第3話 真奈美と柚香、天使の羽
放課後の光は朝のそれより一段と深く、すでに柔らかさを帯びて落ちていた。
校舎の影が長く伸び始めていて、アスファルトの表面はまだ熱を残しているのに、風だけがどこか涼しい。真奈美は正門を出ていつもの通学路を歩き始めた。生徒たちの声が徐々に遠ざかり、街の気配が少しずつ混じってくる。
通学路をしばらく進んだところで真奈美は足を止めた。
道の先から少し外れた場所に雑草の生い茂った空き地が見える。学校からはすでに距離があり、通学する生徒のほとんどが通り過ぎてしまうような、目立たない空間だった。その日から、真奈美はここを通るたびに、つい足を緩めてしまうようになっていた。
先週、あそこで一人の少女と出会った。
白い猫を撫でていた彼女の姿が、今でも目の奥に残っている。プラチナブロンドの長い髪が風に揺れ、赤いリボンが小さく揺れていたこと。こちらに気づいた瞬間の少し怯えたような目の動き。
真奈美は自分でもはっきりとした理由を持たないまま、また足を向けていた。
空き地に近づくにつれて草の匂いが濃くなる。夏の陽射しはまだ高いのに、ここだけは木陰が落ちていて、地面に細かい影がまだらに広がっている。風が通るたびに雑草の穂先がざわと揺れ、その音が周囲の喧騒を遠ざけるようだった。
そして、やっぱりいた。
柚香は小さな石の上に腰を下ろして、白い猫の頭を撫でていた。猫は目を細めて喉を鳴らし、彼女の膝に身を預けている。柚香の指はとても丁寧で爪の先が触れないように、そっと毛並みに沿わせていた。学校ではほとんど見ない力の抜けた横顔だった。
でも真奈美は、急に声をかけたくはなかった。
足音を消すように、草を踏む音さえも最小限に抑えて近づく。観察するときはいつもこうだ。相手が気づく前に、できるだけ長くその姿を見ていたい。柚香の長い髪が風に揺れ赤いリボンがひらりと光を受けている。オッドアイは伏せられていて、猫にだけ向けられている。空の色をした瞳と、深紅の瞳。普段はほとんど見ることのできない静かな表情。
もう少しだけ近づいてから、真奈美は口を開いた。
「天園さん」
柚香の肩がびくりと跳ねた。
振り返った瞬間、彼女の表情は完全に固まっていた。目が大きく見開かれ唇が小さく開いたまま動けない。猫も飼い主の急な動きに驚いたのか、一度立ち上がって耳を立てた。
そしてその次の瞬間だった。
柚香の背中から何かがふわりと広がった。
白い。
透き通るような純白の羽。
光を反射してまるで朝露をまとったように輝いている。大きさはそれほどでもない。背中から左右に、そっと広がった程度の大きさだ。でも、その存在感は圧倒的だった。羽一本一本の輪郭が、陽光に照らされてくっきりと浮かび上がり、風に揺れるたびに微かに震えている。柔らかくて、儚くて、触れればすぐに消えてしまいそうな質感。
真奈美は息を止めた。
美しすぎて一瞬、何も考えられなかった。ただ目の前にある白いものが、ゆっくりと空気を震わせているのを見つめていた。
柚香自身も自分の背中で起きていることに気づいていないようだった。驚いたまま、真奈美の顔を見つめたまま硬直している。羽はまるで彼女の感情に反応するように、小さく脈打つように揺れていた。
次の瞬間柚香の表情が変わった。
背中の異様な感触にようやく気づいたのだ。目を見開き、慌てたように両腕を後ろへ回す。大きな羽に指先が触れた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「……っ、こんな……!」
声が裏返る。柚香は羽を隠そうと意識を集中させようとした。しかし羽は彼女の意思などお構いなしに、まばゆい光を広げたまま小さく震え続けている。折り畳もうとしても思い通りにならない。隠せない。
「しまって……どうして……今は……ダメ!」
焦りで呼吸が浅くなる。肩が小刻みに上下し、頰から耳にかけて赤みが一気に広がった。真奈美の前でしかもこんな場所で、自分の羽を出してしまったことへの狼狽が、彼女の小さな体を強張らせていた。
そのとき、空き地の端から複数の足音が近づいてきた。
男子生徒たちの声が草のざわめきに混じって聞こえる。通学路を少し外れて、こちらへ来ようとしている。距離はまだある。でもこのままではすぐにこの場所に到達する。
柚香の羽はまだ消えていない。
真奈美の体が頭より先に動いた。
一歩踏み込み、真奈美は柚香の細い体を正面から抱きしめた。
そのまま、自分の体全体で彼女を覆うように身を寄せる。輝く羽が外に露わにならないよう、真奈美は胸と両腕だけでなく、肩から腰までを密着させて柚香をすっぽりと自分の影の中に収めた。羽の厚みと広がりを、自分の制服の内側に押し込むようにして隠す。柚香の頭が真奈美の肩に収まり、プラチナブロンドの髪が頰に触れた。赤いリボンが真奈美の制服の襟元に軽く当たる。
柚香の体はびっくりしたように強張った。
でも、逃げようとはしなかった。
真奈美はさらに強く腕に力を込めて羽が完全に隠れるように体を密着させる。背中に広がっていた白いものが、自分の腕の中に収まっていく感触が、はっきりと伝わってきた。
近くで触れたからわかる。
これは実際の羽ではなかった。
光が羽の形を借りているだけのような実体の薄い翼。触れれば消え入りそうなほど柔らかく、温かくて、ひどく儚い。輪郭が肌に触れるたびに微かな熱だけが伝わってくる。指先をすり抜けてしまいそうなのに温度は確かに残る。冷たくはない。人肌に近い消えかけの熱だった。
