第31話 真奈美とエレン、大好きな人
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地面に足がついた瞬間、膝が折れそうになった。
真奈美は腕の中で、自分が生きていることをようやく理解した。風の音が戻ってくる。遠くで誰かが走ってくる足音。悲鳴のようなものが、まだ耳に残っている。体が重い。手先が、ひどく冷たい。
なのに、腕の中は温かかった。
強く抱きしめられている。離さない力。震えているのが、自分なのか、相手なのか、わからなかった。呼吸が、すぐ近くで乱れている。
「……真奈美さん」
声が掠れていた。声のもとへ真奈美はゆっくりと顔を上げる。エレンが自分を見ていた。目が赤い。頰を涙が伝っている。なのに、表情は安堵と、何かに近いもので固まっている。
「無事、ですか。痛いところは……」
「……うん、大丈夫。……生きてる」
それだけ言って、真奈美は自分の手を見た。指が、強く何かを握りしめている。赤い布。風に流されて、掴み損ねたはずのリボンだ。いつの間にか、手の中に戻っていた。力を込めて握っていたせいで、リボンには小さな皺が寄っている。
エレンの視線が、その手に落ちた。
「……リボン」
声がさらに低くなる。
「どうしたんですか。まさか、これのために……?」
真奈美は否定できなかった。言葉にするまでもなく、相手にはわかってしまったらしい。俯いて、リボンを握り直す。
「だって……これは……。大切な人からもらった、大切なものだから……」
その言葉が落ちた瞬間、エレンの肩が大きく震えた。
「……バカ」
小さな声だった。なのに、はっきりと聞こえた。次の瞬間、彼女は真奈美の肩を掴み、顔を上げさせた。涙で視線が揺れている。怒っている。本当に、怒っている目だった。
「なくなっても、また結べばいいでしょう。リボンは、いくらでも作り直せます。でも、真奈美さんは……!」
声が途中で詰まった。続きを言えないまま、エレンは俯いて、真奈美の肩に額を押し当てた。肩が小さく震えている。怒りと、恐怖と、安堵が、全部混ざったような震え方だった。
「……二度と、しないでください。お願いです」
真奈美は、何も言い返せなかった。ただ、彼女の背中に手を回す。その時指先が、何か異質なものに触れた。
ふわりと温かい、光に包まれるような感触。
背中に、大きく広がっているものがある。
真奈美は、ゆっくりと顔を上げた。エレンの後ろで、半透明の翼が風に揺れていた。それは物理的なものではない。淡い光を帯びた輪郭。そう、教室の窓から飛び出したとき、確かに見た気がする。落ちる自分に向かって、一直線に来た光。
「……羽」
声が、自然と漏れた。
自分の声なのに、どこか他人事のように聞こえた。羽がある。エレンの背中に確かに広がっている。そして校庭にいて、みんなが見ている。その事実が、遅れて押し寄せてきた。
「え……待って。これ、みんなの前で……」
真奈美の声が、上ずる。周囲を見渡す。すでに多くの生徒と先生が集まっていた。みんなが、こちらを見ている。光の羽を。二人を。助けられたばかりの自分と、それを抱きしめたままのエレンを。
焦りが一気に胸を満たす。隠さなきゃ。何か言わなきゃ。なのに、言葉がうまく出てこない。エレンの方を見る。
けれど彼女は、羽を隠そうとはしていなかった。
血の気が引いているわけでもない。ただ、静かに、覚悟を決めたような目で、真奈美を見ていた。怖くないはずがない。なのに、逃げていない。翼を広げたまま、ここに立っている。自分を助けるために、選んだ結果だと、その目が言っていた。
「……大丈夫です」
エレンが、小さな声で言った。震えてはいる。でも、引っ込めるつもりはないらしい。
「私は、もう……隠さないと決めました。真奈美さんを助けるって、決めたときに」
真奈美は、その言葉に息を飲んだ。焦りと、驚きと、何か熱いものが同時に込み上げてくる。みんなが見ている。それでも、この人は羽を畳まない。自分のために、晒したまま立っている。
校庭のざわめきが、徐々に大きくなっていく。
「あ、天園さん……?」
「さっき、空を飛んで……?」
「羽が……出てる」
詩歩が、最初に近づいてきた。
「柚香ちゃん……今の、本当に」
