美は目を閉じた。

 広い家に、五人の息遣いが重なっている。一人で過ごす夜が、こんなにも穏やかに満たされることがあるのだと、初めて知った気がした。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込む。

 最初に目を覚ましたのは、真奈美だった。天井を見上げながら、昨夜のことをゆっくりと思い出す。賑やかな笑い声。カードゲーム。エレンが少しずつ輪の中に入っていく姿。そして、暗闇の中で交わした短い言葉。全部が、まだ肌に残っているような感覚があった。

 体を起こすと、隣でエレンがまだ眠っていた。

 赤いリボンは枕元に置かれたままで、長い髪が頰に落ちている。寝息は浅く、規則正しい。昨夜まで緊張していた子が、こうして無防備に眠っている。そのことが妙に胸にきた。真奈美は起こさないように、静かに布団から出た。

 リビングの端では、秋がすでに起きていた。

 ポニーテールを結び直しながら、窓の外を見ている。真奈美が近づくと、秋は小さく手を挙げた。


「おはよう。よく寝れた?」

「まあね。秋は起きるの早いね」

「習慣。どこでもこんな感じだよ」


 軽い笑顔だった。昨夜感じた微かな棘は、朝の光の中では見当たらない。真奈美は「そっか」と答え、キッチンへ向かった。全員分の簡単な朝食を用意する。トーストと卵、あとは昨日の残りのお菓子を並べる程度のものだ。

 詩歩が大きな欠伸をしながら起きてきて、奏海がすぐに後に続いた。エレンは最後に、少し遠慮がちに顔を出した。朝の光の中でも、彼女の表情は柔らかかった。昨夜の緊張が、かなり溶けているのがわかった。


「おはよう、柚香ちゃん」


 奏海が優しく声をかけると、エレンは小さく頭を下げる。


「……おはようございます。すみません、私一番最後まで寝てました……」


 詩歩が「全然気にしないよ。それより昨日はありがとね、柚香ちゃん。またやろうよ」と気軽に言うと、エレンは「はい」と短く答えた。拒絶の色はない。真奈美はそのやり取りを聞きながら、パンを焼いた。

 朝食の席は昨夜ほど騒がしくはなかった。

 まだ眠気が残っている声と、フォークの音が穏やかに交錯する。秋が真奈美の焼いた卵を「相変わらず上手いね」と褒め、詩歩が「次はうちでやろ」と宣言する。奏海が「さとしの家だと親がいるでしょ」と指摘すると、詩歩が「そこをなんとか」と笑い飛ばす。エレンは、その会話を静かに聞きながら、トーストを小さく齧っていた。時折、口元が緩む。

 食後それぞれが荷物をまとめ始めた。

 詩歩と奏海は一緒に帰るらしく、玄関で「また学校で、柚香ちゃん」と手を振る。秋は少し残って、真奈美と二人で片付けを手伝った。エレンは自分の荷物を整えながら、時折二人の方を見ている。邪魔にならないように、距離を取っているのがわかった。


 秋が帰り際、真奈美の袖を軽く引いた。


「また連絡するね。一人で寂しいってなったら、いつでも言って」

「わかってる」


 秋は少しだけ間を置いてから、続けた。


「……あの子のことも、大事にしてあげてね」


 小さく添えられた言葉だった。笑顔は変わらない。声のトーンも明るい。でも、その言葉の裏側に、自分でも整理しきれていない感情が沈んでいるのが、真奈美には伝わった。秋は、真奈美が柔らかくなっていくことを拒んでいない。ただ、その変化の中に自分の居場所が薄れていくような予感を、静かに抱えているだけだった。

 真奈美は一瞬だけ目を見開いたが、秋はもう明るく手を振って門を出て行っていた。後ろ姿は、いつもの元気な秋と変わらない。それでも、最後の一言だけが、胸に残った。


 家の中に真奈美とエレンだけが残った。

 急に静かになったリビングで、エレンは自分の鞄の紐を握ったまま立っている。真奈美は彼女の方を見て、自然と口を開いた。


「エレン」


 エレンがゆっくりと顔を上げた。


「昨日、来てくれてありがとう」

「……こちらこそ。ありがとうございました」

「また、誘っていい?」


 エレンは、少しだけ間を置いてから、小さく頷いた。


「はい。……真奈美さんが、よければ」


 その呼び方が、朝の光の中で優しく響いた。真奈美は「うん」と答え、ドアまでエレンを見送った。門を出る彼女の後ろ姿を見送りながら、真奈美は昨夜から今朝までの時間を、静かに胸にしまっていた。

 広い家に、再び一人の時間が戻ってくる。

 でも昨夜までの空白とは、少しだけ質が違っていた。

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