真奈美はその感触を腕の中に閉じ込めながら、壊れ物を扱うようにただ強く抱きしめていた。
男子たちの足音が、さらに近づく。
「あれ、誰かいる?」
「あ、斉藤じゃん」
「こんな所で二人で何してんだよ」
真奈美は、顔を上げずに短い言葉だけ返した。
「……猫と密着して遊んでただけ」
声が少し掠れた。緊張しているのか、興奮しているのか、自分でもわからない。けれど腕の中で柚香の呼吸が浅く速くなっているのがわかる。肩が小さく震えている。
「へー。猫か」
「かわいいな」
「でも斉藤が抱きついてんの見てんの、なんか気まずいだろ」
笑い声が少し聞こえて足音は徐々に遠ざかっていった。通学路の方へ戻っていくようだ。草を踏む音が次第に小さくなり、やがて周囲に元の静けさが戻ってくる。
真奈美は、柚香を抱いたまま動かなかった。
背中に触れている羽の感触が徐々に薄れていく。それは儚く消えていくように。最後の一枚が肌に触れた瞬間、真奈美は小さく息を吐いた。腕の中の温もりだけがまだ残っている。
「……あ、あの」
柚香の、恥ずかしさに掠れた声が聞こえた。
その声に真奈美はようやく我に返った。自分があまりにも長く抱きしめてしまっていることに気づき、慌てたように腕を緩める。でも完全には離さなかった。両手を柚香の肩に置いたまま少しだけ距離を取る。柚香は俯いたまま動かない。耳まで赤くなっているのが長い髪の隙間から見えた。肩が小さく上下している。呼吸がまだ浅い。
真奈美は彼女の耳元に顔を近づけた。
声はできるだけ低く、柔らかくして。
「……急にごめんね。でも、とってもきれいだったから」
自分でも今の言葉が少しおかしかったように感じた。綺麗だったのは本当だったけど、抱きしめたまま動かなかった自分の行動が気恥ずかしくなってくる。それでもあの羽の美しさを伝えずにはいられなかった。
柚香の体がまた小さく震えた。
真奈美はそれ以上何も言わなかった。ただ、肩に置いた手のひらにわずかに力を込めて、そこにいることを伝えた。柚香は俯いたまま唇をきゅっと結んでいる。頰から首筋にかけてほんのりと赤みが差している。普段の丁寧な敬語も今は出てこないようだった。
沈黙が穏やかに落ちた。
白い猫が二人の足元で小さく鳴いた。さっきまでの緊張が解けたのか、再び柚香のスカートの裾に体を擦りつけている。柚香はその感触に気づいたように、ゆっくりと視線を下ろした。指先が猫の頭に触れる。いつもの丁寧な仕草に戻ろうとしているのがわかった。
真奈美は草の上にぺたんと座り込んだ。制服のスカートが土で汚れても気にしない。猫がすぐに寄ってきて、膝の上に乗ろうとするのを片手で受け止めながら柚香の方を見上げる。
柚香は少し躊躇してから、真奈美の隣に小さく腰を下ろした。距離はさっき抱きしめたときよりもずっと離れている。でも完全に離れようともしていない。風が二人の間を通り過ぎ、柚香の長い髪が揺れて赤いリボンがひらりと舞った。
真奈美はそのリボンをぼんやりと見つめた。
柚香は俯いたまま自分の膝の上で指を絡めている。肩の力が少しずつ抜けていくのがわかった。先ほどまでの強張りがゆっくりと解けていく。真奈美は何も急かさなかった。ただ隣に座って、草の匂いを吸い込んでいた。
やがて柚香が小さな声を漏らした。
「……ありがとうございました」
真奈美は横顔だけ向けて短く応じた。
「いいよ」
それ以上の言葉は必要ないように思えた。柚香は俯いたまま、もう一度小さく頷いた。耳の赤みはまだ残っているけれど、さっきまでの硬さは消えている。胸の奥で安堵と戸惑いが混じり合っているのが、肩の動きから伝わってきた。
風が、また雑草を揺らした。
夕暮れが近づいてきているのか空き地の影が少しずつ長くなっている。猫は柚香の膝の上で丸くなりすでに小さないびきを立て始めていた。真奈美は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていくのが見える。腕の中に残っていた温もりが、まだ頰の内側に残っているような気がした。
きれいだった。
本当に、きれいだった。
そして抱きしめたときの、あの静かな温度。
真奈美は胸の奥にそれをしまい込んで、しばらくそのまま動かなかった。柚香も何も言わずに隣に座っている。言葉は少なくていい。ただここにいて、同じ風を浴びていれば、それで十分な気がした。
やがて真奈美が先に立ち上がった。
柚香も猫をそっと下ろして後に続く。二人の間に、先ほどまでの密着した距離はもうない。でも完全に他人同士の距離にも戻ってはいなかった。柚香が少しだけ前のめりになって、もう一度だけ短く礼を言った。真奈美は手を振ってそれを受け止めた。
空き地を出るとき真奈美は一度だけ振り返った。
草の揺れる音と、遠くで聞こえる通学路のざわめき。さっきまであった純白の羽の残像が、まだ目の奥に残っている。風が通るたびにあの温もりが胸の内側で小さく灯るような気がした。
柚香の赤いリボンが夕陽に照らされて、小さく輝いていた。
二人が並んで歩き始めると、猫が後ろからついてくるような気配がした。でも振り返ると、もう白い姿は見えなかった。ただ草の匂いだけが、いつまでも鼻先に残っていた。




