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第1話 真奈美と柚香、はじめまして

 春の朝は、まだ冷たい空気の中に甘い匂いを溶かしていた。

 桜の花びらが風に乗ってゆっくりと落ち、アスファルトの上に薄い影を作っている。斉藤真奈美はいつもの通学路を、少しだけ早足で歩いていた。セミロングの髪が風に揺れ、制服の裾が軽く翻る。高校に入学して一ヶ月が経とうとしていたが、新しい環境はまだ新鮮で、朝の空気そのものが少しだけ特別に感じられた。


 今日はなんとなく、目覚ましが鳴る前に目が覚めていた。

 部屋の窓から広がる澄んだ青空を見て、自然と足が速くなった。朝食をちょっと急いで済ませ、玄関を出た瞬間に感じた冷たい空気と、ほんのり甘い桜の匂いが、胸の奥を軽くくすぐる。肩に掛けたバッグが歩くたびに小さく揺れ、足元の影が朝陽に伸ばされていく。


「今日は少し時間に余裕あるし……」


 真奈美は、通学路の曲がり角で足を緩めた。いつもの道をそのまま進むのではなく、住宅街の隙間に続く細い道へ足を向けた。木々がまばらに生えたその道は、朝の静けさをそのまま残している。鳥のさえずりが遠くで聞こえ、道端には小さな白い花が咲いていた。昨夜の雨で濡れた落ち葉が、踏むたびに控えめな音を立てる。

 深呼吸をすると、新鮮な空気が肺いっぱいに広がった。

 自然と口元が緩む。いい天気。今日はなんか、いいことがありそうな気がする——そんな漠然とした予感が、胸の内側で小さく灯っていた。


 すると、空き地の奥の方で何かが動いているのが目に入った。

 真奈美はぴたりと足を止めた。

 そこにいたのは、一人の少女だった。

 プラチナブロンドの長い髪が朝陽を受けて淡く輝いている。白い制服がよく似合い、背中を丸めて地面にしゃがみ込んでいる後ろ姿が、周囲の景色から少しだけ浮いて見えた。少女の前には真っ白な猫がいて、喉を小さく鳴らしながら彼女の手に頭をすり寄せている。猫の毛並みは陽光を受けて雪のように白く、少女の指がゆっくりとその背中を撫でるたびに、柔らかく揺れていた。

 少女は猫に向かって、小さな声で話しかけていた。


「ゆきみ……今日はとってもいいお顔してる」


 その声は鈴を転がすように柔らかく、穏やかで、聞いているだけで心が落ち着くような響きがあった。風がわずかに吹き、プラチナブロンドの髪がふわりと揺れる。朝の静けさの中で、その光景は異様なほど美しく、真奈美は思わず息を飲んだ。


 (……きれいな人)


 自分の制服の袖を、無意識に指で摘まむ。少女の存在感に引き寄せられるように、真奈美はゆっくりと近づいていった。足音を立てないように気をつけているつもりでも、枯葉がわずかに擦れる音がして。白猫がこちらの気配にピンと耳を立てて真奈美の方を見た。金色の瞳が、警戒と好奇心を同時に宿している。


「あ……」


 少女も気づいて顔を上げる。

 整った顔立ち。儚げでありながら、どこか気品のある表情。目元は少し伏せ気味で、長い睫毛が影を落としている。朝陽が横から差し込み、その横顔を淡く照らしていた。初めて見るのになぜか懐かしいような、不思議な感覚が胸の奥に広がる。

 真奈美は慌てて笑顔を作り、明るく声をかけた。


「ごめんね。びっくりさせちゃった?」


 少女は一瞬、身を引くような仕草をした。すぐに丁寧に頭を下げると、髪がすべるように流れ、白い首筋がわずかに見える。


「……いいえ。こちらこそ、朝早くからすみません」


 声は敬語で、とても柔らかい。緊張しているのか、わずかに掠れている。真奈美はますます興味を引かれた。


「私、斉藤真奈美っていうんだけど。この高校の1年生。あなたも?」


 少女は少し迷うような間を置いてから、小さく頷いた。視線はまだ完全に合わせきれていない。


「はい……天園柚香と申します。同じ、1年生です」

「同じ学年なんだ。全然見たことなかった」


 真奈美が目を丸くすると、柚香は視線を少し落として答えた。指先が制服の裾をわずかに握っている。


「……私は、入学してからあまり、教室には行けていなくて。保健室にいることが多いんです」


 柚香の声にはどこか寂しげな響きがあり、真奈美は少し胸が痛んだ。白猫——ゆきみは、そんな二人の間にスルスルと入り、柚香の足元に体を預けている。まるでこの子を守るように、静かにそこにいた。

