第4話 柚香と真奈美、静かな不安
夜の部屋は、昼間よりもずっと静かだった。
カーテンの隙間から漏れ入る街灯の光が、床に細い線を引いている。その光は動かない。風がないのか、カーテンさえほとんど揺れていない。
柚香はベッドの端に座ったまま、膝の上で手を重ねていた。長い髪が頰に落ち赤いリボンの端が指先に触れている。一日の終わりにこの感触だけが確かにそこにあるように感じられた。
今日という日がまだ体のどこかに残っていた。
放課後の空き地。草の匂い。風の音。そして、突然背中に広がってしまった白いもの。自分でも制御できないそれが彼女の目の前で現れてしまった瞬間の感覚が、今も背中の奥に残っている。驚いた拍子に出てしまった天使としての羽。隠さなければならなかったもの。それを彼女はすぐに理解したように抱きしめてくれた。
腕の中に収まったときの温度がまだ肌に残っているような気がした。
強くはなかった。ただ、確かだった。背中を覆うように回された腕の感触。羽根が一枚残らず隠されるまで、離そうとしなかった力の入れ方。そして耳元で囁かれた言葉。
『……とってもきれいだったから』
その声が静かに繰り返される。褒めてくれたのだと思う。怖いものとしてではなく、ただ「きれい」だと。あの瞬間、恐怖と安堵が同時に胸の中で混ざり合って、何も言えなくなってしまった。自分が何を思っているのか、自分でもよくわからなかった。抱きしめられているあいだ、柚香はただ俯いたまま彼女の制服の生地の感触を確かめるように呼吸を繰り返していた。
柚香はゆっくりと俯いた。
久しぶりに誰かにあんな風に声をかけられた。入学してからずっと教室にはほとんど行けず、保健室で時間を潰す日々だった。誰かと昼を食べることも、普通に並んで歩くことも、遠いくらいに感じられていた。
それが、あの人と出会ってから少しずつ変わり始めている。
朝の空き地で初めて声をかけられたときのこと。明るくて迷いのない声。自分の名前を丁寧に繰り返してくれたこと。手を差し伸べられたとき、指先が意外なほど温かかったこと。あのときの自分は、きっと少し驚いただけではなかった。久しぶりに「誰かと繋がっている」感覚を、小さく受け取ってしまったのだと思う。
嬉しい。
確かに嬉しい。
声をかけてもらえること。隣に座ってもらえること。当たり前のように「一緒に」と言ってもらえること。その一つひとつが、胸の奥で小さな灯りをそっとともす。保健室のベッドで一人で過ごしていた時間が、なんだか急に遠くなった気がした。
(斉藤さんの隣にいると、空気がちょっとだけ甘くなる)
騒がしくはないのに、静かすぎもしない。ただ、ここにいていいんだよ、とでも言われているみたいな、穏やかな余白がある。嬉しくて、でもちょっとだけ怖くて胸の奥がくすぐったい。
でも、同時に、やっぱり怖い。
羽を見られてしまった。絶対に知られたくなかった……もう。彼女は「誰にも言わない」と言ってくれた。その言葉はきっと嘘ではない。なのに、心のどこかが落ち着かない。次に会ったとき、あの目で見られるのではないか。そして遠ざかってしまうのではないか。
柚香は赤いリボンを指で摘まんだ。
子供の頃に母親からもらったリボン。特別な日だったかどうかは、もうよく覚えていない。ただ、そのときに「お守りだよ」と言われた言葉だけが、今も残っている。それ以来手放さずに身につけてきた。触れるたびに、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。今夜もその感触を確かめるように、指の腹で端をゆっくりと撫でた。
母は、人間ではない。
だから、私もそう。
知っている。母も、自分も。それでも、朝は「おはよう」で始まり、夜は「おやすみ」で閉じる。特別な言葉も大きな出来事もない。ただ静かな日々が、一枚ずつ重なっていく。
