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第2話 真奈美と柚香、クラスメイトと

 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に柔らかくなった。

 窓から差し込む光が机の上をゆっくりと移動し、黒板の端に短い影を落としている。真奈美は自分の弁当を取り出しながら、窓際の席を見た。柚香の机は今日も静かだった。鞄すら置かれていない。柚香はやっぱり朝から教室には向かわず、直接保健室へ向かっていた。空白のまま残された机は、小さく主張しているように感じられた。


 真奈美は、弁当を持ったまま少し考えた。

 隣の席では佐藤詩歩がすでに席を立ちかけていた。ショートヘアを軽く振りながら廊下の方を見ている。ボーイッシュで活発な性格の詩歩は、クラスでは盛り上げ役だ。真奈美とはよく一緒にいる。もう一人の平川奏海は自分の机で弁当を広げかけていた。お姉さん気質で世話焼きな奏海は勉強も料理も得意で、いつも周囲を自然に気にかけている。

 真奈美は二人の様子を、しばらく黙って見ていた。

 今朝、空き地で声をかけた柚香のことを思い出す。プラチナブロンドの長い髪に赤いリボン。真奈美の方から一方的に話しかけたくらいでそんなに話しをした風ではなかったが、それでもなぜか気になってしまっていた。結局同じクラスだと知ったのもその時だった。まだほとんど何も知らないのに、一人でお昼を食べているのかと思うと放っておくことはできなかった。


 少し間を置いてから、真奈美は声をかけた。


「ねえ。天園さん、保健室にいると思うんだけど……お昼一緒に食べようって、誘ってみたいんだ」


 詩歩がすぐに振り返ってくる。その顔には、少しだけ戸惑いが混じっていた。


「天園さん? 誰だっけ」

「今朝、会ったんた。あそこのね空いてる席の子。色々あって、しばらく保健室登校してたらしくて」


 奏海も穏やかに顔を上げて、首を傾げた。


「ああ、あの席……。名前は聞いたことあるけど、ほとんど見たことない子だよね。なに、真奈美はもう話したの?」

「うん少しだけ。今朝、声をかけたの。だから、お昼も誘ってみようかなって」


 詩歩は腕を組んで、少し考え込むような顔をしたあと、すぐに肩をすくめた。


「いいんじゃない。真奈美がそうしたいなら、あたしも良いと思う。どんな子か気になるし」


 奏海も小さく頷いた。


「うん、そうだね。じゃあ今から一緒に行こうか」


 真奈美は二人の反応に少しだけ胸の力が抜けた。まだ何も知らない相手を誘うことに、自分でも少し迷っていた。それでも詩歩と奏海が理由を深く聞かずについてきてくれることが、今は心強かった。


 三人で廊下へ出ると、昼休み特有のざわめきが遠くで聞こえた。

 保健室は校舎の端にあり校庭に面した位置にある。窓から差し込む光が廊下を白く照らしていて、足元の影がくっきりと伸びていた。真奈美は無言のままその光の中を歩いた。詩歩が時々短い感想を漏らし奏海がそれに優しく応じる。三人の足音だけが、静かに重なっていく。


 途中、詩歩が真奈美の方を見た。


「ねえ、どんな感じの子だった? 朝会ったんでしょ」

「……静かで。丁寧な話し方で。あんまり人目につかないようにしてる感じだった」

「へぇ。なんか、気になるね」


 奏海も少し考え込むように言った。


「でもだから保健室登校してたってことだよね。……無理に誘わない方がいいのかな」

「うん……。でも、一応聞いてみようと思って」


 真奈美はそう答えてまた前を向いた。今朝の短いやり取りがまだ胸のどこかに残っている。友達増やそうってつい言ってしまって、わずかに驚いたような目。それを思い出すとやっぱり放っておけない気がした。