 真奈美はしゃがみ込んで、ゆきみに手を差し出した。

 ゆきみは警戒しつつも、興味を示して近づいてくる。冷たい鼻先が指先に触れた。毛並みは思ったよりも柔らかく、温かかった。


「この子、ゆきみっていうの? かわいいね」

「……はい。朝と夕方、よくここで待っていてくれます。私にとって、大切な友達です」


 柚香の指が、ゆきみの背中を優しく撫でる。白い毛並みが、朝の光を受けて柔らかく波打った。その仕草はあまりに丁寧で、まるで大切なものに触れるようにゆっくりとしていた。真奈美は自然と微笑んでいた。柚香の横顔には、いつもの控えめな緊張が少しだけ解けている。猫に向けられたその眼差しが、どこか優しい。

 ゆきみが小さく喉を鳴らす。柚香の指先が、その背中を繰り返すように撫で続ける。風が吹き抜けて、プラチナブロンドの髪を軽く揺らした。赤いリボンが、朝陽の中で小さく揺れている。

 その姿を見ているうちに、真奈美の胸の奥で、はっきりとした感情が湧き上がってきた。

 この子と、友だちになりたい。心から、そう思った。静かで、丁寧で、どこか孤独を抱えているような子。それでも猫にはこんなにも優しく触れられる子と、ちゃんと繋がってみたい。

 真奈美はしばらくその様子を見つめてから、静かに口を開いた。


「そっか。じゃあ……これからは友達、もう一人増やそうよ」


 屈託のない声だった。柚香が驚いたように顔を上げる。プラチナブロンドの髪が朝陽を受けて、一瞬強く輝いた。赤いリボンが、風に小さく揺れている。その瞳が、真奈美をまっすぐ捉えていた。驚きと、戸惑いと、ほんの少しの期待が混じったような色をしていた。


「私、ちょっとあなたのことが気になっちゃって。もしよかったら一緒に行かない?」


 柚香は一瞬、言葉に詰まった。誰かにこんな風にストレートに声をかけられるのは、久しぶりだったのかもしれない。彼女の指が、制服の赤いリボンをそっと握りしめている。リボンは少し古びていて、大切に扱われているのがわかる。


「……よろしく、お願いします」


 その声はまだ少し緊張していたが、真奈美はそれでも嬉しかった。真奈美が立ち上がって手を差し出すと、柚香は迷いながらも、細い指をそっと重ねてきた。

 真っ白な柚香の手は意外に冷たい。


「手、冷たいね。春なのに」

「……大丈夫です。昔からちょっと冷たいので」


 恥ずかしそうに柚香が小さく微笑む。その笑顔は儚く、でも確かにそこにあった。目尻がわずかに下がり、緊張が少しだけ解けたように見えた。

 二人は並んで空き地を後にした。

 ゆきみはしばらく二人の後ろ姿を見送り、小さく一声鳴いてから、木陰に消えていった。まるで「行ってらっしゃい」とでも言っているかのようだった。


 通学路に戻りながら、真奈美は柚香に色々と話しかけた。自分のこと、クラスのこと、今日の天気のこと、好きな食べ物のこと。柚香はほとんど相槌を打つだけだったが、真奈美はそれでも構わなかった。時折、柚香が小さく頷いたり、短い返事を返したりするたびに、胸の奥で「もっと話したい」という気持ちが静かに膨らんでいく。

 校門が見えてきた頃、柚香がぽつりと言った。


「……斉藤さん。今日は、ありがとうございます」


 声は相変わらず静かだったが、さっきより少しだけ柔らかくなっていた。


「ううん。これくらい。いつもこの時間位にいるのかな? 結構早めに来てるんだね」

「……はい。これくらいだと、人があまりいませんので……」


 どこか申し訳なさそうにそうつぶやく柚香ににこやかに頷いてみる真奈美。


「なるほど。わかったよ! じゃあ私もちょっと早めに来て、これから毎日声かけるからね」


 真奈美の明るい笑顔に、柚香は小さく頷いた。プラチナブロンドの髪が風に揺れ、朝陽を受けて淡く光る。

 朝の風が、二人の間を通り抜けていく。

 赤いリボンが、春の光の中で小さく輝いていた。

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