そのあまりに透明な日常は、まるで薄氷のようだった。表面は穏やかで、美しい。なのに、その下に沈んでいる違うものが、時折、くっきりと透けて見える。
彼女に羽を見られてしまった今、その異質さが、急に大きく感じられた。
部屋の空気が少し冷たく感じられた。
柚香は膝を抱えるようにして姿勢を変えた。長い髪が肩に流れ、リボンが小さく揺れる。窓の外では遠くで車の音がした。それ以外はほとんど何も聞こえない。この静けさが、今夜は少しだけ重い。昼間のざわめきや、彼女の声が、かえって遠くに感じられる。
また会いたい。
その気持ちははっきりとあった。
(また、斉藤さんに会いたい)
朝の空き地で声をかけられたときの、あの明るさ。昼休みに木陰で一緒に食べたときの、穏やかな時間。放課後に羽を隠してくれたときの、確かな腕の感触。どれも胸の奥に残っている。消えたくない温もりだった。あの人が笑っているところを、もう一度見たい。あの人が自分の名前を呼ぶ声をもう一度聞きたい。
でも、怖い。
また会えば、また何かが露わになってしまうかもしれない。
自分が壊れてしまうかもしれない。
相手を困らせてしまうかもしれない。
感情が揺れただけで抑えきれなくなる不安定さ。隠していたものが、意思とは関係なく外に出てしまう感覚。あのときの無力さが、今も背中の奥に残っている。
けれど、彼女は「きれい」と言ってくれた。
怖がらずに。拒まずに。ただそう言って受け止めてくれた。その言葉は、今も胸のどこかで、小さく温かい。
でも、次も同じように受け止めてもらえる保証はない。
一回目は偶然かもしれない。二回目は、負担になるかもしれない。そう思うと嬉しかったはずの感触が、同時に少しだけ痛くなる。近づきたい気持ちと、これ以上近づいてはいけない気持ちが、同じ場所で静かにせめぎ合っている。
柚香は目を閉じた。
まぶたの裏に彼女の顔が浮かぶ。明るくて少し抜けていて、でも観察する目だけは鋭い人。自分のことを、怖がらずに見てくれる人。それが嬉しいと同時に、怖い。近づきすぎてしまうと、もう後戻りできなくなりそうな気がする。このまま適度な距離を保ったままでいた方がいいのかもしれない。そう自分に言い聞かせても、胸の奥の灯りは消えない。
時間の経過が、わからなくなっていた。
街灯の光の線は相変わらず床に落ちている。柚香は目を開けその光をぼんやりと見つめた。指先でリボンの端を摘んだまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。吸う息は静かで、吐く息は少しだけ重い。胸の奥で、嬉しさと怖さがどちらも消えないまま、ゆっくりと重なり合っている。どちらが勝つでもなく、どちらが消えるでもなく、ただそこに在り続けている。
明日になれば、また朝が来る。
彼女に会うかもしれない。会わないかもしれない。本当は誰にも関わらずに保健室で一人で過ごす方が楽だ。それでも、胸の奥の小さな灯りは、簡単には消えそうになかった。
(斉藤さんが囁いた声が、まだ耳の奥に残っている)
あの温度がまだ背中に残っている。
柚香はリボンから手を離した。
そしてゆっくりとベッドに体を預けた。天井の暗がりを見上げながら、長い髪を枕に広げる。赤いリボンが頰の近くに落ちた。子供の頃からもらったままの、少しだけ色の落ち着いた赤。その感触だけを頼りに、柚香はもう一度だけ小さく息を吐いた。
また会いたいけど怖い。
その言葉は、結局声にはならなかった。ただ、胸の奥で静かに沈んでいく。夜の部屋は相変わらず静かだった。街灯の光だけが、動かない線を床に引き続けている。柚香はその光を見つめたまま、まぶたを閉じた。
いつまでも不安は消えない。
でも、その不安の隣に、確かに小さな灯りがともっていることも、今夜の柚香は否定できなかった。