 保健室の前まで来ると、廊下の空気が少しだけ静かになる。

 真奈美はドアの前で一度だけ立ち止まった。

 それから、ゆっくりと手を伸ばした。

 保健室の前で足を止めると、ドアは少しだけ開いていた。

 真奈美が軽くノックをして中を覗くと、柚香はベッドの端に腰を下ろして、膝の上で手を重ねていた。プラチナブロンドの長い髪が頰に落ちていて、目元はほとんど見えない。赤いリボンだけが、窓からの光を受けて小さく輝いている。具合が悪い様子ではなかった。ただ、教室の喧騒から少し離れて、静かに時間を過ごしているように見えた。ベッドのそばには彼女の鞄が一つ。彼女は朝から、ここに身を置いている。

 真奈美は、ドアの枠に手を置いて言った。


「天園さん。一緒に食べない?」


 柚香は驚いたように顔を上げかけた。でもすぐに視線を落として、長い髪で目元を隠すようにした。唇が開いてすぐに閉じる。少し待って丁寧な敬語が、いつものようにゆっくりと出てきた。


「……いいんですか?」

「うん。さとし――あ、詩歩と奏海もいるけど」


 さとしとは真奈美と奏海が詩歩につけたニックネームだった。本人もどこかの主人公みたいでとても気に入ったみたいで、以降はずっとこの呼び名が気に入っていた。

 詩歩がドアの向こうから明るく手を振り、奏海も優しく微笑んだ。柚香は俯きながら、小さく「ありがとうございます」と返した。ベッドから立ち上がる動きは慎重で、余計なものを持たない手は、ただ小さく握られているだけだった。三人は彼女を待って、保健室を出た。

 三人は保健室近くに見える校庭へ向かう。

 保健室の窓の下にある小さな木陰。ベンチはひとつだけで、周囲には低い植木が植えられている。昼休みの校庭は遠くで球技をする声が聞こえるものの、この場所までは届きにくい。風が通るたびに、葉がさらさらと揺れ、草の匂いが穏やかに流れてくる。四人はそこに腰を下ろした。弁当箱を開きそれぞれの匂いが風に混ざる。

 奏海が自分の弁当から卵焼きを取り分けながら、会話を繋いだ。詩歩はテニス部の話を少しして、すぐに柚香の手元に目を止めた。小さな洋菓子が、丁寧にハンカチの上に並べられている。薄く焼き色のついたマドレーヌと、小さくカットされたパウンドケーキ。市販のものとは明らかに違う、手作業の丁寧さが伝わってくる形だった。


「それ、作ったの?」


 詩歩の声に、柚香はほんの少しだけ頰を染めた。顔は伏せたまま長い髪で目元を隠すようにしている。


「はい……少し。慣れているので」


 奏海が目を細めて感心したように頷く。真奈美は自分の箸を止めてその洋菓子を見つめた。表面に薄い粉糖がふわりとかかっていて、切り口がきれいだ。柚香の指先がハンカチの端を小さく押さえている。力を入れすぎないように、慎重に扱っているのがわかった。

 詩歩がひとつ分けてもらうとすぐに口に入れた。目を丸くしてゆっくりと噛む。


「甘い……けど、くどくない。おいしい」


 奏海も小さく笑いながら同じように受け取った。真奈美は自分の分を手に取る前に、柚香の横顔を見た。彼女は俯いたまま、自分の分を少しずつ崩している。周囲の反応を静かに受け止めているようだった。

 真奈美はマドレーヌを口に含んだ。

 優しい甘さがゆっくりと広がる。バターの香りが穏やかに立ち、砂糖の強さではなく、素材そのもののやわらかな味だった。舌の上で溶けるように消えていく感触が、胸の奥に小さな温かさを残す。真奈美は箸を置いて短く言った。


「すごく、おいしい」


 柚香は小さく「ありがとうございます」とだけ返した。耳の先端が、わずかに赤い。


 会話は自然に流れていった。詩歩が部活の話を続け、奏海が時々補足する。柚香はほとんど喋らないけれど、時折小さく頷いたり、短い相槌を打ったりしていた。真奈美はその様子を観察しながら自分の弁当を食べた。柚香の箸の動きは丁寧で音を立てない。長い髪が頰に触れないように、無意識に耳にかけようとしては、また落ちてくるのを繰り返している。目元はほとんど見えない。いつも通り、視線を合わせないようにしているように感じられた。

