第6話 真奈美と柚香、雨の部屋で
放課後の空はまだ明るかった。
校舎を出ると、西の空が淡く色づき始めている。生徒たちの声が正門のあたりで散らばり、徐々に遠ざかっていく。真奈美は鞄の肩紐を持ち直し、隣を歩く柚香の歩調に合わせた。
テストが終わってからの数日、二人で帰る時間が自然と増えていた。特別に約束をしたわけではない。気がつけば並んで正門をくぐっている。柚香は相変わらず言葉少なめだったが、真奈美の隣を歩くこと自体を拒まなくなっていた。
赤いリボンが風に揺れて長い髪が時折肩に落ちる。その横顔を真奈美は時々ちらりと見るようになっていた。
「今日は天気いいね」
真奈美がそう言うと、柚香は小さく頷いた。
「はい。……穏やかです」
空はまだ青く、雲も多くはなかった。風は柔らかく、制服の裾を優しく揺らす程度だ。帰り路にしてはずいぶんと過ごしやすい午後だった。
しかし、その穏やかさが崩れるのに時間はかからなかった。
風が急に冷たくなり、空の色が一気に暗くなる。遠くで低い音がしたかと思うと、雨が落ちてきた。最初はパラパラとした雨粒だったものが、ほんの数十秒で容赦ない豪雨に変わる。青かった空があっという間に灰色に塗りつぶされていく。アスファルトが白く煙り、視界が急速に狭くなる。制服がすぐに重くなり、髪が肌に張りついた。
「えーっ……なんで! 急だね!」
真奈美が声を上げる。柚香はすでに両手で頭を覆うようにして、小さく身を縮めていた。雨粒が頰を打ち、視界の端で水しぶきが白く跳ねている。近くに屋根のある場所は見当たらない。
柚香が雨の中で顔を上げた。
「……斉藤さん。ここからならうちが、近いです。よかったら、うちに行きましょう」
提案する声は小さかったがはっきりとしていた。真奈美は一度驚いたように目を見開いたあと、すぐに頷いた。以前、勉強をしに訪れた家だ。位置は把握している。迷う理由はなかった。
「そっか、うん、行こう」
二人は無言で走り出す。靴の中に水が入り、足元が重い。それでも柚香の家を目指して雨の中を進んだ。真奈美が先に角を曲がると、柚香がそれに続く。すでに一度来た道は、雨に煙っていてもすぐに思い出せた。
門扉にたどり着いたときには、すでに全身がびしょ濡れだった。
柚香が鍵を開ける手は少し震えていて、真奈美は後ろで雨を浴びながら待った。ドアが開くと、二人はほぼ同時に中へ滑り込む。玄関に水が滴り落ちる音が、静かな家の中に響いた。
「……お母さん、まだ帰ってないみたいです」
柚香が短く告げると、真奈美は安堵と緊張が同時に胸をよぎるのを感じた。誰もいない家。びしょ濡れの二人。状況が状況だけに、気恥ずかしさが先に立つ。
柚香は濡れた髪を指で払いながら、静かに言った。
「……このままですと、風邪をひいてしまいます。部屋で、着替えましょう」
真奈美は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。柚香から先にそう言われるとは思っていなかった。いつも控えめな彼女が、状況を判断して提案してくれることに、小さな温かさを感じる。
「……うん。そうだね」
二階の部屋に上がると、柚香はクローゼットから淡い色の部屋着を二セット取り出した。真奈美に一組を渡し、自分は少し離れた位置で動き始める。濡れた制服を脱ぎ、タオルで髪を押さえる動作はどこまでも丁寧だった。
真奈美も自分の制服を脱ぎ始めたが、ふと視線を上げた瞬間、動きが止まった。
柚香が背を向けて、濡れたブラウスを肩から滑らせているところだった。白い肌に、雨で湿った長い髪が張りついている。肩甲骨のラインが、薄い光の中ではっきりと浮かび上がっていた。華奢なのに、どこか芯のある体つき。腰のくびれが、部屋着を手に取ろうとする動作のたびに、静かに動く。
真奈美はどきりとした。
胸の奥がひとつ大きく鳴った。理由は自分でもすぐにわからなかった。ただ、今まで「細い」「華奢」としか思っていなかった柚香の体が、急に近くて、生々しく感じられた。見てはいけないものを見てしまったような、申し訳なさと、目が離せない感覚が同時に走る。
