最終話 真奈美とエレンの、天使の贈り物
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事故から、数日が経っていた。
学校の空気は予想していたより穏やかに戻っていた。最初の数日は視線が集まった。羽の話、天使の話、屋上の一件。噂は広がり戸惑う生徒もいた。それでも、詩歩や奏海が普通に接し、秋が変わらず声をかけてくるうちに、教室の温度は少しずつ変わっていった。以前よりエレンに声をかける生徒が増えている。驚きはあっても、拒絶ではない。むしろ、気になって話しかけてくる子の方が多かった。エレンはまだ時折周囲を窺うように視線を泳がせることがある。でも以前のように一人で保健室に閉じこもることはなくなった。
真奈美は、その変化を静かに喜んでいた。
ある朝の待ち合わせ場所は、いつもの空き地だった。
通学路から少し離れた細い道の先。草が少し伸び始め、春の気配が薄く漂っている。ゆきみはすでに来ていて、朝日を浴びながら欠伸をしていた。真奈美が近づくとゆきみはゆっくりと起き上がり、足元へすり寄ってくる。
「おはよう」
頭を撫でる。柔らかい毛並み。いつもの感触が指に伝わる。少し遅れてエレンの姿が見えた。赤いリボンが、朝の光の中で小さく揺れている。自分の髪にも同じ色がある。反対側に結んだまま、ずっと身につけている。
「おはようございます」
「おはよ、エレン。早いね」
「はい。ゆきみに、会いたくて」
けれど少し間を置いて、エレンは俯きながら続けた。耳がわずかに赤い。
「……それと、真奈美さんにも。早く、会いたくて」
声が小さくて恥ずかしそうだった。それでもはっきりと聞こえた。
真奈美はその言葉に胸の奥がやわらかく温かくなるのを感じた。何も言い返さず、ただ隣に腰を下ろす。ゆきみがそんな二人の間に割り込むようにして座る。少しの沈黙。でも、居心地の悪いものではなかった。風が柔らかく頰を撫でていく。遠くで通学する生徒たちの声が聞こえる。日常の音だ。
「……あのあと、大丈夫だった?」
真奈美が聞くと、エレンは小さく頷いた。
「はい。最初は、怖かったです。見られることが。でも、詩歩さんや奏海さん、秋さんが普通に接してくれて。他の人も、徐々に……なんでなのか前より、声をかけてくれるようになりました」
「そっか。それはよかったね」
「真奈美さんのおかげです。あの場で、あの……ちゃんと言ってくれたから」
真奈美は俯いてゆきみの背中を撫でた。あの校庭での言葉を今でもはっきり覚えている。
天使でもハーフでも関係ない。大好きな人だよ、と。人前で言った。自分でも意外なほど自然に出てきた言葉だった。
「言えてよかった。本当に」
エレンが横顔を見てくる。真奈美も顔を上げた。目が合う。以前より、少しだけ距離が近い気がした。赤いリボンが、二人の髪で同じように揺れている。
しばらく何も言わなかった。
ゆきみが喉を鳴らし真奈美の膝に頭を乗せてくる。その重みを感じながら、真奈美はゆっくりと息を吐いた。指先でゆきみの背を撫でる。柔らかい毛並み。いつもの感触なのに今日は少し違って感じられた。
言わなければならないことが胸の中にある。もう、遠くにはない言葉。ずっと抱えていたもの。口に出せば何かが変わってしまう気がする。それでも、出さずにいる方が今は難しかった。
風が二人の間を通り過ぎていく。ゆきみが小さく動く。その音だけがしばらく聞こえていた。
「ねえ、エレン」
名前を呼ぶと、彼女は何も言わずこちらを見た。静かな目。待っているような、でも急かさない目。真奈美はその視線を受け止めたまま少しだけ間を置いた。
「好き、という言葉は」
自分の声が意外なほど落ち着いている。続きを探すようにしてから小さく続けた。
「もう、ここにあるよ」
胸に手を当てるでもなくただそう言った。エレンの目がわずかに揺れた。すぐに何か言うわけではない。ただ、真奈美の顔を見つめている。唇が小さく動く。言葉を選んでいるのがわかった。
しばらくして彼女も静かに口を開いた。
「……はい」
一度、息を吸う。天使の声は少し震えていた。
「私も、ここにあります」
逃げなかった。目も逸らさなかった。真奈美は手を伸ばしエレンの指に触れた。冷たい。いつも通りの彼女の手だ。それをそっと握る。握り返す力がすぐに返ってきた。