 そのとき、詩歩が冗談めかして何か言った。

 柚香が思わず顔を上げた。

 木陰を抜ける風が、その時ちょうど彼女の髪を揺らした。

 長い髪がわずかに開いて、今まで隠れていた目元がはっきりと露出した。

 左右で全く違う色をしている瞳。

 左目が透明感のあるスカイブルー。光を受けるとまるで浅い水面のように澄んで見える。もう片方が深みのあるクリムゾンレッド。静かに熱を宿したような落ち着いた赤だった。並んで存在する二つの色が、同じ顔の中で自然に収まっている。違和感というより初めて見る美しさだった。

 真奈美は箸を持った手を止めた。

 詩歩も言葉を失ったように目を丸くしている。奏海は小さく息を飲んだのがわかった。木陰の下に一瞬だけ静けさが落ちた。

 柚香は自分の目が晒されたことに気づいたようだった。すぐに顔を伏せ長い髪で目元を覆うようにした。赤いリボンが小さく揺れ、肩に力が入る。背筋がわずかに硬くなり、頰から耳にかけてみるみる赤みを帯びていく。周囲の視線を強く意識しているのがその仕草から伝わってきた。

 真奈美は声のトーンを落とさないように。


「すごく、きれい」


 ただ純粋にこぼれた言葉だった。

 柚香の手がハンカチの上で止まった。

 詩歩と奏海もこちらを見ている。でも、真奈美は彼女たちには目を向けなかった。ただ柚香の俯いた横顔を見つめていた。長い髪の隙間から、耳が赤くなっているのが見えた。唇が小さく動いて、何か言いかけるようにしてすぐに閉じられる。

 柚香はゆっくりと顔を上げた。

 今度は自分から隠さないようにしているのがわかった。オッドアイが再び光を捉える。スカイブルーの方は穏やかで、クリムゾンレッドの方は戸惑いを強く映している。真奈美はその色を改めて近くで見た。距離が近い。初めてはっきりとこの目を正面から捉えた気がした。


「……そんな、こと」


 柚香の声は細くて途中で消えかけた。

 真奈美は首を軽く横に振る。


「本当にきれいだと思う。隠さなくてもいいのに」


 柚香はまた俯いた。でも、さっきまでの硬さは少し溶けているように見えた。肩の力が抜けて長い髪が自然に頰に触れている。赤いリボンが呼吸に合わせて小さく上下する。


 奏海が優しく話題を変えた。詩歩もそれに乗るように別の話を始めた。校庭の遠くから聞こえる声は木陰を優しく包む。真奈美は自分の弁当に視線を戻しながら、柚香の横顔を時折観察した。

 洋菓子の優しい甘さがまだ口の中に残っている。

 柚香は少しずつだけれど箸を動かし始めていた。俯きがちにしながらも時折こちらを見る視線に、以前よりほんのわずかな柔らかさがあった。真奈美はそれを見逃さなかった。胸の奥で小さな何かが温かく灯るような感覚があった。初めて見たあの二つの色がまだ目の奥に残っていて。


 昼休みの終わりが近づくと、校庭の空気が再び動き始める。

 弁当箱を閉じる音が四人の間で小さく重なる。真奈美は自分の分を片付けながら、柚香が丁寧にハンカチを畳む様子を見た。指先が慎重で折り目を合わせる動きさえも静かだった。詩歩が「また一緒に食べよう」と気軽に言い、奏海も微笑んで頷く。柚香は小さく「はい」と返した。

 真奈美は立ち上がる前に一度だけ柚香の方を見た。

 オッドアイはもう伏せられている。でも、赤いリボンが光を受けて、小さく輝いていた。さっきまでの戸惑いが完全に消えたわけではない。それでも胸の奥に残った温かさは、確かにそこにあった。

 四人が木陰を離れると、風が後ろから追いかけてきた。

 校庭のざわめきが徐々に近づいてくる。真奈美は、自分の席に戻る道を歩きながら、口の中に残る優しい甘さと、初めて見た二つの瞳の色を、静かに胸の奥にしまっていた。

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