柚香が振り返りかけたので、真奈美は慌てて視線を逸らした。
「斉藤さん?」
「……ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
「……大丈夫ですか?」
柚香の声はいつものように静かだった。ただ、耳の先端がわずかに赤い気がした。真奈美は自分の頰も熱いのに気づき、タオルで顔を覆うようにして髪を拭いた。
不思議な鼓動がまだ胸の中に残っている。
着替えたあと、柚香は「お風呂、先に使ってください」と真奈美に勧めた。真奈美は一度遠慮したが、柚香が「私は後で」と静かに繰り返すので、結局先に入ることにした。湯気の中で、先ほどの光景が何度も浮かぶ。柚香の白い肩。雨に濡れた髪。静かに動くライン。湯船に浸かりながら、真奈美は自分の顔を両手で押さえた。
(……なんだろ、今の)
説明のつかない感覚だった。嫌な感情ではない。むしろ、どこか甘い。なのに落ち着かない。柚香のことが「気になる」という気持ちが、これまでとは違う層に触れた気がした。
風呂から上がると柚香はすでに着替えていて、タオルで自分の髪を丁寧に拭いていた。真奈美が「ありがとう」と声をかけると、柚香は小さく頷き、今度は自分が浴室へ向かった。
一人残された部屋で真奈美は窓の外を見た。
雨はまだ激しく降っている。ガラスを打つ音が、規則正しく続いている。さっきまでの寒さと今の部屋の温もりが、妙に対照的だった。柚香の部屋着は少し小さめで、袖が短く感じられる。そのことにも、意識が向いてしまう自分が少し可笑しかった。
浴室から出てきた柚香は、髪をゆるく束ねていた。赤いリボンは外され、机の上に丁寧に置かれている。リボンのない柚香は、どこか幼く見えた。真奈美はクッションに座り直しながら、自然と口を開いた。
「雨、すごいね。あんなに急に降るなんて」
「……はい。天気予報も、外れていました」
短いやり取りのあと沈黙が落ちた。嫌なものではなかった。ただ、いつもの沈黙より少しだけ重みがある。柚香は自分の膝の上で手を重ね、時折、窓の外に視線を向けていた。
しばらくして柚香が小さく息を吸った。
真奈美はそれに気づき黙って待った。柚香が何かを言おうとしているのがわかったから。いつもの「はい」「いいえ」ではない、もう少し長い言葉が、喉の奥で準備されている気配があった。
柚香は視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……斉藤さん。私、ずっと……人に近づかないようにしていました」
声は細く、雨音に紛れて消えそうだった。真奈美は体を少しだけ前に傾けた。促すようには言わない。ただ、聞いていることを、姿勢で示す。
柚香は続けた。
「近づくと、何かが……壊れてしまいそうで。自分が、相手を困らせてしまいそうで。だから、保健室にいる方が、楽だったんです」
そこまで言って、柚香は一度言葉を切った。赤いリボンが置かれた机の上をぼんやりと見ている。指先が膝の上で小さく動いた。
真奈美は、胸の奥で先ほどの鼓動を思い出した。
びしょ濡れになって駆け込んだこと。着替えたときの、あの一瞬。そして今、柚香が重い口を開き始めていること。全部が一本の線で繋がっていくような感覚があった。雨音が、部屋を優しく包んでいる。このままもう少しだけ、この時間にいられたらいい——そう思う自分が、確かにいた。
柚香はもう一度小さく息を吐いた。
「なのに……斉藤さんには、どうしてか……」
続きはうまく出てこないようだった。柚香は俯いたまま、唇をきゅっと結んでいる。真奈美は、無理に言葉を引き出そうとはしなかった。静かに頷くだけ。
窓の外では雨がまだ止む気配を見せていない。
二人の間に落ちた沈黙は、先ほどのものより少しだけ柔らかかった。柚香が心の奥を、ほんの少しだけ開きかけている。そのことが真奈美の胸に、さっきとは違う種類の温もりを残していた。
この話はまだ続きそうだった。
雨が止むまでもう少しだけ——真奈美はそう思いながら、柚香の横顔を静かに見つめていた。




