第7話 柚香と真奈美、秘密の名前
雨音がただひたすら部屋を満たしていく。
柚香は俯いたまま、自分の膝の上で手を重ねていた。さっきまで口に出していた言葉が、まだ喉の奥に残っている。「なのに……斉藤さんには、どうしてか……」。そこまでしか言えなかった。続きを言えば、もう後戻りはできない。隠し続けてきたものを全部出してしまうことになる。
指先がわずかに冷えていた。
言わなくてもいい。このまま雨が止むまで何も話さずにいれば、きっと今まで通りでいられる。彼女は優しくて、無理に踏み込んでこない。沈黙を嫌なものとしない人だ。だから、ここで止めてもよかった。
なのに胸の奥が拒んでいた。
この人にだけは知ってほしいような、知られたくないような、矛盾した気持ちが沈んでいる。羽を見られたあの日から、ずっとこの感覚が消えない。怖いはずなのに、この人の前ではその怖さが少しだけ形を変える。壊れそうで、それでも近づいてしまう。
柚香は小さく息を吸った。
「……私は、普通の人間じゃ、ありません」
声が雨音に紛れそうなほど細かった。彼女は動かなかった。ただ静かにこちらを見ているのが、気配でわかった。急かさない。否定もしない。ただ聞いている。その態度が柚香の背中をわずかに押した。
「母が……天界の者で。父は、人間でした。私はその半分ずつを持って、生まれました」
言葉にするたびに、胸の奥がきゅっと締まる。今まで誰にも話したことがない。自分のことを知っているのは母と……父、のみ。あとは昔の……。この事実を自分から誰かに伝えたのは初めてだった。口にした瞬間自分がとても遠くにいるような、奇妙な感覚がした。
「私は天使……の半分です。本当の名前は……エレニア・アルマ。天園柚香は、人間界での名前です」
彼女が小さく息を飲んだのがわかった。驚いている。当然だった。それでも席を立つ気配はない。逃げない。そのことが、柚香の目の奥を熱くした。
「不思議な力も、持っています。背中から羽が出るのも、その一つです。あの日、斉藤さんに見られてしまったもの……私の意志とは関係なく、出てしまうことがあります。感情が大きく動くと」
柚香はそこで一度言葉を切った。赤いリボンが置かれた机の上を、ぼんやりと見る。子供の頃からもらったままの、少し色の落ち着いた赤。触れていたら落ち着くはずのものが、今は少し遠く感じられた。
「もう一つ……他の生き物の、生命力に触れる力も、僅かにあります。人に対しては、ほとんど効果がないくらい弱いものです。でも、使うと、自分の中からも何かが削られていくような気がして……母からは、絶対に使うなと言われてきました」
声が途中で掠れた。柚香は唇を噛んだ。ここからが一番言いにくい部分だった。
「昔……力を、抑えきれなかったことがあります。近づいただけで、相手を怖がらせてしまったり。助けたいと思っただけで、自分でも制御できないものが動いてしまったり。そのたびに、私は『近づくと壊してしまう』と思うようになりました」
少し間を置いて、俯いたまま続ける。
「……結果的に、周りから離れていって。私のせいでした。だから、人とは深く関わらない方がいいって。一人で保健室にいる方が、楽だったんです」
雨音が一時的に強くなった。窓ガラスを打つ音が、部屋の静けさを強調する。柚香は俯いたまま、自分の指先を見つめていた。震えている。情けないと思う。こんなにも怖がっている自分が、恥ずかしかった。
「なのに……斉藤さんには、どうしてか、拒めなくて。声をかけられると、嬉しくなってしまって。羽を見られても、『きれい』って言ってくれて……怖がられなくて。それが、とても……」
続きが出なかった。それどころか少し、目の前が霞んで見えてきた。
嬉しい、のか。怖い、のか。どちらも真実で、どちらも嘘ではなかった。柚香はそこで言葉を失った。もう十分に話してしまった気がする。これ以上何か言えば、本当に何も残らなくなるような、奇妙な空虚さが胸に広がっていた。
沈黙が落ちた。
雨だけが規則正しく降り続いている。柚香は顔を上げられなくて、ただ俯いたまま待った。拒絶されるなら今だろう。笑い出されるなら今だろう。席を立つ音が聞こえるなら、今だろう。そう思って、耳を澄ませていた。
けれど彼女は動かなかった。
しばらくして、静かな声がした。
「……エレニア・アルマ」
自分の本名を彼女の声で呼ばれる。柚香はびくりと肩を震わせた。顔を上げるのが怖かった。それでも、ゆっくりと視線を持ち上げる。
彼女は、正面からこちらを見ていた。驚いた色は確かに目にある。でも、それは怖がっている色ではなかった。何か大切なものに触れたときのような、静かで真剣な目だった。
「ハーフなんだ。羽も、力も、持ってるんだね」
短く、事実を確認するように言ってから、彼女は小さく息を吐いた。それから、少しだけ柔らかく口角を上げた。
「でも、それで?」
柚香は、目を瞬いた。
「……え」
「羽が出ても、力を持ってても。天園さんは天園さんでしょ。今までと何か変わるかな?」
