第5話 真奈美と柚香、テスト勉強
中間テストが近づくと、教室の空気は少しだけ忙しないものに変わった。
放課後の廊下を歩きながら、真奈美はプリントの束を鞄に押し込み小さく息を吐いた。数字の羅列が頭の中でうまく線にならない。公式は覚えている。なのに、応用問題になると途端に手が止まる。運動部の友人たちが「まあなんとかなるっしょ」と笑う声が、後ろから聞こえてはすぐに遠ざかっていく。
その軽さが、かえって胸の奥に小さな影を落としていた。
そんな真奈美の焦りに気づいたのは、柚香だった。
翌日、お昼休みに保健室でテスト勉強をしていたとき、真奈美がプリントを見つめる横顔を、柚香はしばらく黙って見ていた。真奈美はページの端を指で押さえ、何度も同じ箇所に目を走らせている。うまく理解できないものがあるときのいつもの仕草だった。
柚香は静かに声をかけた。
「……斉藤さん。テスト、大丈夫ですか」
真奈美は顔を上げ少し困ったように笑った。
「全然ダメだよ。公式は覚えるんだけど、問題になると頭が真っ白になるんだよね。運動ならなんとかなるのに、勉強だけはどうにも苦手で」
正直な告白だった。誇張するでもなく、自嘲するでもなく、ただ事実として差し出すような話し方。柚香はそれを聞いて軽く目を伏せた。否定も励ましも、すぐに口には出さなかった。ただ、真奈美の手元にあるプリントを一瞬だけ視線で追った。
そしていつもの丁寧な声で、小さな提案をした。
「……もしよかったら、うちで一緒に勉強しませんか」
真奈美は思わず立ち止まった。
柚香の家に行く。それがどれほど特別なことなのか、自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、断りたい気持ちは全くなかった。
「……いいの?」
「はい。私、教えるのは……少し、得意なので」
柚香は視線を落としたままそう答えた。赤いリボンが、廊下の光を受けて小さく揺れていた。
週末の午後、真奈美は柚香から教わった住所を頼りに、住宅街の静かな一角へ向かった。
道は整っていて、木々の影がアスファルトに落ちている。門扉の前で一度足を止め深呼吸をした。呼び鈴を押す指がわずかに緊張で強ばる。自分がこんなに緊張するタイプだとは、今まであまり思ったことがなかった。
チャイムの音が家の奥に消えていく。
少ししてドアが開いた。
出てきたのは柚香――ではなかった。
穏やかな表情の女性だった。年齢は四十代前半くらいだろうか。髪は柚香と同じく淡い色をしていて、目元にどこか似た柔らかさがある。その瞳は左右どちらも澄んだスカイブルーだった。オッドアイの柚香とは違い、揃った青い目が静かに真奈美を見つめている。
彼女はエプロンをつけたまま真奈美を見て、優しく微笑んだ。
「あら、斉藤さんですね。ようこそ。柚香が待っています」
声のトーンが、驚くほど落ち着いていた。真奈美は慌てて頭を下げる。
「はい……斉藤真奈美です。お邪魔します」
「どうぞ、上がって。柚香——」
奥から小さな足音がした。柚香が廊下に現れる。私服は淡い色のワンピースで、赤いリボンは変わらず髪に結ばれていた。家の中にいる柚香は、学校で見るよりも少しだけ力の抜けた表情をしていた。
「……どうぞ」
柚香は真奈美を自分の部屋へと案内した。
部屋は想像よりもシンプルだった。窓が大きく、カーテンが風でわずかに揺れている。机の上には参考書がきれいに並べられ、床にはクッションが二つ置いてある。余計なものが少なく、それでいて冷たくはない。真奈美は鞄を下ろしながら、思わず周囲を見渡した。
「いい部屋だね」
「……ありがとうございます」
柚香は窓際の席を真奈美に譲り、自分は少し離れた位置に座った。距離の取り方が、いつもの柚香らしかった。近すぎず、遠すぎず。真奈美が動きやすいように、あらかじめ余白を作っているように見える。
勉強は予想以上に静かで、丁寧なものだった。
柚香は声を荒げず、焦らせず、真奈美がつまずいた箇所を一つひとつ指でなぞりながら説明した。数学の公式を、図に書き直して見せる。歴史の年号を、因果関係で結び直して見せる。真奈美が「わかった」と言っても、すぐに次に進まず、もう一度確認するように問題を出してくれる。
その姿を横目で見ながら、真奈美は何度も手が止まった。
柚香の横顔は、集中しているとき、学校で見るよりもずっと落ち着いていた。長い髪が頰に触れないように、時折耳にかける仕草。赤いリボンがそのたびに小さく動く。説明している最中の声は、普段よりも少しだけ低めで聞き取りやすい。
「……ここは、こう考えるとわかりやすいです」
柚香がノートに図を描く。真奈美はその手元を見つめた。指先が丁寧で、線がぶれない。自分がどれだけ雑に書いていたかを、改めて思い知らされる。
「天園さん、教えるの上手いね」
思わず漏れた言葉に、柚香はわずかに目を伏せた。