また短い沈黙が落ちる。
ゆきみが二人の手を嗅ぐように顔を寄せてくる。その仕草に、真奈美は小さく息を吐いてエレンがクスッと笑う。緊張が少しだけほどけた。
「好きだよ」
今度ははっきりと言った。
エレンの指が握る力を強くする。目の奥が、ゆっくりと熱を帯びていくのがわかった。彼女は俯きかけてそれでも顔を上げ直した。
「……私も、好きです。真奈美さん」
天使の声は最後でわずかに掠れた。なのに言葉は確かに届いた。特別な演出も、大きな出来事もない。ただ、いつもの場所で、いつもの猫を挟んで、お互いにそれを確認しただけだった。なのに胸の奥が熱くて静かに満たされていくのがわかった。
ゆきみが小さく鳴いた。二人の顔を交互に見てまた欠伸をする。その様子に真奈美は自然と笑った。エレンも目を細めて笑っている。天使のハーフで、羽を持ち、力を持つ人。それでも今はただ、隣にいる好きな人だった。
「天使の贈り物を、ありがとう」
真奈美が静かに言った。
エレンが首を傾げる。
「贈り物、ですか?」
「うん。エレンが来てくれたこと。隣にいてくれたこと。羽を広げて、助けてくれたこと。全部。私にとっては、天使の贈り物だった」
エレンはしばらく動けずにいた。それからゆっくりと俯き、真奈美の手を握り返した。力が少し強い。涙は流さない。なのに目の奥が潤んでいるのがわかった。
「……こちらこそ。真奈美さんに出会えて、よかった。私にとっての天使。天使の贈り物をありがとうございます」
真っ直ぐに届けられる天使の声だった。
二人はもうしばらくその場に座っていた。ゆきみが時折動くたびに草の匂いが薄く立つ。空が少しずつ高くなっていく。登校の時間は近い。でも急ぐ気にはなれなかった。この場所でこの温度のまま、もう少しだけ沈んでいたい。
真奈美はエレンの顔を見た。
彼女もこちらを見ている。目が近い。呼吸が重なる。
左目は透明感のあるスカイブルーで、光を受けると、まるで浅い水面のように澄んで見える。もう片方は深みのあるクリムゾンレッド。静かに熱を宿したような、落ち着いた赤だった。並んで存在する二つの色が、同じ顔の中で自然に収まっている。何度も見ているはずなのに、こうして近くで見つめ合うとまた違って見える。特別なものとしてではなく、ただ「エレンの目」として胸に落ちてくる。
自然と顔が近づいていた。唇が、そっと触れる。柔らかくて、冷たくて、とても優しいキスだった。深くはない。長くもない。ただ、確かにあるという感触だけが残る。
離れるとエレンの耳が赤くなっていた。真奈美も頰が熱いのがわかった。なのにどちらも目を逸らさなかった。ゆきみがその様子を眺めてから、また欠伸をする。
「……そ、そろそろ、行く?」
エレンが、小さな声で言った。
「——! うん!」
そして立ち上がる。ゆきみが少し名残惜しそうに足元を擦るが、すぐに別の方向へ歩き出す。いつものことだ。真奈美は一度振り返ってゆきみの後ろ姿を見送った。初めて声をかけられた場所。天使の羽を見つけた場所。好きだと、お互いに確認した場所。全部がここに重なっている。
並んで歩き出す。
肩が自然と触れそうになる距離。赤いリボンが二人の髪で同じリズムに揺れる。言葉は少ない。それでも足りないとは感じなかった。手と手が時折触れ合う。そのたびに小さく温かいものが胸をよぎる。さっきのキスの感触がまだ唇に残っている。
校門が見えてくる。
生徒たちの姿が増えていき、日常が静かに待っていた。卒業式も近い。その先にどんな時間があるのかはまだわからない。でも、隣にいる人がいる。好きだと伝え合った人がいる。それだけで十分に前を向ける気がした。
「真奈美さん」
「ん?」
「……これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくね」
短い約束。特別なものではない。なのに、今日はそれがずっと長く続くように感じられた。
二人は並んだまま校門をくぐった。
春の風が背中を優しく押していく。ゆきみのいた空き地はもう見えなくなっている。それでもあの場所の感触は、胸の奥に残っていた。好きという言葉と赤いリボン、羽の温かさと優しいキス。
天使の贈り物は、きっとこれからも、二人の隣にあり続ける。
おわり