その言葉が胸の奥にまっすぐ落ちてきた。柚香は、うまく呼吸ができなくなった。変わらない、と言われてる。怖がられていない。避けられていない。ただ、いつもと同じように、そこにいてくれている。
彼女は少し身を乗り出した。
「びっくりはしたよ。正直。でも、嫌いとか怖いとか、そういうんじゃない。あの日、羽を見たときも思った。きれいだったって。今も、同じ」
柚香の目の奥がまた熱くなった。涙が溢れるほどではない。ただ、何かが溶けるような感覚があった。長年張り詰めていたものが、ゆっくりと緩んでいく。
彼女は少し照れたように視線を泳がせてから、続けた。
「それに……本名、聞けたし。エレニア・アルマ。素敵な名前だね」
柚香は俯いてしまった。頰が熱い。名前をそうやって繰り返されることに、慣れていなかった。母親以外に、この名前を呼んでもらったことはない。
彼女は、そこで少しだけ首を傾げた。
「エレニア……じゃあ、エレンって呼ぶのかな? うーん、今まで『天園さん』だったし……だったら、アルマの方が自然なのかな」
その言葉が落ちた瞬間、柚香の胸の奥が大きく揺れた。
アルマ。苗字で呼ばれる感覚に近い。丁寧で、距離のある響き。間違ってはいない。なのに、なぜか強く否定したくなった。自分でも意外なほど、はっきりとした感情が先に立った。
柚香は顔を上げた。
目の奥が熱くて、視界が少し滲んでいる。涙がこぼれない程度に溜まっていた。声は掠れてうまく出ない。それでも、小さく首を横に振った。
「……違います」
彼女が驚いたように目を見開く。
柚香は自分の膝の上で指を強く組みながら、続けた。涙が、片方の目からゆっくりと落ちた。止めようとしても止まらなかった。
「エレン、って……呼んでほしいです」
自分でも、こんなにはっきりと望むとは思っていなかった。エレニア・アルマ。長い名前でも、アルマでもなく。彼女がさっき自然に口にした「エレン」という響きが、どうしても捨てられなかった。距離が縮まる音。自分だけに向けられる音。それが欲しかった。
「……エレン、で、お願いします」
もう一度、涙の声で繰り返す。柚香は俯いたまま、肩を小さく震わせていた。恥ずかしさも、怖さも、全部ごちゃ混ぜになって溢れている。それでも、撤回しようとは思わなかった。
彼女はしばらく黙ってこちらを見ていた。
そしてゆっくりと、優しく笑った。
「……わかった。エレン」
その一声が、胸の奥にまっすぐ落ちてきた。柚香はうまく息ができなかった。名前を呼ばれただけなのに、何かが決定的に変わってしまったような気がした。秘密を話した。受け取ってもらえた。そして今、望んだ名前で、呼んでもらえた。
彼女は少しだけ視線を逸らしてから、続けた。
「それと……私も、もう『斉藤さん』じゃなくていいよ。真奈美、って呼んで」
柚香は、また顔を上げた。今度は別の意味で、胸が揺れた。
「……真奈美、さん?」
「『さん』はいらない。真奈美でいい」
彼女は、照れを隠すように短く言った。でも、目は真剣だった。片方が名前を変え、もう片方もそれに応じる。対等になりたいという、静かな申し出だった。
柚香は唇を小さく開いたまま、しばらく動けなかった。呼び捨てに近い形で名前を呼ぶこと。今まで、意識的に避けてきた距離の縮め方。それを、先に提案された。頭ではわかっていても、すぐにその距離に踏み込むことができなかった。
「……ごめんなさい」
俯きながら小さな声で続けた。耳まで赤い。
「……今は、まだ。真奈美さん、って呼ばせてください」
自分でも、食い下がっているのがわかっていた。でも、どうしても「さん」を外すことができなかった。急に距離が近くなりすぎて、胸がざわつく。彼女はそれを聞いて、一瞬だけ呆れたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。
「……ぷっ。わかった。じゃあ、今はそれでいいよ」
「……はい」
柚香は安堵したように肩の力を抜いた。真奈美さん。まだ「さん」がついている。それでも、もう「斉藤さん」ではない。その小さな変化だけでも、今夜の自分には十分すぎるくらいだった。
いつか、本当に「真奈美」とだけ呼べる日が来るのかもしれない。
今はまだその手前でよかった。
雨音はまだ続いていた。
なのにもう、さっきまでの冷たさはどこにもなかった。
柚香は初めて知る感覚に戸惑っていた。
安心、という言葉が近い気がした。誰かに全部を知られたうえで、それでもここにいていいと思える感覚。今まで、一度も持ったことがなかったもの。それがこの人の隣で、ゆっくりと広がっていく。
彼女は窓の外に目をやった。
「雨、まだ降ってるね。もう少ししたら、止むかも」
「……はい」
短い返事しかできなかった。でも、それでよかった。今は何も上手に話せなくていい。ただ、この人が隣にいてくれることだけを、確かめていたかった。
赤いリボンが机の上で静かに光を受けている。
柚香はそのリボンを見たまま、もう一度だけ心の中で名前を繰り返した。エレニア・アルマ。そして、彼女が呼んでくれた「エレン」。どちらも、自分だ。どちらも、今は否定しなくていい。
雨はまだ降っていた。
でも、もう怖い雨ではなかった。