「……母に、少し教わりました。昔から」
「お母さん?」
「はい。わかりやすく説明するのは……大事だって」
そのとき、ドアが軽くノックされた。
「柚香、紅茶にする?」
母親の声だった。柚香が「はい」と小さく返すと、しばらくしてトレーを持った柚香の母――天園真柚が入ってきた。ティーカップと小さく切られたパウンドケーキ。紅茶の香りが穏やかに部屋に広がる。
「勉強の邪魔にならない程度にね」
真柚はそう言って二人の間にカップを置いた。真奈美が礼を言うと、真柚は柔らかく目を細めた。
「うちの子がお世話になってます。引っ込み思案な子で……友達が来てくれるの、本当に嬉しいみたい」
声に深い愛情が滲んでいた。誇張した言い方ではなく、ただ自然に娘のことを大切に思っているのが伝わってくる。真奈美はその温度に、思わず胸の奥が温かくなった。
「お母さん」
柚香が小さな声で止める。頰がわずかに赤い。真柚はそれを見てたしなめるでもなく、ただ優しく肩をすくめた。
「じゃあ、私は下にいるから。何かあったら呼んで」
ドアが閉まる音がして、部屋に再び静けさが戻る。紅茶の湯気の向こうで、柚香は俯き気味にカップを手に取った。母親の前では、学校で見せるよりも少しだけ子供っぽい反応をするのだな、と真奈美は思った。
「お母さん、優しいね」
「……はい。いつも、そうです」
柚香の答えは短かった。でも否定ではなかった。真奈美はカップを両手で包みながら、部屋の空気を改めて感じた。騒がしくない。無理に明るくしようともしていない。ただ、そこにいていいような温度が、確かにあった。母親の存在がこの家の空気を穏やかに支えているのがわかった。
勉強を再開してからも、柚香の教え方は変わらなかった。
真奈美が同じところで何度つまずいても、ため息一つつかない。ただ、別の角度から説明し直してくれる。時折、真奈美のノートを覗き込みながら「ここ、もう一度書いてみますか」と提案する。その声の優しさが、胸の奥にじわじわと染み込んでくる。
(……なんでだろう)
真奈美は問題を解くふりをしながら、柚香の横顔を盗んだ。
優しい。それはわかっていた。でも、ただ優しいだけではない気がする。自分の苦手な部分を否定せずに受け止めてくれている。その受け止め方が、どこか特別に感じられた。スポーツなら自信がある。人とのやり取りもそこまで苦手ではない。なのに、勉強という一点だけで情けなくなっている自分を、柚香は当たり前のように支えてくれている。
その事実が、胸の奥を小さく熱くした。
夕暮れが近づくと、部屋の光が少しずつ変わった。
オレンジがかった陽射しがカーテンを透かして入り、机の上に長い影を落とす。柚香がペンを置く音がして、真奈美も手を止めた。予定していた範囲はなんとか一通り終わっていた。完璧とは言えない。でも一人でやるよりはずっと前に進めた実感があった。
「……助かったよ。本当に」
真奈美が素直に言うと、柚香は小さく首を振った。
「私は、何も」
「何も、じゃないよ。天園さんがいてくれたから」
柚香はその言葉にすぐには返事をしなかった。赤いリボンの端を、無意識に指で摘まんでいる。夕陽が横顔を淡く照らしていて、オッドアイの色がいつもより少しだけはっきりと見えた。スカイブルーの方が穏やかで、クリムゾンレッドの方が、どこか遠くを見ているように揺れていた。
そのとき柚香の表情が、ほんの一瞬だけ沈んだ。
真奈美にはそれがわかった。何かがよぎったのだと思う。過去の何かに触れてしまったような、小さな影。すぐに消えるほど短くて、でも確かにそこにあった。柚香はすぐにいつもの丁寧な表情に戻したけれど、真奈美の胸にはその一瞬が残った。
「……また、来てもいい?」
真奈美は自分でも意外なほど自然にそう聞いていた。
柚香は目を丸くして、それからゆっくりと頷いた。
「……はい。斉藤さんが良ければ……いつでも」
その声は小さくて、でも拒む色はなかった。
下の階で、真柚が何か食器を動かす音がした。穏やかな生活音。この家の空気は確かに温かかった。真奈美は鞄を整えながら、もう一度だけ部屋を見渡した。シンプルで静かで、柚香という人間がそのまま形になったような場所。
玄関まで見送られたとき、真柚が再び顔を出した。
「また来てね。柚香、喜んでるから」
「お母さん……」
柚香が恥ずかしそうに声を細める。真奈美は笑って頭を下げた。門を出るとき、振り返ると柚香がまだ玄関に立っていた。赤いリボンが、夕陽を受けて小さく光っている。
帰り道、真奈美は空を見上げた。
勉強の内容より、柚香の横顔の方が強く残っていた。優しく教えてくれる声。紅茶の香り。母親の穏やかな笑顔。そして一瞬だけよぎった、小さな影。
全部が胸の奥に静かに沈んでいく。
また会いたい、と明確に思った。
勉強のためだけではない気持ちがすでに混じっていることにも、薄々気づいていた。