奏海も続く。秋も、少し離れた位置からこちらを見ていた。誰も、すぐに言葉を続けられない。ただ、驚きと、戸惑いと、それでも離れずにいる視線だけがあった。
エレンは、俯いたままではなく、静かに顔を上げた。声は震えている。それでも、隠し立てするつもりはないらしい。
「私は……天使です」
はっきりと、言った。
「正確には、ハーフです。母が天界の者で、父が人間でした。私は、その半分ずつを持って生まれました」
息を吸う音が、周囲から小さく漏れる。エレンは自分の手を見下ろしてから、続けた。
「羽も、力も、持っています。普通の人間とは、違います。感情が大きく動くと、抑えきれなくなることも……あって。昔は、それで……周りを怖がらせてしまいました。だから、ずっと隠していました。誰にも近づかないように、目立たないように」
声が途中で少し掠れる。それでも、彼女は言葉を止めなかった。
「でも、今日は……隠さないと決めました。真奈美さんを助けるために。羽を、力を使って。みんなの前で、自分が何者かを晒してもいい。……それくらいに、私は大切だったんです」
沈黙が、落ちた。
風だけが、校庭を通り過ぎていく。誰かが息を飲む音がした。先生の一人が、何かを言おうとして、言葉を失っている。エレンの肩は強張っている。怖がっている。それでも、もう後には引けないと決めた目をしていた。自分の正体を、初めて自分の意志で、人前に置いた人の目だった。
真奈美は、震える彼女の手を取った。
冷たい指。いつもより、さらに冷たい。真奈美は、その手を両手で包み、顔を上げさせる。エレンの目には、まだ涙が残っていた。恐怖の色が濃い。
「でも、みんなの知っている天園柚香だよ」
真奈美は、はっきりと言った。周囲に聞こえるように。自分の言葉が、彼女に届くように。
「綺麗で、可愛くて、歌が素敵で、頑張り屋で。いつも丁寧で、優しくて。私のことを、ずっと大切にしてくれる人。天使。とても美しい天使の女の子」
エレンの目が、大きく見開かれる。
「でも天使でも、ハーフでも、関係ない。私は、柚香が好きです。大好きな人だよ」
声が少し震れた。それでも、言葉は最後まで出し切った。エレンの瞳から、新しい涙が溢れる。次の瞬間、彼女は真奈美に抱きついてきた。翼が、二人を包むように小さく揺れる。温かい。光のような感触が、背中に広がった。
「……真奈美さん!」
名前を呼ぶ声が、完全に泣いていた。真奈美は彼女の背中を抱きしめたまま、周囲を見渡した。
詩歩が、息を吐いて、短く笑った。
「……そりゃそうだよ。天使でも、柚香ちゃんだよな」
奏海も、優しく頷く。
「うん。別に、何も変わらないよ。柚香ちゃんは柚香ちゃん」
秋は少し離れた位置から、静かにこちらを見ていた。複雑な色が瞳にある。それでも、唇はわずかに緩んでいた。他のクラスメイトたちも、ざわめきながらも、拒絶する気配はなかった。驚いている。戸惑っている。それでも、ここにいる。
「柚香ちゃん、羽……綺麗だね」
誰かが小さな声で言った。別の誰かが、続けて優しく笑う。緊張が、少しずつ解けていく音がした。先生の一人が、ようやく口を開く。
「とりあえず、保健室へ。話はあとだ」
現実的な声が、場を落ち着かせる。エレンはまだ真奈美から離れられないまま、小さく頷いた。翼が、徐々に光を弱めていく。完全には消えない。それでも、もう隠そうとはしていなかった。
真奈美は、彼女の手を握ったまま、一歩を踏み出した。
羽の温かさが、すぐ近くにある。さっきまで落ちていた高さから、助けてくれた人。リボンを握りしめていた自分を、泣きながら叱ってくれた人。そして今、みんなの前で「天使です」と震える声で伝えた人。
全部が、胸の中で重なっていく。
「ありがとう」
小さく言った。エレンは顔を上げず、ただ手の力を強くした。
校庭を、二人が並んで歩き始める。後ろから、詩歩と奏海がついてくる気配があった。秋の視線も、少し離れた場所から感じる。拒絶ではなかった。戸惑いを含みながらも、受け入れようとする温度だった。
赤いリボンが、真奈美の手の中で小さく皺を寄せている。
なくしたくなくて、手を伸ばした。そのせいで落ちそうになった。それでも、彼女は追いかけてくれた。羽を広げて、みんなの前で。
真奈美は、そのリボンを握り直した。
もう、失わない。
この手を。
素敵な天使を。
風が、春の気配を運び始めていた。




